楽しく遍路

四国遍路のアルバム

岩本寺 片坂 熊井坂 伊与喜 佐賀 井の岬越の道

2016-01-28 | 四国遍路

 
この記事の末尾へ 新しいアルバムの目次へ  古いアルバムの目次へ  神々を訪ねて目次へ


窪川の朝
今号では、窪川から井の岬までを報告します。井の岬では、トンネル越えの道を歩いてみました。


岩本寺
朝散歩の途中、今日の安全を願いに参りました。


岩本寺
読経の声に励まされます。


大きな木
無名の大木。こういうものの存在が、うれしいんです。


国道56号線
今日は国道歩きが基本です。


徳右衛門道標
国道沿いに(足摺までの距離を示す)徳右衛門道標がたっています。国道は、ここら辺では、旧遍路道(中村街道)をなぞって走っているようです。


片坂峠へ
片坂峠道への入り口です。一時、国道から離れます。


片坂峠へ
峠道が、あたかも三日月湖のように、国道から切り離され、取り残されています。


祈攸
・・天満宮春祈祷氏子安全守護攸
祈願札が立ち、道行く人たちを守っています。
ここに天満宮のお札を立てる、・・代々伝わる慣わしでしょう。・・とはいえ、土地の人がこの道を歩くことは、今はもう、ほとんどないと思われますが。


天満宮
天満宮は集落の産土神社です。集落の入り口に鎮座していました。


峠道
国道56号へ、峠をくだります。
四国遍礼名所図会に、・・片坂、上り一丁ばかりにして、下り十丁余、これは昨日通りし添蚯蚓坂、半里上りしに、下り五丁ばかりゆえ、ここにてもどし、・・とあります。


峠道から
昨日は添蚯蚓を登って窪川台地に上がりました。今日は、片坂を下って窪川台地を降ります。片坂はほとんどが下り。「片」坂の名の興りかもしれません


休憩所
峠に高岡郡と幡多郡の郡境があります。降りた所は幡多郡です。片坂は幡多への東門ということになります。


遍路墓
遍路墓がいくつも並んでいます。やはり国道56号は、ここらでは、古い遍路道(中村街道)をつぶして建設したようです。


四国の道道標
橘川橋バス停のところに、右に入る道があり、四国の道道標がたっています。市野瀬から伊与喜に出る道です。この道は、すこし距離が長くなりますが、いい道だと思います。


江藤新平
道標の側に小さな石碑がたっています。「江藤新平幹部(山中一郎 中島鼎蔵)捕縛地」とあります。「江藤新平 幹部」とは、江藤が党首であった「征韓党の幹部」、という意味でしょうか。
佐賀の乱に敗れ、土佐で捕縛されました。


江藤新平・甲浦遭忌の標
江藤新平は甲浦まで逃れ、捕縛されました。山中、中島とともに佐賀に送り返され、斬首されます。
遭忌の標は、江藤の・・偉大な功績を顕彰する・・として建てられたものですが、今日もなお日韓間に残る深い「傷」をおもうとき、功もあれば罪もあったことを、忘れてはならないと思います。


国道
私は四国の道は行かず、ちょっと律儀に「協力会地図」に従って、国道を歩きました。


歩いて来た道
ふり返ると、歩いてきた国道が長く延びていました。先人たちの歩く姿が目に浮かぶような、そんな景色でした。


医心橋
この橋を渡り、伊与木川右岸にでます。


四国の道道標
右岸には、さきほどの四国の道が通っています。この道を歩いてきてもよかったわけです。


伊与木川
「いよき川」は伊与木川ですが、地名の「いよき」は伊与喜です。
真念さんの四国遍路道指南に「いよぎ谷」という名が出ています。漢字で書くと、どうなるのでしょう。この辺に多くお住まいの「いよき・さん」は、「伊与木さん」だそうです。


電車
とまれ、伊与木川が造った「いよき谷」を縦断して、国道と土佐くろしお鉄道が走っています。



清流です。鮎と思われます。「佐賀の伊与木川を守る会」が放流しているそうです。
「いよき」の「いよ」は魚’(いお)、「き」は、場所を意味する’く’から来ている、という説があります。「いよき」は、魚がたくさん獲れる所、ということのようです。



こちらは鯉でしょうか。


流人万六の墓
・・・対岸の山中にあり。土佐町から流刑され、ここ小黒川に住んでいたといわれる。ドクレと頓知で親しまれ、嘉永3年(1850)永眠す。・・・とあります。ドクレは、へそ曲がり、というような意味だそうです。



万六は農民一揆の首謀者として「重追放」に遭い、土佐郡森村(現土佐町)から流されてきました。


市野々橋
市野々橋を渡り国道56号に復帰します。


四万十町・四万十市
四万十「町」と「市」、があります。四万十の名がほしかったのでしょうが、ややこしいことです。
右折し、四万十市に向かいます。


熊井坂へ
ふたたび国道から離れ、熊井坂(熊越坂)に向かいます。片坂と同様に、国道から取り残された峠道です。


熊井坂
忸怩たる思い出があります。一巡目でのことです。
私たち(北さんと私)は、片坂、熊井坂ともに、道標を見落として国道を歩いてしまいました。佐賀の宿に着いたのは、暗くなってからでした。


熊井坂へ
熊井坂は、伊与喜郷と佐賀浦を分かつ峠です。


熊井トンネル
峠に、明治38(1905)、トンネルが抜かれました。
トンネルに使われているレンガは、一個一銭で、小学生などが佐賀港から運んだと、説明看板に記されています。


トンネル
トンネルを抜けて佐賀へ降りてゆきます。


合流
峠道は土佐くろしお鉄道と交差します。
鉄道は峠の下の長いトンネルを抜けてきましたが、国道にはトンネルはなく、伊与木川に沿って大迂回しています。


国道
ふたたび国道を歩きます。


国道
「かつお街道」とか「塩の道」などの看板が立っていました。山の幸と海の幸を交換する道だったのでしょう。
市野瀬とか市野々という地名は、「市」がたったことの名残かもしれません。


伊与木川
伊与木川が河口の広がりを見せてきました。


鹿島が浦
沖に浮かぶ小さな島は鹿島です。鹿島神社が祀られています。昭和31(1956)までは女人禁制だったとのことです。
私たちはこの先、土佐清水で、そして伊予北条でも、同様の景色・・・小島に鹿島神社・・・を見ます。鹿島神宮の縁起に発する景色です。


土佐清水の鹿島
土佐清水の鹿島も同様の形をしていますが、今は陸続きになっています。


伊予北条の鹿島



佐賀浦は江戸時代の一時期、室戸の津呂と並ぶ捕鯨の地だったといいます。しかし明暦3(1657)、終焉を迎えています。野中兼山が亡くなる7年前のことです。
兼山は捕鯨奨励策をとっていましたが、どんな事情があったのでしょう。


井の岬へ
井の岬の上には江戸時代、火立場(沿岸警備のための狼煙場)があり、軍国主義の時代には、帝国海軍の監視所が置かれていました。今は電波塔が立っているようです。
しかし、そもそもの始まりは、沖の、潮吹く鯨を見つけるための、山見をする所だった、と言われています。


白浜
白浜の先で国道は90°西にまがり、井の岬トンネルに向かいます。


井ノ岬トンネル
トンネルを抜ける道のほか、岬廻りの海沿い道もあります。
古くは「松山坂」という峠越えの道もあったそうです。四国遍礼名所図会に、「・・佐賀町・・小川・・なだ峰坂・・白浜村・・松山坂(佐賀より麓迄二里、内一里磯辺坂に右へ上がる) 峠に休足。足摺の御岬見ゆる・・」という記載があります。
ただ、四国遍路道指南には「・・白浜村、此間に なだみね坂。・・いだ村・・」とあり、「松山坂」の記載はありません。(近くに「灘」という地名が残っていることから)「なだみね坂」が「松山坂」かとも思われますが、四国遍礼名所図会の記述とは合致しません。


井の岬トンネル越えの道
トンネルの先の宿で、耳寄りな情報をいただきました。津波のときの逃げ場について、雑談していたときのことです。
・・・私の知人は、家の前に昔の遍路道が通っているので、そこを駆け上がることに決めているそうです。その道は、今は塞がって通れませんが、ある程度上までは行けるようですよ。


井の岬
私の関心は、すっかり、「津波」から「昔の遍路道」に向いてしまいました。それはもしかしたら「松山坂」と呼ばれた道なのかしらん?
翌朝、登り口を教わり、登ってみることにしました。むろん足弱の私ですから、キツイとなれば、すぐ引き返すつもりでした。


登り口
登り口は、天恢さんのご協力を得ていたこともあり、すぐ確定できました。ストリートビューを試してもらったのです。


登り口
登り口に立ってみて、これは「松山坂」ではない、たぶん、枯雑草さんが「四国遍路掲示板」に記されている、「西灘の神社手前から入る峠越えの道」だろうと思いました。「この道は伊田方面からの電波鉄塔への道に」つながると記されています。また松山道は、(ご自分のブログで)「昔は今のトンネルの北側に山を越える道があったようです」と記されています。



しかし、せっかく来たので、すこし登ってみることにしました。
黒いホースが見えますが、沢から水を引いています。



ホースから別れて、右に登ります。



あまりにもしっかりしている道なので驚きましたが、・・・



その先に果樹園のような畑があり、このため、しっかりしているのだと思いました。



畑は二段になっており、段差の部分に、かすかに道跡があるように思われたので、奥まで進んでみました。
道は、樹木の茂りをくぐって、先に通じているようです。



茂りをくぐると、道が見えました。



この先にも畑があるのかと思わせるような、しっかりとした道です。



しかし、ほとんど通る人はいないようです。枯れ竹が雨水に流されて堰をつくっています。しかし枯れ竹はバキバキと気持ちよいように折れてくれました。



堀割道が続いています。



多少の障害はありますが、道自体はしっかりしています。


平地
平地に出てきました。ジグザグに歩いて、家の基礎跡や畑の跡をさがしてみましたが、私にはわかりませんでした。



さらに先に進む道があり、・・・


平地
ふたたび平地がありました。



道はさらに続いています。



多数の人が歩き固めた道なのでしょう。



固い地面が竹の侵出をはばんでいます。ちょっと感動しました。


猪のぬた場
泥が溜まっています。猪がいるのです。しかし道を掘り起こした様子はありません。


四電
四国電力の標識がありました。


電柱
四電の手が入っているのかもしれません。



ここが峠と思われます。丁石や石仏など、探しながら歩きましたが、ありません(見つかりません)でした。やはり松山坂とは別の道なのでしょう。
しかし、この道の方が楽に岬を越えられたとも思われます。土地の人が伝えるように、遍路もまた歩いたのではないでしょうか。


工事道
すこし下ると、車の跡がついた道が見えました。



この道が、枯雑草さんが記している、「伊田方面からの電波鉄塔への道」なのかもしれません。


遠見の山?
上り方向に見える山に、電波塔があるのでは?
登ってみようかとも思いましたが、下ることにしました。今、後悔しています。



すこし下るとガードレールがあり、(工事道は左に延びているのですが)、右手に、古い道らしいものが見えました。


ふたたび道
茂りをくぐった先に、ふたたび道がありました。進んでみました。



路肩が崩れかかったところもありましたが、危険というほどではありませんでした。


トンネル出口
やがて、トンネルの伊田側口が下に見えました。


伊田方向
ともかく、岬を越えました。


降り口
古い道はまだ続いていたのですが、トンネル出口近くの資材置き場への取り付け道路に、2㍍ほどずり落ちて降りてしまいました。


バス停
資材置き場の側に井の岬バス停がありました。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
松山坂、もし次回が許されるなら、歩いて見たいものです。今日歩いた道との間に、連絡道があったかもしれません。
さて、次回更新予定は、間に四週間おいて、2月25日とさせてください。

 この記事のトップへ 新しいアルバムの目次へ  古いアルバムの目次へ  神々を訪ねて目次へ
コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 焼坂峠 土佐久礼 添蚯蚓道 ... | トップ | 井の岬から 入野 四万十川 白... »

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
♫この木なんの木 気になる木~ (天恢)
2016-01-30 20:31:55
 浮世は何かと気忙しく、お正月気分に浸ることも許されず、ほどなく2月を迎えます。 今回も「岩本寺~井の岬越の道」を楽しく読ませていただきました。
 さて、タイトルですが、「♫この木なんの木 気になる木 名前も知らない木ですから…」と続くご存知「日立」のCMソングです。 4番目の写真、この木は「クスノキ」ですよね? 間違ってたら教えてください。 樹々の成長が早い南国土佐ではこの程度の大木は珍しくもないので無名なんですね。 機会があれば訪ねてみたいのが、幹回り18m、樹齢1200年を超すとされる、お隣の須崎市大谷のクスノキ。 天然記念物に指定さているそうですが、すべてを包み込んでくれそうな巨木の存在はうれしく、楽しくなります。

 さてさて、今回の感動場面は、6番目の片坂峠への入り口の写真を見てびっくり、見覚えある修行大師像と孫悟空像が立ちはだかっているじゃありませんか! 5年前は資材置場を左折してすぐのお宅の門前に仲良く鎮座していました。 実は天恢も「楽しく遍路」さん同様に道標を見落として上りは峰の上のバス停から下りはコンクリート工場までを行き来した苦い思いが残っています。 当時の写真を見れば道標が余りに小さく、これに気付かず通り過ぎた人も多かったことでしょう。 今は、お大師様が待ったを掛けて、大き目の看板に「へんろ道ここから入る」となっています。 
 熊井坂というのですね? 片坂峠も初めて正しい地名を知りました。 熊井隧道は「トンネルというものは入り口は大きいが出口は小さいものじゃのう」と言った人がいたそうで、忘れられない遍路の名所です。 それにしても遍路道も道標もわかりづらいです。 真稔さんの時代と違って、直進する広い新道が次々と造られ、旧道は潰され、井の岬越の道のように地元の人からも忘れ去られた遍路道も出てきます。 
 そこが世界遺産・熊野古道と違うところのようです。 昨年11月にNHKテレビの『新日本風土記・熊野古道伊勢路』で「100年の眠りから覚めた峠道 ~世界遺産の峠を掘り起こした老夫婦」の物語が放送されました。「三木峠」という100年の眠りから古道を20年前に蘇らせた老夫婦が、新たな挑戦で、4年前から峠の丘に「フジバカマ」を植えて、「アサギマダラ」を呼び寄せる試みをされていました。 「旅する蝶と古道を歩く旅人との出会いの場にしたい」との、今も童心を忘れない古老の言葉が印象に残りました。 
 ズタズタに切り裂かれた中村街道の有り様をみて、遍路道も熊野古道のような復元は無理です。 過疎化・疲弊化していく地元の方たちに遍路道や道標をもっと整備してとは言えません。 せめて四国88ヶ所遍路を「世界遺産」に申請するには厳しいものがあることだけは知るべきでしょう。
返信する
待てとお止めなされしは 、拙者がことで・・ (楽しく遍路)
2016-02-01 14:09:39
毎回、楽しいコメントをありがとうございます。
早くも二月を迎えてしまいました。とすると、遍路の季節も近い・・・。これまた別の意味で気忙しくなりそうです。

さて、この木なんの木・・なのでしょう。楠だと思いますが、確かめてはいません。樟脳の臭いでも、嗅いでみればよかったですね。
教えていただいた「須崎の大楠」は、次回が許されれば、見にゆきたいと思います。ときどき疑問符付きの「千年杉」に出会ったりしますが、天然記念物であるなら、正真正銘の樹齢1200年でしょう。お大師さんと同い年です。これは見なければなりません。

お大師さんの足下に悟空さんがいたのですか。私は石が転がっているのかと思ってました。悟空さんには、失礼致しました。
お大師さんの「待った」にもかかわらず国道を歩く方もいらっしゃるようです。降り口の休憩所で休んでいると、国道を歩いてくる人と出会いました。
その方は、少し足の調子が悪いようでした。上り下りを行くよりも、固くても平坦な道を選んだようでした。また、国道の方が早いと考える人もいらっしゃるようです。
どの道を選ぶかは(人に迷惑をかけない範囲で)、一人ひとりに任されており、それぞれは自分が選んだ結果に責任を持つことになります。今回、私はトンネルを越えましたが、自分の脚力を考えると、少し軽率だったかもしれません。

新日本風土記、きっと再放送があるでしょう。ぜひ見たいと思います。熊野古道、私はまだ歩いたことがないのです。嗚呼、やり残していることがあまりにも多い!

松山坂は中村街道の一部なのですから、郷土史家などによって、確認されているに違いありません。ただ、今回私が歩いた道もそうでしたが、登り口の部分が民家にかかっていたりして、ズカズカ通るのははばかられるのかもしれません。今しばらく、松山坂は眠るのでしょうか。
返信する
昔の道 (枯雑草)
2016-02-01 14:55:30
楽しく遍路さん。こんにちは。
いつも楽しく拝見しています。
井の岬トンネルの上の地道、通られたのですね。この道は国土地理院の地図にも載っています。峠の先の車道(写真に撮られている道)が電波塔への道だと思います。
「松山坂」あるいは「なだ峰坂」と呼ばれた旧遍路道は、明治以降(もっと最近か)廃れ、1969年のトンネル開通までは、遍路もこのトンネルの上の道や井の岬をまわる道を通っていたのだと思います。
私のブログ(平成25年秋 その3)に追加した地図に旧道の松山坂の想定経路(もとは小松勝記さんの調べ)を赤点細線で表示しています。灘からの入り口を私は見つけられませんでした。伊田側からなら峠までは容易に行けるのではないかと思います。
返信する
私の2.5万地図 (楽しく遍路)
2016-02-02 15:10:07
枯雑草さん コメントありがとうございます。

あの道、やはり上がってみるべきでした。電波塔まで行けば、また別の発見があったかもしれず、平易な道であっただけに、ちょっと悔やまれます。
私が持っていた2.5万地図では、灘から来る道と伊田から来る道がつながっておらず、現在地の把握に自信が持てませんでした。それで怯んだのですが、枯雑草さんの地図を使わせてもらっていたら、別の判断があったかもしれません。

私が使っている2.5万地図には、(無料サイトから得た地図だからでしょうか?)、たとえば鎌大師が記載されていないなど、時折、困らされることがあるのですが、今回のことで言えば、松山寺への道が(寺の印はなくて道だけですが)記載されているなど、いいところもあります。それで、この地図を持参したのでした。

とりわけ、灘から入る道の峠の辺りから、トンネルを横切るように北西に向かう破線が記されていることに、私は注目していました。本文の末尾で松山坂との連絡路につき、ちょっと触れましたが、実は、北西に向かう破線は松山坂との連絡路かもしれない、と考えていたのです。
破線はトンネルを越えた先の小ピークで止まっていますが、そのピーク辺りから東西に尾根が延びています。この尾根に松山坂道があるのではないか、そんな想定を、きわめて根拠薄弱ですが、楽しんでいたのでした。

私には藪漕ぎは無理なので、机上での楽しみにすぎないと考えていたのですが、「伊田側からなら峠までは容易に・・」には励まされました。さすがの着眼ですね。これなら、私にも(いつのことになるかは知れませんが)、できるかもしれません。
またいろいろとご教示ください。
返信する

コメントを投稿