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夜明け前の薬王寺
早く目が覚めてしまいました。足慣らしにまだ暗い日和佐の街を散歩しました。二日目です。まだ足が「遍路の足」になっていません。
今日は千羽海崖の上を歩いて白沢に出ます。距離はたいしてありませんが、急な上り下りの繰り返しが予想されています。しかも擬木の階段が多いとのことで、膝に来そうです。
白沢から峠を越えて再び海沿いの道に出るか、それとも峠から引き返して山河内に出るかは、その場の判断となります。いずれにせよ、峠は見ておきたいと思っています。
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薬王寺から見た日和佐城
城が建つ地形をみてみます。
城山の高さは60㍍余。東が海に、北と西が、三本の川がつくる広い河口部に囲まれ、南は千羽海崖の上に続いています。三本の川は北河内川、日和佐川、奥潟川です。
海部郡村誌には「日和佐塁址、城山と称す。地位三段、最高40間、東西14間、南北22間、石垣処々に散在す」とあるそうです。「三段」は、写真からも確認できるように思います。
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日和佐城
日和佐の海路を扼す、天然の要害ですが、実は日和佐城について知られていることは、あまり多くありません。遺構も、ほとんど確認できていないと言います。
知られていることの大要は次の様です。・・・築城は室町末期の、永禄の頃とも元亀の頃とも言われています。16世紀の後半です。土地の豪族・日和佐氏が、長宗我部元親の阿波侵攻に備えて築いた、と考えられています。
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日和佐城へ
・・・しかし日和佐氏は、城は築いたものの、内々、長宗我部氏に通じ、攻城の将・香宗我部親泰が起請文を差し出すと、早々にこれを受け入れ、降伏してしまいました。天正5(1577)のことです。
海部城がたちまち陥落したことに恐れをなしたからとも、大挙して押し寄せた土佐の船団を見て恐れをなしたからとも、また、阿波に勢力をはる三好氏への対抗上、土佐勢に組したからとも言われていますが、詳細はわかりません。
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「天守」
長宗我部氏は起請の通り、日和佐氏を許し、土佐に逃がしましたが、薬王寺に対しては極めて厳しく、これを焼き払っています。薬王寺が再興するのは、およそ150年後の享保年間(18世紀前半)のことだと言います。
起請文とは、神仏にかけて約束は違えないという誓約の書です。違えると神罰、仏罰を受けることとなります。ただし、その場合の「神仏」は「自分の神仏」であって、「他人の神仏」は含みません。むしろ「他人の神仏」が「敵」でさえある様は、今日、私たちが目にするところでもあります。躊躇いなく薬王寺を焼くことができるのは、そういうわけです。
「天守」は、天守風に建てた「日和佐勤労者野外活動施設」です。永禄・元亀の頃、まだ「天守」は登場しておりませんでした。
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日和佐城-薬王寺-玉厨子山
奥潟川を挟んで日和佐城と薬王寺が建ち、薬王寺の背後に、丸い頂の玉厨子山が見えます。
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別の場所から写した玉厨子山
玉厨子山(泰仙寺)は薬王寺の奥の院です。 「日和佐 泰仙寺・・・牟岐へ」 で触れましたので、よろしければご覧ください。
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登り口
城跡から海崖の上に出る道です。少し歩くと、小さな回遊路に出ます。周りながら四方の景色を楽しむことができます。
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海
東方向は海です。朝日がきれいでした。
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大浜海岸
北方向にウミガメで知られる大浜海岸が見えます。ウエルカメの舞台です。
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立島
大浜海岸の手前に立島が見えます。立島-薬王寺-玉厨子山(泰仙寺)が一直線上に並ぶことは、「日和佐 泰仙寺・・・牟岐へ」で触れました。立島は、前掲の「薬王寺から見た日和佐城」にも写っています。
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日和佐の街
西方向は日和佐の街です。ちょうど、田に水を入れる時期でした。
・・・ここからも玉厨子山が見えます。なるほど、玉厨子山は目当て山だったわけです。
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爆弾跡
先の戦争で米軍艦載機が投じた50㌔爆弾が(照準を誤ったらしく)海崖の道に落ちたそうです。巨大な穴は年月を経て、土砂で埋もれてしまいましたが、戦争の記憶は埋もれさせてはならず、戦争遺跡として残されています。
旧日和佐町による案内板は、・・・(昭和20年)春から夏にかけて空襲が激しくなり、市街地や農耕中の牛、操業中の漁船などが機銃掃射を受け、死傷者が出る大惨事となったが、今知る人はしだいに少なくなっている。しかし不幸な戦争の爪跡をいつまでも忘れず、過ちを二度と繰り返してはならない。・・・と記しています。
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景色
海崖は、海食(触)崖ともいいます。激しい波浪の浸食によって生じた崖です。私たちが一番よく目にする海崖は、御厨人洞の崖でしょう。
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景色
しかし千羽海崖は、波浪の作用もありますが、大きくは、断層がずれて生じたと言います。海から見ると、断層崖が絶壁となり屏風状に続いているそうです。
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景色
千羽海崖の道には、休憩所として四阿が、何か所か建っています。指ノ鼻、大磯、嵐瀬、通り岩、千羽、の各休憩所です。
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景色
大きな景観がえられるのは休憩所の辺で、休憩所間では、景色は木にさえぎられ、あまり見えません。
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景色
しかし、絶壁の上を歩いているのですから、あまり景色が見えすぎるのも、・・・。ときどき樹間を通して見える程度が、ほどよいのかもしれません。
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景色
「千羽」の名は、絶壁に営巣するイワツバメが一斉に飛び立つ様を、弘法大師が「千羽の崖」と表されたことから来ている、とも言われています。
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景色
下に、「通り岩」が見えます。
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景色
阿部のお水大師辺でも見ましたが、牟岐大島がだいぶ近づいてきました。
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景色
「通り岩」を過ぎ、ふり返って見た景色です。
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景色
千羽休憩所辺りの景色です。
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景色
千羽休憩所を過ぎると、道は海沿いから離れ、山に向かいます。
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道
外ノ牟井海岸へ降りる道がありましたが、ケダノタオ(後述)に登りたく、断念しました。千羽トンネルの上を越え、テレビ塔が建つ尾根を目指し、登ります。
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中継塔
長い擬木階段をのぼってきました。中継塔が並び立っています。
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沢
せっかく上った尾根筋から、また沢筋まで下ります。そして・・・、
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切り通し
また峠まで登って、ようやく白沢(はくさわ)へ降りてゆくことになります。
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白沢
白沢の一番奥に出てきました。これまでとは異なる空間が拓がっています。道なりに、緩やかに下り、山河内からの入り口に向かいます。
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白沢
(確認できていませんが)写真奥の山並みの、左寄りの鞍部が、阿波学会研究紀要「日和佐町の峠道」に記されている「サデモリノタオ」ではないでしょうか。「タオ」は「峠」ですから、「サデモリ峠」です。
同論文は次の様に記しています。・・・峠名のサデモリはサネモリのことで、斎藤別当実盛の御霊が稲の虫になって人々に祟りをなすという言い伝えから、稲の害虫を防除する虫送りの行事にその名が出る。・・・虫送りの日は打越寺に集まって、日和佐の浄光寺から借りてきた大きな数珠をまわして祈祷する。その後里芋の葉にオガ(害虫)を包んだものを1.2m 位の笹竹にぶら下げて、「サイトウ ベットウ サーデモリ」と言いながら、峠まで持って行って捨てた。人数はそう多くはなく、一人で運んだこともあった。オガは一つの家から1本ずつ出した。昭和の初めまで続き戦前にはもう終わっていた。・・・虫送りの行事は、米の豊作を願う農村の大切な行事であったが、科学の発達や社会情勢の変化で消えて行った。しかし、このような民俗行事があったことを今に伝える峠は、その名前とともに残しておきたいものである。
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白沢
「虫送り」をご存知の村人はいないだろうか、お年寄を三人、探して尋ねてみたのですが、残念、(前号でも記しましたが、もうお年寄は「戦後育ち」なのでした)、三人の内、お二人はまったくご存じなく、お一人が、「サデモリ」という名前は聞いたことはあるが、それが何処かは知らない、とのことでした。
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道標
山河内からの入り口付近に道標が建っていました。三方向を示しています。山河内駅1.4キロ、(私が歩いてきた)千羽休憩所4.6キロ、そして牟岐駅14.4キロです。「牟岐駅」が表示されているのは、おそらく駅を起点にしたハイキングコースを想定しているからでしょう。
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ケダノタオへ
道標の「牟岐駅」に従うと、道は峠に至ります。かつて「ケダノタオ」と呼ばれていた峠です。
前述の「日和佐町の峠道」は、次のような古老の話を採録しています。・・・お薬師さん(薬王寺)の市には牟岐の人がようけ(峠を)通りよった。お遍路さんも通りよった。30年位前までは峠を越えて炭焼きに行った。ゲダはゲドウのことでお化けのこと。昔この辺りはお化けがよう出て困るので、峠にお地蔵さんを立てた。・・・
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ケダノタオへ
ゲドウ=外道、人外の化生が棲んでいたという峠の話を、前述のお年寄三人に尋ねてみました。が、どなたも、聞いたこともない、とのことでした。また、お三方の内お二人は、(長年住んでいるけれど)登ったこともない、とのことでした。
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ケダノタオへ
「山頂(峠)まで50分」と、何方かが情報を追加してくれました。
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ケダノタオへ
こんな道ばかりではなく、むろん擬木階段もあります。ラスト400㍍は急な擬木の階段でした。
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峠の道標
峠の道標について、「日和佐町の峠道」は記しています。・・・ここに立つ四国の道の道標には「山河内駅3.4km サンライン1.7km」のみで、現在地名が記されていない。「ゲダノタオ」をなぜ採用しなかったのだろうか。
まったく同感です。
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地蔵尊
この地蔵様が「ケダ」を鎮めてくださいました。
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地蔵尊
「楽王寺 二り」とあります。「薬王寺 二里」です。・・・お薬師さん(薬王寺)の市には牟岐の人がようけ通りよった。・・・牟岐の人たちの荒い息が聞こえるようです。
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下り
海側への下りの道です。下りて、海沿いに牟岐へ向かいます。「東牟岐七十り」です。「東牟岐」は、土地の人が「東浦」とも呼ぶ「宮ノ本」の辺りでしょう。
・・・お遍路さんも通りよった・・・、しかし私は、時間的に無理のようです。加えて、この先で歩きの道が塞がっていることを、天恢さん情報で知っていました。ここから引き返します。
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山河内へ
牟岐へ、歩きで行くか、汽車(と呼んでいいのでしょうね)で行くか?・・・汽車を選びました。生まれた時間で牟岐の街を散策します。
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牟岐駅
出来るなら「古牟岐」まで行ってみたかったのですが、そこまでの時間はありません。牟岐川の左岸、河口付近を歩いてみました。
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牟岐川河口
沖に出羽島(てば・しま)が見えます。私は明朝、一番の船で島に渡ります。
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出羽島アート
出羽島は今、「ムギ テバ アート」の期間中でもあります。短時間の滞在ですが、楽しみです。
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五剣山
牟岐川上流方向の山です。その山容がずっと気になっていたので、道行く人に尋ねてみました。「五剣山」だそうです。「中学の校歌にも出てくるよ」と言って歌ってくれました。・・・五剣の峯は弥高き理想を語る・・・牟岐中学校です。
調べてみると長田新さんの作詞でした。戦前-戦後を通しての教育学者で、「原爆の子・・広島の少年少女のうったえ」の編集刊行がよく知られています。新藤兼人監督で映画化もされています。(当時私は観ました)。作曲は信時潔さんです。
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八幡神社
承久2(1220)、奈良八幡宮より勧請された、とのことです。
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八幡さんのクスノキ
樹齢500年と推定されているそうです。よい樹相をしています。
白い由緒看板が建っているので近づいてみると・・・、
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23士を泊めた生田家
こんな所で土佐勤王党の志士「二十三士」に出会うとは思いませんでした。
土佐藩を脱藩した「二十三士」の一行は、野根川上流の阿波側番所=船津番所で止められ、ひとまず牟岐の八幡神社に移されました。その後、数名ずつ、当生田家他の家に分宿させられたと言います。山越えで阿波→讃岐→京、を目指す計画はとん挫したわけです。
約一か月間でしたが、礼を以って遇されたようで、首領の清岡道之助さんは生田家宛ての歌を残しています。・・・生久し田もてことぶく梅に鶴 又訪ふ折の契り可波勢舞 甲子秋の日 旭梅軒・・・
甲子は元治元(1864)、旭梅軒は道之助の号。
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奈半利の二十三士墓
土佐藩に引き渡された二十三士は奈半利に運ばれ、後ろ手に縛られたまま、奈半利川河原で斬首されたと言います。武士への扱いではなく、武士を辱める処刑でした。墓は後年、道之助の妻、静によって建てられといいます。
手前から、清岡治之助正道 享年39才、清岡道之助成章 享年32才、他、最高齢40才が1人、30才が4人、20代が12人、10代が4人です。みんな若い!
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海蔵寺に逃げろ!
八幡神社の少し先に真言宗海蔵寺があります。二十三士ゆかりの寺です。捕縛の時、臨時郡役所が置かれ、取り調べが行われました。
海蔵寺はまた、(慶長、宝永の大津波に被災し高台に遷され、以来)、東浦一帯の津波避難所とされていたことでも知られています。
後に昭和南海地震と呼ばれる大地震が起きた日、昭和21(1946)12.21 未明・・・しかし、その日の揺れは激しすぎた。平吉は「これはだめだ」といい、寝間着一つの女たちに向かって「服を着て(高台の)海蔵寺に逃げろ」と命じ、誰が誰を連れて逃げるか、真っ暗な中で担当を決めた。・・・悲惨だったのは町に来て間もない地理不案内な家族であった。ある母親の哀しい証言が牟岐町編「南海道地震津波の記録 海が吠えた日」にある。・・・
「天災から日本史を読みなおす」(中公新書)の一節です。「南海道地震津波の記録 海が吠えた日」は、ネット上で読むことが出来ます。「地理不案内な家族」を「地理不案内なお遍路さん」に置き換えて、ぜひ読んでおきたいものです。昭和南海地震で牟岐は、53名(52名とも言われる)の死者(大半は津波による死者)を出しています。
ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次回更新予定は5月21日です。出羽島に渡った後、宍喰に移動し、阿波-土佐の国境を越えます。
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さて、今回もブログを楽しく読ませていただきましたが、先ずは、日和佐城の歴史で登場する戦国武将・長宗我部元親ですが、四国統一という己の野望を果たすために土佐から阿波、讃岐、伊予に攻め入って、城を落とし、寺社を焼き払い、民を苦しめた「四国一のワル」です。 遍路の歴史を調べたら元親に焼き払われた札所がいかに多いかを知って「四国一のワル」との天恢のご指名ですが、その元親は現代では人気のある武将で、とくに若い女性に慕われているとのこと。 正しい歴史認識はどうなっているのか? いろいろ考えさせられます。
日本人には不思議な国民性があると思います。 阿波、讃岐、伊予の方から土佐や元親についての怨みつらみは聞いたことがありません。 先の大戦で無差別爆撃や原爆を投下されてもアメリカを憎むようなことはほとんどありません。 しかし民族が違ってくると過去のことだから忘れましょうといっても「やられた国」は簡単に許してくれません。 隣国の大統領が「1000年経っても日本を恨み続ける」との発言を聞いて胸が痛みます。 はっきり言って周辺国を武力で侵略したことは事実ですが、日本が未来永劫謝り続けても解決には至りそうもないからです。 憎しみ合っても未来はまったく見えませんからお互いに仲良くやっていくことが大切なんです。 ベトナム戦争終結40年の式典でベトナム首相がアメリカに対して「過去を水に流し、未来を見据えている」との言葉に「憎しみの連鎖」を越えた「救い」を覚えました。
歴史認識のあり方で、どうしても忘れてもらいたくないことがブログに書かれてありました。 昭和21年の昭和南海地震ですが、地震の巣にある日本ですから地震被害からは誰もが逃れることはできません。 地震が発生したらどのように避難するか? その時誰もが問われることです。 東日本大震災から3年が過ぎて、今でも天恢が一番心痛むことは、避難が遅れた石巻市立大川小学校児童74名の悲劇です。 (これは津波被害ではなく人災ですが、)一方では小学生と中学生の犠牲者は皆無に近かった「釜石の奇跡」があって、いかに日頃の避難訓練の大切さを教えてくれます。 すでに風化も始まっていますが、絶対に忘れてならないのは「地震はまた起きる」のです。 正しい避難のあり方が歴史認識として語りつがれていくことを切に願っています。
ご一緒できたら、どれほど楽しかったことでしょう。返す返すも残念です。ただし、ケダノタオのラストの部分では、すっかり疲れていましたので、迷惑をおかけしなくてよかったと、立ち止まり休むたび、思いました。
歴史上の「覇者」と呼ばれる人たちは、社会に一定期間、安定をもたらした人たちですが、むろん、その課程で多大なる破壊と殺戮を繰り返しています。彼らへの後世の評価は、安定支配期間にあげた「功績」と破壊殺戮の度合いとが、比較され勘案されて下されるのですが、まあ、たいていの場合は「功罪相半ばする」と判定され、「功」と「罪」が列挙されて終わっています。
さて、元親さんも「覇者」の一人ですが、幸か不幸か、四国を安定支配する期間はきわめて短く、史家の中には四国統一を疑う人さえいる状態ですので、当然、四国覇者としての功罪は「相半ばする」ことはなく「罪だらけ」で、天恢さんから「四国一のワル」と指名されても文句は言えません。
「もし」は歴史の禁句ですが、あえて犯して、もし、もう少し支配期間が長かったと仮定すれば、覇者として必ず着手するのは、支配を行き渡らせるための道路網の整備ですから、四国の遍路道も、今とはずいぶん違うのかもしれません。とすると、天恢さんの舌鋒も少しは和らいだ?でしょうか。やはりネガティブ、ですね。
私は知らなかったのですが、元親をもてはやすギャルたちは、「もし」の禁句を犯すどころか、堂々公然、ゲーム機上で歴史の「捏造」を楽しんでいたのですね。「姫若子元親」をゲーム機の画像に見て心ときめかすなど、おこの沙汰と言うほかありません。
「日本人には不思議な国民性があると思います」・・・これ以下については、いろいろ書いてみたのですが、どれもまとまりません。(そのために返信遅くなりました)。特に、私たちが持つ「私事」と「公事」との距離感(国が犯した行為を、どのように私事として捉えるか)について、思い迷うところがあり、まとまりません。宿題として預からせてください。
天恢さんからのコメント、勉強させられます。これからもよろしくお願いします。
いつものことですが、豊富な知識と下調査に基づいた調査行。唯々感心するばかりです。ただ、今回はゲダノタオを下れなかったこと、残念に思います。私は「峠を越して見た青い海」に大変感動したからです。
天恢さんのコメントが楽しく遍路さんの報文を結ぶ・・素晴らしいコンビネーションも羨ましく思うことです。お二人の会話に割り込むというタブーを敢て犯させていただきます。
今回の天恢さんのコメントの中後段。私もそのように思いますが、同時に、過去の人の負債をちゃんと引き継いでゆくという考えと行動が重要であるとも考えます。
余計なことを言いました。失礼おゆるしください。
「楽しく遍路」さんも同感でしょうが、今は仕方無しに二人で遣り取りしているのが現実です。 本音はもっと多くの方からコメントいただいて、ワイワイ楽しくやれたらと願っております。
コメントにありましたように、日本が過去の人の負債をちゃんと引き継いで、恒久に不戦と平和を誓って世界に行動していくことを願ってやみません。
これからも宜しくお願い致します。
「峠を越して見た青い海」、コメントでも勧めていただいたのに、見ることなく引き返してしまいました。機会をとらえて再挑戦しようと思います。
千羽海崖のアップダウンがこたえていたのだと思います。遅くなって宿に迷惑をかけてはいけないなどと合理化しつつ、易きに流れてしまいました。天恢さんからも、(不通箇所があるけれど)サンラインで不通箇所を越え、そのまま歩いてもいいし、どこかで下の歩き道に降りてもいい旨、助言をいただいていたのですが、・・・。
横子峠の道標は「東寺」を示していましたが、白沢の峠は「東牟岐」でした(本文では触れるのを忘れました)。どのようなかげんなのでしょう?
返事にならない返事を書きます。
もう実現は無理になっているのですが、かつて抱いていた夢があります。
・・・四国の後は九州を歩き、対馬を歩き、釜山に渡り、半島を北上する、という夢です。日本に伝わった大陸・半島文化の流れを遡上する試みです。
その道は「秀吉の軍」が進み、「日本帝国の軍」が進んだ道でもありますから、きっと肉体的以上に、精神的に厳しい旅になったと思いますが、もし実現できていたら、もう少しは、ものが視えるようになっているのではないでしょうか。易きに流れたこと、悔いています。
これからも、よろしくお願いします。