楽しく遍路

四国遍路のアルバム

焼坂峠 土佐久礼 添蚯蚓道 仁井田・富岡堰 五社・高岡神社 岩本寺   

2016-01-07 | 四国遍路

 
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焼坂遍路道開通
10月上旬、数日前のことです。焼坂峠の通行が可能となりました。「公認先達・歩き遍路の会」のHPによると、昨年(H26)の7月以来、台風による崩落などのため、1年余にわたり通行止めでした。


焼坂峠へ
同会は今回の修復作業における「官民協力体制」を、「遍路道保全に必要なモデルケース」としたい考えのようです。たしかにボランタリーな修復には限界があるでしょう。地権者との関係で障害にぶつかることも、ままあると聞いています。「官」の適切な参加は、請われるところです。


焼坂峠へ
「焼坂峠」の読みは、てっきり「やきさか峠」と思っていました。「やけざか峠」が正しいようです。地名の興りは、すこし調べてみましたが、わかりませんでした。
今はもっぱら遍路の道ですが、かつては安和と久礼をむすぶ生活の道であり、高知と中村を結ぶ中村街道の一部でした。


新道標
「道中ご無事で 満願成就 心からお祈りします」と記されています。復旧に尽力くださった方々、心から、ありがとうございました。


石畳
石畳は雨水による路面浸食を防いでくれます。また石の重みがj地を固め、道の崩落防止にも役立っています。そのほか、植物の繁茂を防ぐ、足が汚れにくいなどのメリットもあります。滑りやすいのは難点ですが。


倒木
大きな木が根こそぎ倒れ、道を塞いでいます。が、石畳の道は健在です。ここは虎ロープに導かれ、迂回して通ります。


崩落
山腹を削って通した道は、雨天時には、ほとんど無防備で雨にさらされます。道は大量の雨水を含み、しばしば崩落することになります。この種の道には、石畳は敷けません。谷側の法面が石の重みを支えきれないからです。


崩落
とりわけ近頃の「異常気象」は、ご先祖様もびっくりの集中豪雨をもたらします。排水溝で雨水を谷に落とすなどしても、とてもとても、追いつくことではありません。


照葉樹林
平成15(2003)に撮った写真です。濃い照葉樹に陽がさえぎられ、フラッシュが自動発光しました。このような区間では、崩落は見られません。照葉樹林の葉と根に護られているからです。


切り通し
峠の一番高いところです。標高228㍍だそうです。
上から流れ落ちてくる雨水はありませんから、路面はしっかり固まっています。


トンネル
高知自動車道のトンネルは、峠の下をまっすぐ突き抜けています。最新の工法は、道の「平坦化・直線化」をほぼ実現しています。障害をものともせず、ブチ抜いてしまいます。


「昔」の道
しかし、ご覧のように、地図にはヘアピンだらけの道(白い線)が記されています。旧国道でしょう。まさに隔世の感あり、です。


いなぐろ
峠を下りて、久礼へ向かいます。
稲藁を積んだ「いなぐろ」は、かつて、秋の日本の景色でしたが、今はほとんど見ることが出来ません。
「ぐろ」は、吉良川の所でも触れましたが、「何かを積みあげたもの」を意味します。ここでは稲藁を積み上げて「いなぐろ」です。石を積み上げた塀は「いしぐろ」でした。


道標
久礼川に架かる橋です。直進は久礼の街を経て七子峠にでる大坂峠道、右折は添蚯蚓道(そえみみず道)です。
私は直進して久礼の八幡宮に参った後、添蚯蚓道に引き返します。


久礼の街
久礼は「中土佐」の名の通り、土佐の中程にあります。中世、土佐西部に幡多荘を中心とする政治・経済圏が誕生して以降、中土佐であることの利が生きてきました。中土佐・久礼は、陸路・海路の中継地(港)として、また積み出し地(港)としての発展をみせます。


大正町市場
大正町にあるから「大正町市場」です。
大正町の名は、大正期、大火に見舞われた際、大正天皇から復興費が届けられたことを記念し、つけた名だそうです。ただし「大正天皇」は、御在世中は、「大正天皇」とは呼ばれません。「大正町」は、昭和に入ってからの命名でしょうか?



私が訪れたのは9:00過ぎ、朝早くでしたから、店はまだ準備中でした。大正町市場は朝市ではありません。賑わうのは昼過ぎからです。
並んでいる魚は、ちょっと値の張る魚です。が、昼過ぎになると、・・・


昼食
平成15(2003)、昼過ぎに立ち寄り、格安豪華昼食をいただきました。その時の写真です。刺身は、その場で切ってもらいました。


久礼八幡宮
久礼八幡宮の創建は14-5世紀だと考えられています。


海へ向けた鳥居
宝永4(1707)の「宝永地震」による津波で建物が破壊され、棟札も流出。創建年は推定するほかなくなっています。 
しかし、地域には(前号で触れた)頭屋組織が残っているそうで、古くから篤い信仰をあつめてきたと思われます。


拝殿
文政8(1823)の建築だそうです。宝永の地震から116年経っていますが、この間、どんな状態にあったかは、わかりません。


厄く抜け石
頭から抜けて厄を落とし、先にあるご神木に参拝祈願します。帰りは、(せっかくの祈願が落ちてしまいますので)抜けません。


厄く抜け石
高知大学教授の鑑定では、石は砂岩で、穴は「ポットホール」だそうです。中で回転した石が大きくて、貫通してしまったと推定しています。「ポットホール」については、H27春-5の「乱礁遊歩道」で触れました。「新しいアルバム目次」からご覧ください。


久礼湾
久礼の鰹漁が、青柳祐介さんの漫画「土佐の一本釣り」で有名になりました。70年代半から80年代にかけて読まれた人気漫画で、ビッグコミック連載。私も喫茶店で読んでいました。主人公は中卒で鰹船に乗り込んだ小松純平という青年です。その恋人が八千代。


青柳祐介さん像  
青柳さんの像が、八幡様の海岸に立っていました。その隣には鰹供養碑があり、「感謝」と刻まれています。鰹に、命をくれてありがとうと感謝しています。


大坂峠へ道標
明治25(1892)、大坂谷から七子峠(ななことうげ)に上る道が開通しました。道標にある「大坂峠」の道です。
これにより添蚯蚓道は主道の座から陥落、代わって大坂峠道が主道となりますが、やがて国道56号線が開通し、大坂峠道もまた主道からはずれることになります。添蚯蚓道の現状については、後述します。


土佐久礼駅
添蚯蚓道に復すべく、駅の手前を北上し、線路を越えます。


給水塔
給水塔の下を長沢川に出会うまで東行し、・・・


添蚯蚓へ
添蚯蚓への道に復しました。焼坂峠でも見た高知自動車道が前方に見えます。 


登り口
登り口に、添蚯蚓遍路道の復旧、保全にかかわってきた人たちの名簿が立ち並んでいました。何枚かの末尾には、「宮崎建樹」の名が刻まれています。亡くなって、もう5年が経ちました。


登り口
これより急登しますが・・・
   

道標
最初の坂を上がったところで、道は高知自動車道に断ち切られています。


高知自動車道
高知自動車道が、尾根筋を大きくVの字に切り裂いて、走っています。遍路は階段を下って自動車道をくぐり、・・・


高知自動車道
・・・長い階段を上って、ふたたび尾根道に戻ります。
工事はしっかりとした仕上がりで、階段途中には四阿まで建っています。「官」の仕事としては十分なのでしょう。・・・けれど遍路道は「歴史」の道です。ただ通過できればよいのではありません。


おなみさんの墓
とは言え、自動車道を過ぎてからの添蚯蚓道は、がぜん「歴史」の重みを見せてくれます。数ある遍路道の中でも屈指の道と言えるでしょう。
写真の石塔は「おなみさんの墓」だそうです。文化5(1808)の年号が刻まれていると言います。


道標
側面が道標になっています。
  この所より 五社へ四里 四万十川へ十五り半 あしずりへ二十五り てら山へ三十八り いよ境 まで四十一り
江戸時代、次に参るべき37番札所は岩本寺ではなく、「五社」(高岡神社)でした。「あしずり」は38番金剛福寺、「てら山」は39番延光寺です。


尾根道
古い道の多くがそうであるように、添蚯蚓道もまた尾根筋を利用しています。尾根は道を造成しやすく、雨水が両側に落ちて保全も容易だからです。(H23秋 ⑤の、「大坂越え」の部分をご覧ください)。


照葉樹林
添蚯蚓道は、(自動車道を除く)ほぼ全区間が、根深い照葉樹林に護られています。照葉樹は植林したのではありません。古代の植物相が今に残っています。ゆえに、なお一層、貴重な道と言えます。


けしき
小さな二つの島は、久礼沖の双名島のようです。気の優しい鬼が運んできた島なんだそうです。


下り
添蚯蚓道を降りてきました。


ショウガ畑
ショウガはこの辺の特産です。何枚ものショウガ畑が拡がっています。
あと4-5日で掘り始めるとのことでした。全部を掘り終えるまで、1ヶ月ほどかかるそうです。撮影したのは10月14日です。


ショウガ集荷風景
平成15(2003)に歩いたときの写真です。調べてみると11月1日でした。


刈田
機械で植え機械で刈り取っているので、「不揃い」の魅力はありません。


けしき
四阿 雪椿からの景色です。側に、休憩所の名の元となった「お雪椿」と雪夫婦の墓があります。


お雪椿 墓
池内喜左衛門と雪の墓です。喜左衛門は僧職にありましたが、還俗して雪と結婚。雪の父の地頭職を継いだと言います。
椿の樹齢は約350年。お雪が生前好んだ椿を、里人が植えたのだそうです。


六十余社
広辞苑によれば、機内七道の66カ国に壱岐・対馬を合わせた国々、すなわち日本全国を六十余州と言います。六十余社は、日本全国の祭神を一ヶ所に総合して勧請した神社です。


六十余社
一カ国(州)の祭神を一社に勧請した「総社」について以前触れましたが、その後、いっそう参拝者の便宜を図る目的で、六十余社が誕生したと思われます。
信仰は、簡略化され、速成化されて、大衆化しました。四国遍路では、「ミニ四国」などがこの例でしょうか。


仁井田川
56号線を五社・高岡神社へ向かいます。流れるのは仁井田川です。蛇行して四万十川に合流します。


仁井田中ありき
  ここに 仁井田中ありき
人みな戦後の混乱に戸惑う中 少年らめげず ここ茶堂山に集い 元青年学校々舎にて 二部授業にも甘んじ 時にリスや小鳥と興じ かつ師を敬し 篤き友情を結びて 楽しき青春の日々を過ごせり。母校創立60周年に当たり ここ新校舎への校門脇に碑を建つ。
昭和21年、新制中学として発足するも、当初は仮校舎で二部授業だったとのこと。しかし、「少年らめげず」、楽しき青春の日々を過ごした、とふり返っています。平成18(2006)、仁井田中学一期生が建立しました。彼らは今、80才を超えています。


五社(高岡神社)へ
56号線から「五社街道」へ入ります。高岡神社の鳥居です。現在の道筋からは外れています。


用水路
すぐ、用水路に気づきました。豊かに水が流れています。


用水路
この地はかつて原野だったそうです。地区民たちは原野を開墾して耕地とすべく、幾度となく四万十川に堰を築き、導水を試みましたが、堰は台風のたびに流され、難渋していました。


用水路
そこに登場するのが野中兼山です。兼山は四万十川をあきらめ、支流の仁井田川に堰を築こうとします。
しかし、その工事も、固い岩盤に阻まれ難航します。工夫の賃金を掘った岩盤の量に応じて払うなど、能率を上げるための工夫をし、ようやく完成させたと言います。この辺に「計り場」という地名が残るのは、「掘った岩を計った所」から来ているのだそうです。


富岡堰
兼山が築いたという堰が見たくなり、窪川に着いた後、タクシーの運転手さんと相談。予算内で納まりそうなのでお願いしました。


富岡堰
兼山が築いた富岡堰です。兼山当時の石積みと思われます。


平串堰
可動堰です。兼山の工事ではありませんが、運転手さんが案内してくれました。


田んぼ
兼山の用水は、原野の姿をすっかり変えました。


仁井田米
獲れたお米は、「仁井田米」としてブランド化されています。



前方は、四万十川に架かる五社大橋です。まっすぐ行くと五社、高岡神社の中ノ宮に行き当たります。


古代米
橋の上から鮎釣りをしている人に尋ねると、古代米なんだそうです。


四万十川
四万十川ですが、渡川とも呼ばれます。土地では仁井田川と呼ぶ人もいるそうです。四国遍礼霊場記の仁井田五社の項には、・・前に大河あり仁井田川といふ・・とあります。


渡川
五社大橋に「渡川」のプレートがついていました。写真はH22撮影です。


五社大橋
国交省は、渡川水系四万十川、としています。


中ノ宮
五社の中ノ宮ですから、三の宮ということになります。
県道沿いに向かって右から、東大宮(一の宮)、今大神宮(二の宮)、中ノ宮(三の宮)、今宮(四の宮)、森ノ宮(五の宮・聖宮)と、横並びにならんでいます。
総称して「五社さん」「高岡神社」「仁井田明神」などと呼んでいますが、六十余社や総社とは違って、それぞれは単独の神社です。


今宮祭神・伊予二名洲小千命の札
祭神は、東大宮:大日本根子彦太迩尊  今大神宮:磯城細姫命  中ノ宮:大山祇命・吉備彦狭嶋命  今宮:伊予二名洲小千命  森ノ宮:伊予天狭貫尊  となっています。
一見して「伊予」「小千」(越智)「大山祇命」などの文字が目につき、(前号、岩不動・光明峯寺の所で触れた)河野氏との関連を想起させます。


秋の大祭
境内の高岡神社(五社)由来記は次のように記しています。・・・平安時代初期、、伊予豪族であった河野氏の子孫がこの地に来住し、一帯を開発して、祖神と崇敬神を祀ったのが仁井田大明神である。以来、仁井田郷六十八ケ村の総鎮守として崇敬せられ、特に戦国時代には仁井田五人衆の武運守護神ともされていた。


秋の大祭
・・・最初は一社であったが、天長3年、弘法大師が境内に福円満寺を創立し四国霊場の札所としたとき、社を五つに分け、各社に諸仏を祀り五社大明神と改称され、神仏習合の神社となった。当時、各社の神主は武家格式を有し、神社前には門前町が並んだ。神宝として土佐二代目藩主山内忠義公奉納の金弊、西原紀伊守の刀、仁井田郷豪傑・中西権七の所持したと伝える長刀、近くから発掘された銅鐸がなどが納められている。
写真の列中程の子供が担いでいるのが「長刀」です。


銅矛
より詳しくは、古いアルバム目次から、「・・五社さんの大祭」(H22.11)をご覧ください。


元札所
現37番札所岩本寺は、五社祭神の、それぞれの本地仏を本尊としています。


岩本寺本尊
すなわち、不動明王、聖観世音菩薩、阿弥陀如来、 薬師如来、地蔵菩薩、が岩本寺の本尊です。


標石
岩本寺境内に、かつての岩本寺と五社の関係を示す、興味深い標石があります。
「大師堂 並五社納経所」とあります。遍路たちは五社に参って、岩本寺に来て大師堂に参り、岩本寺で納経した、のでしょうか。


高田屋嘉兵衛
別の話ですが、岩本寺の道標には、司馬遼太郎ファンには「菜の花の沖」でお馴染み、「高田屋嘉兵衛」の文字が刻まれています。この道標は、(一度、徳右衛門道標と記しましたが)、「願主聖心のもの。添蚯蚓坂の海月庵にあったものです」。ご指摘をいただき訂正します。聖心と徳右衛門との関係については、改めて記します。

ご覧いただき、ありがとうございました。今年もよろしくお願いいたします。
次回更新予定は1月28日です。岩本寺から四万十川辺りまでの報告となりそうです。

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5 コメント

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ミョウガ畑 (匿名です)
2016-01-07 13:51:36
突然すみません。

いつも楽しみに拝見してます。

今回の記事の中程の畑は「ショウガ畑」ではないでしょうか?

私も昨年11月に高知県内を歩いたとき各地で収穫中でした。

私の間違いかもしれませんし、確認が出来ましたらこのコメントは削除をお願いします。
返信する
Unknown (匿名)
2016-01-07 16:32:11
いつも楽しく拝見しています。
いつもとちょっと様子が違うかな・・と思っていましたが、仁井田五社の説明や兼山さんの登場に至り、やっぱり楽しく遍路さん。
最後の所、間違いというほどではありませんが、この道標は徳右衛門ではなく、願主聖心のもの。添蚯蚓坂の海月庵にあったものです。
返信する
ありがとうございます。 (楽しく遍路)
2016-01-07 18:04:00
お二人の匿名さん、早速訂正しました。ありがとうございます。
コメント削除のお申し出、ありがとうございます。ただ、すでにお読みになった方もおられますので、しばらくは誤っていたことを形に残しておきたいと思います。
これからもよろしくお願いします。
返信する
♪村の鎮守の神様の 今日はめでたい御祭日~ (天恢)
2016-01-10 22:02:56
 新たな年を迎えて、本年も宜しく。 今回も「焼坂峠~岩本寺」を楽しく読ませていただきました。
さて、天恢にとっても焼坂峠、土佐久礼、添蚯蚓道、岩本寺は苦・楽を味わった思い出残る遍路箇所です。 「同行二人」が好きで、これまで気ままな一人旅が常でしたが、この箇所を歩いた5年前、5歳下の健脚家と一緒に歩く機会がありました。 出会いは奈半利で、竹林寺辺りから時々一緒するようになり、宿は同宿しても単独行動を取っていました。 それが、横浪の宿からは同行三人の遍路となりました。 須崎から工事中のため迂回路を余分に歩かされた焼坂峠を越えて、土佐久礼の宿に泊まって、その夜はすっかり意気投合して、酔い潰れるまで大いに盛り上がりました。 その翌日は深酒がたたって絶不調に陥り、添蚯蚓道(そえみみず道)で、ブログにもある高知自動車道の急な階段の下りと上りと、必死になって健脚家の後を追っかけてオーバーペース、悪いことは重なるもので出口の辺りで道に迷ったりして・・・。 とうとう影野の雪椿であえなくダウン、健脚家には一人で先に行ってもらうことになり、私は影野駅から窪川へ列車で向かうことになりました。 後日談になりますが、一昨年、88ヶ所札所間完歩達成のため影野から窪川まで雨の中を歩きました。 これが、ここでの苦の思い出です。
 楽しい思い出は、天恢は乱れ打ちを常としていますから、岩本寺が起点・終点となったことがあって、これまで4度お参りしました。 私のお目当ては、本堂の575枚の自由奔放な天井絵、その中でも特に目を惹くのがマリリン・モンローの笑顔です。 かの大女優も伝説の女(ひと)となりつつありますが、俗人どもを魅了し続けてきたことは確かです。 天恢もその時の気持ちでマリリンを見上げ、その都度写真を撮りました。 
 もう一つ、5年前は岩本寺から足摺へ向かわず、窪川からJR予土線で内子まで列車で移動しました。 出発してまもなく雄大な四万十川の流れと沿線の素晴らしい景色を車窓から眺めて大感激しました。 それを機に鉄道の旅にも目覚め、土讃線、予讃線、徳島線・・・、今年、鳴門線に乗車すればJR四国全線完乗が達成できます。 遍路は歩くもよし、乗るもよしで楽しみが増えます。

 さてさて、 今回のタイトルの「♪村の鎮守の神様の 今日はめでたい御祭日~」ですが、
どんどんひゃらら どんひゃらら どんどんひゃらら どんひゃらら 朝から聞こえる 笛太鼓・・・と続く唱歌「村祭り」 です。 「楽しく遍路」さんが、『琴線にふれてくる、泣きたくなるような景色だった』と書かれた「五社さんの大祭」(H22.11)のアルバムをじっくり見入りました。 五社の神輿に武者行列や流鏑馬まである高岡神社(五社)の大祭と唱歌「村祭り」の祭りとを比較するのは無理ですが、民衆の生活に密着した昔ながらの素朴な祭りや信仰を垣間見たような懐かしい気持になりました。 
 その点、人口が多い都会で繰り広げられる祭り=東京の三社祭、京都の葵祭など知名度の高い祭りは注目され、テレビでも放映されます。 しかし、そこには祭りをやる人と観客の見る人とに二極化された劇場型のお祭りしか存在しません。残念ながら生活の中での「祭り」も、神仏、祖先への信仰も感じられません。 過疎化で人口減少に悩む地方にあって、高岡神社(五社)のように伝統ある大祭を維持するにはご苦労が偲ばれますが、「朝から聞こえる笛太鼓」のように熱心な音色がいつまでも止まないことを祈るのみです。
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お祭すんで日が暮れて・・・ (楽しく遍路)
2016-01-11 17:34:29
天恢さん 楽しいコメント、ありがとうございます。今年もよろしくお願いします。

絶不調・・・目に見えるようです。なにしろ己が姿でもあるのですから。・・いくら泣いてもかえらない・・あとの祭、です。しかし雪椿まで、よくついて行きました。
なお若き世代のために、”お祭すんで日が暮れて・・・いくら泣いても返らない・・・あとの祭よ”は、美空ひばりのお祭マンボの一節です。

そう言えば予土線は乗っていません。四国へのアクセスで飛行機を使う場合、予土線に乗る行程を組むのは難しいですね。しかし乗るために乗る、乗り鉄遍路も楽しいとおもいます。
天恢さんのもう一つの「楽」、マリリンとの対面、これも私はまだ果たしていません。次の周回、四巡目が許されるならば、二つの「楽」、かならず果たそうと思います。
なお、マリリンを知らない若き世代よ、知らなくてもかまいません。

私は通りがかりの遍路で、観客に過ぎなかったのですが、いつのまにか何人もから御神酒をすすめられ、すっかり参加しておりました。今夜は窪川泊まりと話すと、ああ、それならすぐそこだ、もう一杯、来てくれてありがとう、といった調子でした。
遍路中のお祭は、いくつか、強く印象に残っています。引田の獅子舞、赤泊の直会、琴平のだんじりなどです。私は祭に出会うと、たいてい立ち寄ります。

五社大祭のアルバムは、キャノンのサイトを使っているので閲覧しづらかったと思います。できればグーのサイトに移したいと思っています。
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