楽しく遍路

四国遍路のアルバム

世田薬師から 臼井御来迎 香園寺道 60番前札所清楽寺へ

2018-12-12 | 四国遍路

 
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茂兵衛道標
世田山栴檀寺門前の三差路に茂兵衛道標が立ち、「左ちか道」と案内しています。
実報寺や西山興隆寺に参るには、右の県道(159号)の方が近道ですが、私の当面の目的地は臼井御来迎ですから、左の道を選びます。


茂兵衛道標 
茂兵衛道標には、直前・直後の札所名が刻まれています。
直前はお馴染みの國分寺。直後は、ちょっと馴染みのない寺名で、大峯寺です。


國分寺 大峯寺 
60番横峰寺は、明治4(1871)、廃仏毀釈で廃寺となりましたが、8年の後の明治12(1879)、大峯寺の名で復興されます。この道標には、そのときの寺名が刻まれています。
ただし、大峯寺は明治41-2(1908-09)、旧称の横峰寺に戻されていますから、明治44(1911)に建立されたこの道標には、横峰寺と刻まれていても、おかしくはないわけです。


遍路道
「左ちか道」を進んでゆくと、斜めに傾いた道標がありました。
  右 こんぴら道 へんろみち  左 河原津
えひめの記憶によると、この道標は元は別の場所に在って、・・ほとんど埋まって、頭の部分がわずか26cmしか出ておらず、「右」の字しか見えなかった・・そうです。


自安橋
自安橋を渡り、三芳の街中に入ってゆきます。
橋の名前は、(後述しますが)「自安」という人に因んでつけたといいます。


春日神社
春日神社は、供山寺(後述)の鎮守として祀られていたと言います。「祀られていた」と過去形なのは、供山寺はすでに廃寺となっているからです。
大木は槙(まき)です。この辺は(前号で記しましたが)楠(くす)という地区なのですが・・。


春日神社 天満宮
境内の説明板によると、・・楠村の芥川平陸郎政忠という人が、文化年間(19C初め)、筑前太宰府に詣でて天満宮を勧請。春日神社の右側に之を創建した、・・とのことです。
向かって右が天満宮、左が春日神社。


供山(くざん)廃寺宝形印塔
鎌倉時代の作といいます。
説明板に、・・誰がどんな時にどんな発願によって建立したかは不明ですが、当時この地に優れた人物が住み、古い大きな寺があったことを物語る、貴重な文化財である。・・とあります。


知足庵
馬頭観世音菩薩が祀られているそうです。
像は鎌倉時代の作と推定され、(前述の)自安橋の名の元になった、自安という人が、京都で求めてきたもの、とのことです。


道安寺
正平19(1364)、河野通朝と細川頼之との間に戦(世田山合戦)が起こり、道安寺は堂宇を焼失してしまいました。その後、再建されましたが再び焼失。寺領も失ったといいます。
しかし、かつては大寺であったらしく、奈良時代の瓦が出土しているとのことです。ご本尊は薬師如来。聖徳太子作と伝わります。


臼井御来迎
臼井御来迎は、道安寺滞在中の大師が老婆の願いに応えて、臼から湧かせた湧き水です。
一心に拝むとき、人は水の輝きの中に、諸仏の御来迎を見ることができるのだそうです。


臼井御来迎
大師は臼井の他にも、曽良田井、岸ノ井という泉を湧かせたと伝わっています。
これらは合わせて「三井」と称ばれたそうです。


 
ネット上の「古田史学会報」に、次のような史料が載っていました。
・・ 空海上人、真如上人と共に道安寺に逗留。霊水三所あるを見出し玉いて、是迄斉明天皇号し給う見居村を、三井(臼井・曽良田井・岸ノ井)村に改む。(朝倉村誌 岡文書)
三井に因んで、それまでの村名・見居村が、三井村に変わったのだそうです。
なお三井は、明治初期、楠地区にできた小学校名にも使われましたが、それについては次号で記します。


日切大師 
日切大師 弘福寺です。正面が大師堂。ここのお大師さん像は、珍しいのだそうです。
左の祠堂は地蔵堂。近所の人によると、・・昔はお遍路さんを泊めよった、・・とのことでした。


お大師さん川 
この川は、お大師さん川とよばれるのだそうです。日切大師の側を(かつてはおそらく境内を)流れているので、そう呼ばれるのでしょう。また、真手川とも呼ばれるそうですが、なぜ真手川なのかはわかりません。「真手」は両手を意味するようです。
この川に架かる橋は、出張橋(でばり橋)というそうです。その名は、かつて三芳村が大洲藩の飛び地で、毎年、代官派遣が行われていたことからくるといいます。飛び地問題は、後、松山藩との領地交換で解決されます。


光明寺 
日切大師の向かい側に光明寺があります。山号は分かりませんが、真言宗御室派のお寺です。
私は光明寺の境内がもつ、生活感とでもいいましょうか、そんな雰囲気が好きです。


宿泊所 
光明寺境内に遍路無料宿があります。いつも掃除が行き届いており、遍路目線にたった情報提供がなされ、近頃ではWi-Fi接続までできます。


大明神川へ 
少しずつ道が上っています。天井川で知られる大明神川へ向かう坂です。
天井川とは、川底が周辺の平面地よりも高くなっている川だそうで、ために大明神川では現在でも、JR予讃線が河床の下をくぐって通っています。さすがに今治-小松自動車道は、最近の施行ですから、川を跨いでいますが。


道標か? 
上掲写真の塀の切れ目に、いかにも道標らしく、石柱が立っています。形状は、この先で見ることになる利平道標に似ていて、石材も、おそらく同じ花崗岩です。
しかし、しばらくながめていましたが、道標である印は見つかりませんでした。その立ち様は、まさに道標なのですが。


大明神川
なるほど、天井川です。
土砂の堆積がうかがわれます。


道標
大明神川に架かる橋の南詰に、遍路道標と金毘羅道標が立っています。
金毘羅道標には、・・こんぴら大門へ二十一里・・とあります。
遍路道標は情報量が多く、この先に三本の道・・生木道、西山道、香園寺道・・があることを示しています。


分岐
橋を渡ったすぐ先が、三本の道の起点となる分岐です。
右の道が、生木地蔵→60番横峰寺→61番香園寺と進む道で、生木道と呼ばれる道です。横峰寺へは、大頭-湯浪から登ります。
分岐点に立っている道標は、生木道を示す茂兵衛道標で、指差しの下に、・・大師御作 生木地蔵 四国六十番霊場・・などとあります。
西山道は、生木道から分岐し、ふたたび生木道に合流する道です。西山興隆寺→久妙寺→生木地蔵と回ります。


茂兵衛道標 
左の道が、今回、私が歩く道で、香園寺道です。生木地蔵には参らず、まず61番香園寺に向かい、香園寺から、60番横峰寺に登ります。この部分は、逆打ちになるわけです。
香園寺道は、今は「・・保存協力会地図」に示されていませんが、明治の一時期、・・横峰寺が廃寺とされ、香園寺近くの清楽寺が納経代行をしていた時期・・には、多くの遍路が歩いたにちがいない道です。


香園寺道
さて、アルバムの進め方ですが、香園寺道には、(香園寺に近づくまで)現代の道標はほとんどなく、私が歩いた道をお示しするのが困難です。
そこで、目印になりそうな建物や曲がり角を、極力、写真で示しながら、進めていくこととしました。少々冗長になりますが、ご勘弁ください。



架かる高架は、今治-小松自動車道です。
これをくぐり、県道159号・孫兵衛作-壬生川線を進みます。


石鎚山
うれしかったのは、視野が開け、石鎚山が見えてきたことです。まだかすんでいますが、これから晴れるのでは・・。
今日は楽しみです。


集会所 
喜多台地区に入り、喜多台集会所を右手に見て、これを通過します。


四つ角
集会所のすぐ先、四つ角を右に曲がります。ここには、えひめの記憶によると、かつて右折を指示する遍路道標があったようです。今はありません。
県道159号・孫兵衛作-壬生川線とは、ここでお別れです。159号はこの先、壬生川の街中→三津屋→北条を経て、小松町、西条市へと至ります。


藤森荒魂神社
右側に児童公園、その奥に藤森荒魂神社をみて進むと、・・


道標
やがて比較的新しい道標が目に入ります。えひめの記憶によると、ここにも古い道標が立っていましたが、いつしか紛失。写真の道標は、昭和30年代に新しく建てたもののようです。
「手印 右へんろ道」とありますが、私が来た道からは、左折になります。写真奥から、私は歩いてきました。


合流
左折した道は、やがて楠浜-北条線に合流します。


新川
新川にぶつかり、架かる円海寺橋を渡ります。
さらに県道壬生川丹原線(48号)を渡り→西条市 東予総合支所を左手に見て、通過します。


石鎚連邦
石鎚連邦が、だいぶはっきりと見えてきました。春としては、よく見えている方でしょう。
中央が石鎚山です。瓶ヶ森は雲が邪魔して、見えていません。笹ヶ峰も見えません。


石鎚山
石鎚山です。すこし大きくしてみました。


和田屋利平道標
下貝田橋を70㍍ほど先に見る四つ角に、小松藩の両替商・和田屋利平が建てた道標があります。
利平道標は円柱道標との刷り込みがあり、見落としそうになりました。
この面には「和田屋利平」と刻まれています。


和田屋利平道標
もう一面は不鮮明ですが、上部に、左右の手印が浮き彫りになっています。手印の下に「へん」という字が、かすかに見え、下部には、「道」の之繞らしき部分が見えます。


下貝田橋
崩口川(くれくち川)に架かる、下貝田橋を渡ります。


貝田道祖神
下貝田橋を渡ると、すぐ十字路があり、その手前に双体道祖神があります。


双体道祖神
道祖神は、悪霊・邪気の侵入をさえぎる神さまですが、それにしては優しいお顔です。



なだらかに右に分岐する道があります。電柱に石田(本郷)の地名表示がされています。
これを右にとります



気持ちのいい道を進みます。



やがて右側の開けた一画に、古い墓があるのが見えます。
中央は、千足山中森城主・能瀬越前守を能瀬大明神として祀る小祠です。右には、古い墓石が数基、左奥には法華塔があります。



能瀬越前守は中森城(小松町石鎚)に拠った戦国時代の豪族ですが、黒川通堯(元春)によって滅ぼされました。
黒川は能瀬よりも、すこし時代の先を見ていた武将といえましょうか。能瀬が典型的な山城に籠もったのに対し、黒川は剣山城を、(やはり山城ではありましたが)、丹原・小松の平野部をうかがう位置(小松町妙口)に築いています。
黒川はやがて剣山城を足がかりに、周布郡(しゅうふぐん)・・現・小松以西、丹原町の辺り・・の掌握に成功します。


剣山城主社
横峰寺へ登る大頭道で、剣山城主神社を目にされた方も、いらっしゃるかと思います。


古い墓石 
勝者ではなく、敗者・能瀬が祀られています。どんな経緯があってのことでしょうか。
まず考えられるのは、土地の人たちの敗者・能瀬への判官贔屓です。それとともに、あるいはそれ以上に考えられるのが、余所者・黒川への違和感乃至は反発です。というのも、実は黒川は、土佐・長宗我部の一族であったとも伝わるからです。


法華塔
外部勢力に抵抗した郷土勢へのシンパシー、・・そんな構図が思い浮かんだのは、次に見る闇罔神社(くらみつ神社)の、「トンカカはん」の踊り唄からの連想でした。
踊り唄は、小早川隆景率いる「四国征伐軍」と戦って敗れた、郷土軍の総大将・金子備後守を称える唄です。(後述)


地蔵堂
左に地蔵堂を見て、直進します。
やがて、ちょっと右に入った所に、闇罔神社が在ります。


闇罔神社
ご祭神は、・・
  闇罔象命(くらみつは命)
  闇龗命(くらおかみ命)
  闇山祇命(くらやまつみ命) の三神です。
伊弉諾尊が軻遇突智命(かぐつち命)を斬り殺した時に生まれた神々、とも伝わります。軻遇突智命は、母たる伊弉冉命の女陰を焼き、死に至らしめたとして、伊弉諾命に斬り殺されました。その剣の柄に集まる血が手のまたからこぼれ出し、生まれた神々が祀られています。


村社 闇罔神社
「くらみつは」の「くら」は深くて暗い谷間を意味し、「みつは」は水の神ですから、「くらみつは」は、深い谷間を迸り流れる、水の神様です。水の神はイメージが、龍神にもつながっています。
「くらおかみ」は、「おかみ」が雨を司る龍神ですから、これも谷間の龍を意味します。谷間を流れる沢水が、龍に見立てられているのでしょう。
「くらやまつみ」は、「やまつみ」が山の神霊を意味しますから、深山幽谷に棲む神霊、ということでしょう。


闇罔神社
毎年8月19日、闇罔神社の境内では「トンカカはん」が、夜を徹して踊られるそうです。
「トンカカはん」は盆踊りで、昔は周布郡→周桑郡一円で踊られていたといいます。お拍子の音が、トンカカ トンカカ と聞こえたのでついた名前だとか。
踊り唄は次のようです。
・・頃は天正13年の 予州風雲告げるとき 文月はじめに寄せ来る敵は 隆景軍の参萬騎 軍議まとめる金子の殿は 義理の義の字の華と散る


闇罔神社
ところがトンカカ踊りに、明治6(1873)、愛媛県は禁止令を出します。どうやら金子の殿称讃が、危険視されたようです。
翌年以降、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、そして西南戦争と、維新政府を震撼させる反乱が続発します。その予兆への怯えが、過剰な反応を起こさせたのかも知れません。
なお金子備後守が戦った古戦場は、63番吉祥寺の先、野々市に在ります。私は明日、訪ね、金子の殿を偲びます。


道標
元の道に戻り、進みます。前方左に道標が見えています。


道標
撮影が下手ですが、
 左 手印 へんろみち 
と刻まれています。


道標
なお、闇罔神社へ右折する手前右側にも、道標があります。
ただ、この道標は今は、ブロック塀に阻まれていて、見つけるのは困難です。私邸に侵入することなしに見ることはできない、そんな位置に在ります。
写真は、幸い許可をいただいて、撮影したものです。「手印 左 へ・・」と見えます。「へんろ道」と続くのでしょうか。



道標の指示は左折ですが、私は直進しました。
前方の細い道は、2.5万地図には記載されていません。これ以降、細い道を右に左に歩き、中山川に架かる予讃線鉄橋に向かいました。


ドタヌキさん
畑仕事をしている人に、あの森は何ですかと尋ねたら、・・私らはドタヌキさんと呼んどる・・とのことでした。
トンカカさんがあるのだから、ドタヌキさんもありかな、と思っていたら、実は「土田之木さん」 ( どだの木さん )の聞き間違いだと、後で分かりました。なぜ土田なのかは、尋ねませんでした。だって、狸だと思い込んでいたのですから。
なお、写真右端に写っている道は、推定古代南海道です。古代から中世にかけて、都と伊予国府をつないだ幹線道です。前号で記した永納山・世田山へつづいたに違いありません。


土田之木さん
土田之木は大榎です。今は歳を重ね、樹勢が衰えていますが、かつては樹高もあり、桜三里を越えてくる旅人の目印になっていた、とのことです。
桜三里は、道前平野と道後(松山)平野を結ぶ峠越えの道で、讃岐街道また金毘羅街道の一部を、桜がきれいなことから、桜三里とよびました。今は国道11号の一部です。


土田之木さん
しかし「土田之木さん」は、単なる目印の大木ではありません。
ここは庄屋・首藤家の屋敷跡で、大榎は首藤家の先祖供養のため、墓標として植えられました。


首藤家の供養塔
右の供養塔には、・・藤原鎌足公第十四世孫 首藤家始祖 助清公以下 第十五世・・と刻まれています。
藤原鎌足の第十四世の孫である助清が、当地に移り住んで首藤家の始祖となった、ということです。


首藤家の供養塔
鎌足は大化の改新 ( 乙巳の変 )の中心人物ですから7世紀の人です。仮に一代を30年とすると、14代ですから、30x14=420 。首藤家の始祖・助清は、11-12世紀の人物と考えられるでしょうか?


首藤家の供養塔
左の供養塔は、大恩義宗居士の300回忌法要を記念したものです。
  大恩義宗居士三百回忌法要営之 明治十七年七月十七日
「大恩」と冠しているところから見て、義宗は首藤一族に格別の貢献をなした人物なのでしょう。
明治17年の300年前は、西暦1584年ですから、義宗は16世紀頃の人と考えられます。榎の樹齢が推定400年といいますから、あるいは義宗が植樹した可能性も、なくはないでしょうか。ただし樹齢には諸説があります。


句碑
句碑が建っていました。
   遠つ祖を(とおつおや) 守りて稲の 穂波哉   圭甫
稲の穂波は、子孫の繁栄を表象しているのでしょう。


予讃線鉄橋へ
中山川に架かる予讃線鉄橋です。
予讃線は大正12(1923)に伊予西条駅 - 壬生川駅間が開業。この時、讃岐線から讃予線(予讃線ではなく)に改称されたそうです。


鉄橋
この辺の昔の遍路道について、えひめの記憶は、次のように記しています。
・・現在のJR予讃線の中山川鉄橋の少し上手(西側)で川を渡っていたというが、この間の道は定かでない。
徒での川渡りであったようですが、その道筋ははっきりしません。
とまれ、私はすこし上流に架かる吉田橋で対岸に渡り、ふたたび鉄橋のところに帰ってくるつもりです。


石鎚連邦
ようやく瓶ヶ森が見えました。中央よりやや左寄りに、うすく写っています。下の拡大写真を参考に、ご覧ください。
石鎚は中央右寄りに、やはり薄く写っています。笹ヶ峰は、左端に写ってはいるのですが、小さすぎて、指摘できません。


瓶ヶ森 
右になだらかに流れている部分が、氷見二千石ヶ原です。


吉田橋
吉田橋です。



吉田橋を渡ります。写真奥やや左寄りに、瓶ヶ森が見えます。右端が石鎚山です。


法安寺跡へ
昔の渡渉点に戻る前に、伊予最古の寺院といわれる法安寺跡に立ち寄りました。
聖徳太子は全国に、49ヶ寺とも48ヶ寺とも39ヶ寺ともいわれる大寺を建てたそうですが、法安寺はその内の一つ、と考えられています。


かつての法安寺
伽藍配置は四天王寺式だった、と推定されています。四天王寺は、聖徳太子建立七大寺の一つとされています。


塔礎石
塔の礎石が残っています。法安寺跡は、国の史跡に指定されています。


法安寺
ボタンが咲き誇っていました。現在の法安寺は、「千本ぼたん」で知られるボタンの名所です。
見物客の中には、「ボタンとお遍路さん」を撮影したい人たちがいて、私はモデル役を頼まれました。もちろん後ろ姿です。大師宝号が見えるようザックを降ろしてあげると、喜んでくれました。



昔の渡渉点(予讃線鉄橋)へ戻ります。
間抜けなカラスの鳴き声なども楽しみながら、すっかり散歩気分でした。


鉄橋
中山川右岸から見た鉄橋です。


右岸
かつて遍路達は徒で川を渡り、この辺に上がってきたとされています。


踏切
ちょっと迂回して踏切を渡り、すこし進むと、・・


道標
遍路道標がありました。
   四国第六十番前札所清楽寺 大峰寺 第六十一番香園寺 明治三十三年
冒頭で記しましたが60番横峰寺は、この道標が建立された年、明治33(1900)には、大峰寺と称していました。その名が刻まれています。
清楽寺は、横峰寺が廃寺であった間、60番札所として働きましたが、明治18(1875)、60番を大峰寺にゆずり、60番前札所となっています。


道標
   左手印 西山久妙寺 生木道 周桑郡役所
遍路道のみならず、役所の所在までも示しています。周桑郡は明治11(1878)、行政区画として発足しています。


清楽寺へ
清楽寺へ向かいます。


道標
新宮踏切を渡ると、すぐ先に、道標が二基あります。元はどこに立っていたのでしょうか。
手前の道標は、側面に大師宝号が刻まれています。
新宮踏切の新宮は、次号で記すことになる三嶋新宮(三嶋神社)を言います。


清楽寺
さて、中途半端ですみません。
本来ならこの後、清楽寺→61番香園寺→60番横峰寺と書き継がなければなりませんが、長くなりすぎました。
今号は、ここでいったん区切らせていただきます。

次号更新予定は、年改まりまして、1月9日となります。
皆さま、よいお年をお迎えください。

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4 コメント

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♪さよならと さよならと 街の灯りがひとつずつ 消えて行く・・・ (天恢)
2018-12-14 20:55:02
 平成最後の年の瀬が「さよならと さよならと・・・・・」過ぎて行きます。 早いもので過ぎてしまえば一年なんてあっという間で、反省ばかりが残ります。

 さて、今回は今年最後となる「世田薬師 ~ 60番前札所清楽寺へ」の道中記を楽しく読ませていただきました。 世田薬師から臼井御来迎、日切大師を経て、天井川で知られる大明神川橋を渡って三「分岐」。 お遍路さんの多くは生木地蔵から横峰寺への遍路道を歩かれますが、「楽しく遍路」さんは香園寺道を歩かれています。
 ここで見逃せないのは、ブログにある 『天井川とは、川底が周辺の平面地よりも高くなっている川だそうで、ために大明神川では現在でも、JR予讃線が河床の下をくぐって通っています。』の箇所です。 
 鉄道が川を渡る場合、通常は鉄橋を架けますが、鉄道が川の下をトンネルでくぐって通り抜けるのは日本でも2カ所だけだそうで、それが大明神橋の下流1kmのところにある大明神川トンネルです。 山のない平野部に突然現れるトンネル。 電車がどうやって天井川の下をくぐるかは、「百聞一見にしかず」で、グーグルマップやYouTubeでご覧になってみてください。 また100年前の難工事の末に完成した天井川トンネルや河床は、インターネットの写真や資料でも詳しく確認できます。 天恢も一度は行ってみたいスポットになりました。

 それともう一つ、10年ほど前に予讃線に乗って伊予小松駅を出て間もなく車窓から見る景色で札所を凌ぐ立派な寺院が飛び込んできました。 それがブログ最後にある清楽寺だったのです。 明治の初めに60番札所を横峰寺から清楽寺に移し、明治18年元に戻したという経緯から「60番前札所」と言われる大師ゆかりの番外霊場でした。 お陰様で、いつも通るたびに気になっていたことがやっと判明しました。

 さてさて、タイトルの「♪さよならと さよならと 街の灯りがひとつずつ 消えて行く・・・」ですが、昭和35年に発売されたムード歌謡コーラスで知られる和田弘とマヒナスターズの『泣かないで』です。 
 今晩ここで別れても、「明日の晩も会えるじゃないか」という他愛いない男女の仲の話ですが、天恢にとっては、このブログの「分岐」から横峰寺へ向かう遍路道沿いにあった丹原の遍路宿のことを思い出します。 2度ほどお世話になりましたが、現在はもう廃業されたとのことです。 このところ遍路宿も後継者不足や施設の老朽化で廃業も増えてきています。 いろいろな事情でぬくもりのある遍路宿がひとつずつ、ひとつずつ消えて行くのは本当に寂しいことです。
 こうして平成の最後の年を昭和の歌で見送って、新しい御代を迎えることになります。 どうか皆さま良いお年をお迎えください。
返信する
(コツコツコツコツ) こんばんわ またお会いしましたね (楽しく遍路)
2018-12-17 08:40:04
♪さよならと さよならと 街の灯りがひとつずつ・・、こんな歌知らないぞと思い、YouTubeで聞いてみましたら、
よーく知っていました。
懐かしい白黒テレビの画面でした。
マヒナスターズの頃、私はもう東京に出ていましたが、まだテレビは持っておらず、定食屋などに長居しては、見ていたものでした。

そんなわけで、若い頃の私は、どちらかというと、ラジオのリスナーでした。
コツコツコツコツ こんばんわ、またお会いしましたね
あなたと私が、さりげなく会い、さりげなく別れるこの街角
今日から明日への曲がり角 ミッドナイト ストリート
これは毎晩のように聴いていました。ハートのムーこと牟田悌三さんが偲ばれます。

遍路宿のこと。
・・ぬくもりのある遍路宿がひとつずつ、ひとつずつ消えて行くのは本当に寂しいことです。
宮崎建樹さんが単独、「へんろみち保存協力会」を立ち上げたのは、昭和62(1987)のことだそうです。今から31年前のことです。現在、私たちがお世話になっている遍路道標は、その頃から建ち始めたと思われます。
根拠はありませんが、現在、廃業に追いやられている‘ぬくもりのある’遍路宿は、その多くが、その頃、ほとんど採算を度外視して開業した宿ではないかと、私は思っています。泊まるところがなかったら、お遍路さんが困るからと、ずっと宿を支えてくださった人たちがいたのです。
ここからでは届くまいと思われますが、お疲れ様でした。ありがとうございました、と言わせてください。

天井川をくぐる予讃線。
ネット上で、体験乗車しました。
天井川は、その名の通り天井知らずなのでしょうか、時とともに高さを増してゆきますから、やはり(苦労してでも)潜らせておいてよかったのかもしれません。私もいつか、実地乗車してみようと思います。

清楽寺のこと。
今号に含めたかったのですが、入り切りませんでした。写真だけになってしまったところを、コメントで補足していただけ、ありがとうございます。
この続き、清楽寺→香園寺→横峰寺 については、たぶん次々号になってしまうと思います。
次号では、ふたたび三芳に戻り、実報寺→西山興隆寺→生木地蔵 をふり返る予定です。
順序がすこし混乱してきました。

さて、まだちょっと早いですが、静かな大晦日を過ごし、穏やかな初春をお迎えください。
来年もよろしくお願いいたします。
返信する
Unknown (標石さがし)
2018-12-24 17:12:32
こんにちは。
 書かれてた四つ角の道標は昔に折れてしまい、そばの小さな田んぼに上部は寝かせ、下部は田の端に立ってありました。ですが、今はもう失ってしまったのですね。悲しいことです。
 あと、民家の道標は道路沿いにあったはずですが敷地内に置かれたようですね。これなら、長く保存できるでしょう。ただ、いつの日か元の位置に立てて欲しいです。
返信する
Unknown (楽しく遍路)
2018-12-25 16:22:56
「標石さがし」さん、貴重な情報、ありがとうございます。
冒頭が栴檀寺の茂兵衛道標から始まったからでしょうか、今号ではいつになく、標石にかんする記事が多くなりました。ほとんど勉強らしい勉強をせず書いておりますので、冷や汗ものです。誤りが多々あると思いますので、どうかよろしくご指導ください。
やはり道標は、路傍にあってこそ道標です。保存の問題はあっても、通行人の目にふれるようにして欲しいものと、私も思いました。
返信する

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