楽しく遍路

四国遍路のアルバム

安芸 手結港 赤岡 野市 大日寺

2015-09-03 | 四国遍路

 
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安芸駅
「ぢばさん市場」が安芸駅に併設されています。昼食や行動食を買うことができるばかりでなく、市内観光用の自転車を借りることもできます。無料です。
お借りして、市内を観光しました。自転車は、歩きで使う筋肉とは逆の筋肉を使いますから、脚にも心地よく、リラックスした時間となりました。


道路標識
甲浦で土佐路に入って初めての、平野らしい平野です。
「あき」という名は、どこから来ているのでしょうか。豊饒な土地の美称「あき」でしょうか、清明の秋(あき)でしょうか、それとも・・・?
「安芸」という文字が使われるようになるのは明治期だそうです。それまでは、・・・?

直進すると(北に向かうと)岩崎弥太郎さんの生家です。右に曲がると(東に向かうと)「野良時計」です。まず野良時計に行きます。


野良時計
明治の中頃のこと、当地の地主さんが歯車からなにから、みんな手作りで三面の時計をつくり、自宅に時計台を建てたのだそうです。安芸平野の「野良」に建ち、周りからよく見えたことから、「野良時計」と呼ばれたと言います。札幌時計台の方が早かったのですが、こちらは外国製でした。
とまれ、時あたかも「国づくり」の真っ最中、暦法時法を整え、これを津々浦々まで浸透させることは、中央政府の重点施策の一つでした。


野良時計
因みに日本に太陽暦と西洋式時法が導入されたのは、明治5(1872)12月3日だそうです。この日を明治6年1月1日として、歴と時法が一斉に変わりました。日本標準時が使用され始めるのは、やや遅れて明治21(1888)1月1日午前0時0分、でした。服部時計店の創業は明治14(1881)だそうです。時法の浸透には、時計の普及が欠かせません。
昭和30年代まで、日本の各家庭には「時計の間(部屋)」があったと思います。時計は一家に一台普及し(でも一台しかなく)、時計が掛かっている部屋を我が家では、「時計の間」と呼んでいました。ゼンマイ式ですから、時計を巻くのは子供の仕事でした。その後、核家族化の進行、安価なクオーツ時計の普及で、「時計の間」は消えてゆきます。


弘田龍太郎歌碑案内
弘田龍太郎さんの歌碑が、駅前や市街の所々にあります。
「弘田龍太郎」と聞いて分からない人でも、彼が作曲した「叱られて」「浜千鳥」「「雀の学校」「春よこい」「靴が鳴る」などなどの曲は、(失礼ながら若い人でもたいていは)知っています。これらは、いわゆる「大正ロマン」期の作品です。


「叱られて」歌碑
弘田さんは、明治25(1882)、安芸に生まれ、三重県で育ち、東京音楽学校(東京芸大)に進み、作曲を始めます。「鯉のぼり」は学生時代の作曲と言われます。晩年期は幼児教育に携わり、昭和27(1952)、没します。

さて、次は安芸城址に向かいます。東進し、安芸川の土手をさかのぼり(北上し)ます。安芸城は間もなくです。


安芸城址
有力在地土豪の一族がいました。安芸郡の郡司に出自をもつと考えられ、九条家領・安芸荘の荘官から地頭となり、安芸郡を支配するようになりました。「安芸氏」と呼ばれる一族です。
説明板によると安芸城は、延慶元(1308)、安芸親氏によって築かれたそうですが、別の資料に拠れば、同年、「修理」がなされたとされています。とすると、「築城」はもっと前と言うことになります。


曲輪跡
戦国期の安芸城は、南流する安芸川と矢の川(安芸川支流)を東西の外堀代わりとし、さらに二つの川を城の南で合流させて堀としていました。北には「城ケ淵」と呼ぶ淵があったと言います。
城郭の大部分は、今は埋め立てられて、ありませんが(矢の川もありません)、自然をうまく利用した、守りの堅い平山城だったと思われます。


天守跡
安芸氏は戦国期、長宗我部氏と抗争を繰り返します。両者の支配域が直接接していたからです。安芸氏は安芸郡を、長宗我部氏は長岡郡と香美郡南部を支配していました。
安芸氏が長宗我部氏に敗れ滅亡するのは、永禄12(1569)、戦国末期のことです。代わって安芸城に入ったのは、元親の弟、香宗我部親泰でした。親泰は安芸城を足場に、吉良川→羽根→室津→津呂→東寺→三津→椎名・・・と進軍します。海部城を陥として阿波に入り、日和佐城に迫る件については、 「日和佐 千羽海崖・・・」 で記しました。
また長宗我部氏は西に向けては、幡多郡を領した 一条氏 を追放し、土佐における地歩を固めました。天正2(1574)のことです。


毒井戸
安芸城を包囲した長宗我部軍の兵力は7200だった、との推定があります。長宗我部氏は、この時すでに、やがて四国の覇者たるべき軍事力を備えていたようです。
説明板によると、安芸勢は24日間の包囲に耐えたそうです。しかし、射かける火矢で城は炎上し、城主・安芸国虎は全将兵と領民の助命を条件に、自らは自決し果てた、といいます。「毒井戸」は、籠城中、長宗我部軍への内通者が毒を投じた井戸、ということです。


南側の堀
長宗我部氏による支配が30年続いた後、慶長6(1601)、山内一豊が入封してきます。一豊は高知城を築き、安芸、宿毛など五カ所に重臣を配しました。いまだ反乱を繰り返す一領具足(長宗我部遺臣)対策でもあったでしょう。
高知城は二代藩主忠義の時に完成、初めは河中山城(こうちやま城)→高智山城と名付けられましたが、後、高知城となりました。


枡形
安芸に配された重臣は五藤氏でした。この段階ではまだ一国一城令は発せられていませんので、安芸城は高知城の支城として整備されました。
写真は、五藤氏が築いたと思われる枡形です。攻城の軍が直進できないように、正面に石垣の壁をつくっています。壁に阻まれて敵軍が枡形内に留まったところを、櫓から狙い撃ちにする仕組みでした。慶長20(1615)、一国一城令が発せられ、安芸城も、城としての構えが解かれます。櫓は解体されました。


南側の堀
枡形に至る道は、城の時代は、おそらく木の橋だったでしょう。いざともなれば落とせるように。


表札
五藤氏は今も、ここにお住まいです。


廓中
城周りには武家屋敷が整えられました。


廓中
子孫の方たちの多くが、今もお住まいなのだそうです。

次は岩崎弥太郎生家に向かいます。弥太郎さんは、言わずと知れた三菱財閥の創業者であり総帥です。


岩崎弥太郎生家
自転車を止めると同時に、一台の車が入ってきました。案内ボランティアの方が、私が自転車で走るのを目にされて、来て下さったのです。


説明資料
とてもよく勉強されている方でした。楽しい説明をいっぱい聞かせていただきました。


日本列島
少年期の弥太郎さんが石を並べてつくった「日本列島」です。日本列島は我が庭の内にあり!気宇壮大な少年だったと言います。
さすがと言うべきでしょうか、石は、実際の方位に合わせて並んでいます。家は南面していますから、手前が南です。


鬼瓦
土蔵の鬼瓦です。ボランティアさんが、・・左右に鳥の頭が見えますが、なにか分かりますか?と質問されました。私はしばらく考えて、・・まさかヤタローさんではないでしょうね、と答えると、・・そう、そのとおり、だからヤタガラスなんですよ、とのことでした。八咫烏は、神武東征の道案内をしたという三本脚の烏です。
三つ巴は「水しぶき」を象徴し、防火のまじないだろうと、二人で話し合いました。


三菱
中央の「三階菱」は岩崎家の家紋だそうです。これに、土佐山内家の家紋「三つ柏」を組み合わせ、「スリーダイヤ」の三菱マークができたのだそうです。


階段
大日寺に向けて、海沿いの道を進むと、展望台がありました。上がってみると・・・


来し方
こんな景色が堤防で塞がれ、隠れていました。一番奥が室戸岬、その手前が行当岬、一番手前が羽根岬でしょう。ずいぶんと歩いてきました。しかし、まだ先は遠い・・・。


通行止め
穴内で通行止めになっていました。台風で堤防が壊れたようです。


台風被害
写真奥が八流の辺りでしょう。国道に出て、被害区域を迂回します。


行く先
八流山極楽寺を過ぎた先、赤野で、元の道に戻りました。白い建物の辺が手結山(てい山)でしょう。


休憩所
へんろみち保存協力会の地図にも載っている休憩所です。


稲わら干し
稲ワラは今、貴重です。ワラの火で焼いた鰹のたたきは、本当に美味いのですが、近頃はお目にかかれません。岩崎弥太郎さん生家もワラ葺きではなく、カヤ葺きになったと、ボランティアの方が話してくれました。



琴ヶ浜です。引く波があたかも琴を奏でる音に似て、この名がついたと言います。野中兼山が防風林、潮害防止保安林として、土佐湾に植林した松原の一つです。


松原
松食い虫で全滅しかかった松ですが、植林し、だいふ大きくなってきました。どの松も陸側に傾いています。


来し方
室戸岬、行当岬、羽根岬、そして八流が加わりました。八流は古戦場でもあります。安芸軍は、まず八流で長宗我部軍を迎え撃ったと言います。


ハウス
懐かしいハウスです。前回、ルナ・ピエナという美味しいスイカをいただきました。ルナは「月」、ルナ・ピエナは「満月」です。普通、スイカは地面に転がって育ちますが、ルナ・ピエナはぶら下がって育ちます。空中立体栽培というのだそうです。それで「満月」と名づけたそうです。海に浮かぶ満月=ルナ・ピエナは白く輝いて、本当にきれいなんですよ、と話してくれました。


ルナ・ピエナ
味は申し分ないのだけれど、スイカの場合その大きさ故に、販路を延ばしにくいという問題があります。大きいので運びにくく、家庭では保存しにくいのです。・・・なにか解決策があるはずだがと、路上でスイカをいただきながら、話し合ったものでした。


ルナ・ピエナ
あれから数年、販売面の問題は大きく改善されているようです。例えば宅配の飛躍的進歩とネット販売。
ある生産者が提案しているスイカ保存の知恵を、ひとつご紹介します。・・・一個切ってしまうと置き場がなくなるので、(残りを)一口大(サイコロ状)に切ってタッパーに入れ冷蔵庫に。そうすると子どもも自分で出して食べられる・・・。冬、暖房の中にいると喉も渇くし、そんな時冷えたスイカを一切れというのもなかなかいいですよ。 


手結港
なんだ、あれは!初めての人は誰しも、これを見てギョッとします。


手結港
可動橋でした。船を内港に通すため、定時以外は突っ立っています。1/25000地図には「橋」ではなく「道」として記されていますが、船の通行の方が優先されています。
渡ると、手結岬を経て隣の塩谷集落に出ます。岬の上に国民宿舎があったので、これへの交通の便を考え、建設したのかもしれません。残念ながら国民宿舎は平成21(2009)、閉鎖されています。


兼山の石垣
手結港で見落としてはならないのが、またまた野中兼山の工事です。350年以上も前の石積みが今も残っています。
現在の内港は明暦33(1657)に竣工したとされています。すでに在った湊を、兼山が浚渫し、拡充しました。日本初の「掘込み港湾」だと言います。


掘込み港湾
陸地を掘込んで手結港(現・内港)を造成しました。南にある手結岬、手結山を、波風避けとして巧く使い、港湾口を西に向けています。


安政地震の碑
香美の飛鳥神社境内にあります。安政地震は、東海地震と南海地震が連動した地震でした。現在、私たちが怖れている「東南海地震」です。嘉永7(1854)11月4日に東海地震が起こり、その翌日、南海地震が起きています。この嘉永の地震を、後の年号改元に合わせて「安政地震」と呼んでいます。むろん津波も起きています。潮が20㍍も引き、人々は手結港でウナギを捕ったと、説明板に記されています。


碑文
安政年間、日本列島は地震の活動期にあったようで、他にも、八戸沖、江戸を震源とするなど、地震が多発しています。これらを含めて「安政地震」と呼ぶこともあるようです。黒船来航(嘉永6)で「夜も寝られ」ないなかでの、巨大地震の発生です。社会不安がたかまりました。後世の私たちが「幕末」と呼んでいる時代です。


赤岡
赤岡は漁業と商業を発展させました。かつて参勤交代の一行は高知を発ち、赤岡で一泊目を迎えたと言いますから、城下からのほどよい距離が、この地に独立した商業圏を形成させたと言えます。明治33(1900)の「株式会社赤岡銀行」設立などは、・・県下に先駆けるものであり、当時の赤岡商人独特の意気込みを伝えている・・と説明看板は記しています。
因みに参勤の列は赤岡の後、安芸、田野、野根、甲浦、と泊まったようです。「絵金」については、リンクをご覧下さい。


深淵神社の杜
野市に入ると遍路道は山沿いに北上しますが、私は西進し、物部川のすこし手前で北上します。深淵神社、「三つ叉」を訪ねた後、東進して大日寺に参ります。
深淵神社は深淵郷の総鎮守です。「三つ叉」は野中兼山の工事になる水門で、時季ともなれば、野市の田んぼを水で潤します。


深淵神社
祭神は深淵水禮花命(深淵みずやればなの命)。古事記に登場する神です。説明看板に、・・水神として元原部島にあり十善寺を経て明治25(1892)、現在地に遷宮した、・・とあります。物部川が暴れるので、神様もあちらこちら、引っ越したのかもしれません。
ちなみに物部川洪水の記録を調べると、明治25(1892)に江戸時代の堤防が各所で決壊したことが記されています。兼山の工事で、物部川の「水路」は定まりましたが、堤防は弱小で、・・増水のたびに流失と復旧を繰り返しました・・とあります。


十善寺溝
豊かな水が流れています。「三つ叉」から流れてくる物部川の水です。十善寺溝と呼ばれ、農業用水ですが、生活用水として使われていた形跡も見られます。
三つ叉からは十善寺溝の他に、町溝、東野溝が引かれました。三つに分かれるので「三つ叉」です。


城山
戦国時代の城跡です。香宗我部氏の武将が守っていたのでしょう。香美郡の宗我部氏が香宗我部氏です。
長岡郡の宗我部氏=長宗我部氏とは、同族関係はありませんでしたが、長宗我部元親の弟・親泰が香宗我部氏の養子に入り、以降、一族となりました。親泰が安芸城に入って以降の件は、前述の通りです。  


海抜29.8㍍
・・・予想より高いですね、せいぜい10メートル程かと思っていました。・・・しばらく一緒に歩いてくださった地元のご夫婦に話したら、「線路を境に、高くなっているんですよ」とのことでした。この辺は洪積台地なのだそうです。
そのため、かつては水が少なく、兼山の工事以前は、開墾されることなく荒れ地として放置されていたと言います。加えて、物部川は氾濫を繰り返していました。それ故に、「牟岐 満徳寺 ・・・古目大師」で記した四方原開墾の人たちは野市を出たとの説があるくらいです。ただし四方原もまた、長く人手が入らない荒れ地でしたから、野市を見限った理由としては、疑問はあります。


上井川(うわゆ川)
物部川の「上井堰」から取水した用水路で、上井川と呼ぶようです。大日寺に参った後の遍路道で、私たちは上井川の上流と出会います。
写真奥から流れてきた水は、手前の「三つ叉」で分流します。正保元(1644)に完工し、下流に460㌶の新田が生まれた、とのことです。戦国の世は終わり、新田は(奪うのではなく)造らねばならない時代となっていました。
なお兼山は「上井堰」のさらに上流に、「山田堰」を築いています。香長平野をうるおす堰で、その工事は、寛永16(1639)から寛文4(1664)まで、実に26年をかけています。これについては、次回に記したいと思います。  
 

三つ叉
右が十善寺溝で、物部川に並行するように南流します。中が町溝、左が東野溝です。町溝と東野溝は、並行して東進し、野々宮神社(後述)の辺りで分かれます。町溝は南流を始め、東野溝は、さらに東進します。こうして野市一帯に水を行きわたらせました。


水路
この工事で兼山は、一領具足と呼ばれた長宗我部遺臣を積極的に登用しています。「野市百人衆」などと呼ばれたようですが、要するに「危険分子」の山内藩政への取り込みです。遺臣は、郷士(下士)という低い身分に押さえられましたが、一人あたり3町ほどの耕地開発を認めるなど、優遇措置も受けました。これら郷士の子孫たちから、幕末、「維新の志士」が排出したことは、よく知られていることです。


水路
並行する町溝と東野溝の間を歩きます。


分岐
ここより町溝と、(兼山の時代にはなかった)近藤溝が南流を始めます。私は東野溝とともに直進(東進)し、すぐ先の野々宮神社に参ります。


野々宮神社
由緒看板はこの場を、・・・中世、野市は野々宮の森よりはじまる。今此森に鎮座するのが野々宮神社である。東に山獄空を凌ぎ 南は大海原であり そしてその間に野市平野があり その西は物部の清流混々として流れ まことに清浄の極みである。・・・寛永年中、野市村の開墾竣工し、初めて村落となるや総鎮守とした・・・、と記しています。「寛永年中、野市村開墾竣工」、まさに兼山の業績です。
祭神は野槌神(のづ神)。野山の神であり、山野の草木の主宰神、染色の祖神である。また伝えるところによれば料理の神という、とのことです。


大日寺
明治4(1871)の廃仏毀釈では、大日寺もまた廃寺となっています。再興(明治17)までの間、今は国重文となっている木造大日如来座像も農家に身を寄せ、ようやく破壊を免れたといいます。
梅原猛さんは、・・ 廃仏毀釈がなければ、国宝といわれるものは、現在の優に3倍はあっただろう、と推定されています。興福寺の五重塔が(諸説ありますが)5円とか50円とか250円とか、まき代ほどの値段で売りに出されていた事実は、廃仏毀釈の「狂気」を説明する例としてよく取りあげられますが、本当に恐ろしいことです。


奥の院
爪彫薬師さんは首から上の病に霊験あり、とのことです。願いがかなうと穴の開いた石に氏名などを記して奉納します。


穴の開いた石
願いがかないました。


景色
これより国分寺に向かいますが、途中、土佐山田の野中兼山終焉の地、谷秦山(じんざん)墓、 お婉堂、比江廃寺、土佐国衙跡などに立ち寄ります。谷秦山は、兼山によって登用された郷士の子孫で、兼山の朱子学を継ぐ人です。次回は、これらの報告です。

ご覧いただきましてありがとうございました。更新予定は9月24日です。

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2 コメント

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🎶夕焼けこやけで日がくれて・・・ (天恢)
2015-09-09 11:04:19

 毎度ですが、今回も『安芸~大日寺』の満載・道中を楽しく読ませていただきました。 
 昨春、天恢も拾い・見残し遍路で、安芸を訪れて、「ぢばさん市場」で自転車を借りたのですが、リュックが大きすぎてロッカーに収まらず、前カゴに乗せて、短足なので地に足が着かないフラフラ走行。 おまけに自転車の返却時間を気にしながら「野良時計」の撮影で、これだけで終わりました。 それでも、ゆったりした美しい夕暮れの安芸の町に「夕やけこやけ」の放送が流れ、ここは「童謡の里」だと気づかされました。
 次の日、これも見残していた夜須の手結港へ電車で直行したのですが、手結港可動橋の昇開だけを気にしての写真撮影で、「楽しく遍路」さんの『見落としてはならないのが、野中兼山の工事で、350年以上も前の石積みが今も残っています』 とのご指摘は目に入らず、日本最初の掘り込み港湾の考察は、宿題として次回に持ち越されました。
 今回のブログでは、手結内港のほかに野中兼山による治水工事の一つである「三つ叉」も紹介されました。 28番大日寺から29番国分寺への遍路道沿いの台地ですが、どうもこの辺りは目印が少ないので、たびたび道に迷って泣かされたところです。 地理的には物部川を渡る戸板島橋の手前ですが、この水門の近くを(迷って)歩いた記憶があって、都会にあったら絶好の親水公園になる景勝地ですね。
 次回は、野中兼山が26年もの歳月をかけた香長平野の治水灌漑工事の偉業と兼山終焉の地・土佐山田の場面だそうで、勝手ながらブログの展開を楽しみにしています。
返信する
ぜひ、お楽しみに (楽しく遍路)
2015-09-09 14:55:15
いつもいつも、ありがとうございます。
天恢さんが遍路を楽しんでおられる様子、うかがえて嬉しいです。拾い・見残し遍路なんて、ちょっとニクイですね。
ぢばさん市場にロッカーがあるとは、つゆ知らず、(知らぬとは言え失礼しました)自転車係のお姉さんにためらいもなく、荷物預かってもらえますかとお願いし、空身で、ゆうゆう市内観光をしたのでした。
放送(防災放送でしょうか)は町によって異なり、楽しませてくれます。神峯からの下りでは正午のサイレンが鳴り、その後、ラジオ体操が流れました。「夕やけ小やけ」が流れるとは、(弘田さんの曲ではないみたいですが)安芸らしいですね。数年前、駅前のトイレをお借りしたら、借用中、しばらく童謡曲が流れていました。童謡の町です。今はどうでしょうか?

迷って水門を見つけたとは、さすが天恢さんです。
私の場合、若いご夫婦が一緒に歩いてくださって、(奥さんが野市育ちで、旦那さんは東京でした。旦那さん曰く、私、マスオさんなんです。奥さん曰く、ご苦労さんです)、ほぼ迷うことはありませんでした。ただ深淵城址は野市育ちの奥さんも知らず、あきらめて三つ叉に向かっていたところ、たまたまハウスから出てきたお年寄りがいて、「ダメモト」で尋ねてみると、ご存知で、教えてくださいました。そのときは、もう行き過ぎていたのですが、引き返しました。

次回も、野中兼山がいっぱい登場すると思います。兼山工事の舟入川沿いを歩き、兼山終焉之地を訪ね、次いで谷秦山墓に参ります。谷秦山は、兼山の後、絶えていた土佐南学を中興する人で、兼山の没年に生まれた人です。父は、兼山に登用された郷士です。次に、兼山の四女・婉が建てた野中神社に参りますが、婉は、谷秦山の弟子でした。幽閉中、文通で谷秦山から儒学、医学などを学んだと言います。なお、谷秦山の儒学の師は山崎闇斎です。闇斎は兼山の「学友」でした。
こんな「奇しき」人のつながりを感じつつ、歩きましたので、ぜひ、次回をお楽しみに。
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