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鶴林寺道から見た「かも道」
地図上で那賀川を、下流から上流へ遡ってゆきますと、右岸に「加茂」という土地が見つかります。ここから「かも道」という太龍寺に通じる尾根筋の道が始まります。
写真は生名から鶴林寺に登る途中の展望地点で撮ったものです。手前が上流になります。
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加茂から見た「かも道」と太龍寺山
鶴林寺に参った遍路は、一般的には、那賀川にかかる水井橋まで降り、再び登って太龍寺に参ります。その水井橋がある水井は、此処、加茂から更に5キロ上流になります。水井橋から太龍寺は約4.2キロです。
「かも道」の起点は、写真奥に見える民家群の上にある一宿寺です。尾根筋を歩いて、太龍寺まで約4.8㌔だと言います。
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お松大権現
加茂には、有馬、鍋島に並ぶ「日本三猫騒動」の一として知られる「お松大権現」があります。一宿寺にお参りする前に、お松大権現を訪れました。
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お松大権現
庄屋惣兵衛と妻のお松が、金貸しと悪徳奉行のひどい仕打ちに遭い、悲運の死をとげました。その恨みを、愛猫が妖怪変化となって晴らします。
由緒書きには・・・正義へのかぎりなき執念に死をも厭わず貫き散ったお松さまの悲しい生涯、その美徳を偲び今も参詣者は絶えない・・・とあります。今、「執念」「妖怪」などの「暗さ」はありません。
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出水危険地帯
一宿寺へ向かう途中、ふり返って見た景色です。赤白の柱は、那賀川氾濫の時、その水位を知るためのものと思われます。
撮影した時は、まさかと思っていましたが、今夏、台風11号の大雨で那賀川が氾濫、加茂谷中学校の2階までが水に浸かったと報道されました。写真奥、白い四階建てが加茂谷中学校です。
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実績浸水深
すぐ側に、平成16(2004)、今から10年前、台風23号による出水時の「実績浸水深 1.7㍍」が示されていました。
渓谷を蛇行してきた那賀川に、加茂谷川が合流する所が加茂です。氾濫が想定されています。
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西加茂の一宿寺
だからでしょう、加茂の平地には民家はありません。民家はすべて、お松大権現がある東加茂と、一宿寺がある西加茂の山裾に建っています。
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一宿寺から東加茂のお松大権現方向
加茂谷中学の校舎が見えています。避難所を意識して、四階建てにしてあるのかもしれません。
中学の背後の山裾に「お松大権現」があり、山と山の間を那賀川が流れてゆきます。
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一宿寺
仮本堂です。徳島県教委が出したパンフ「阿波歴史体感ネットワーク 阿波の遍路道 20番札所鶴林寺~21番札所太龍寺」によると、
・・・弘法大師が修行で訪れた時に宿泊した地であり、その後、嘉保年間(1094-1096)に京都東寺の僧長範が太龍寺を再興するために宿したことから寺名が付いたとされています・・・とのことです。
また、・・・長範が京都から多くの大工などを呼び住まわせたことから地名に「加茂」や「醍醐」が付けられたとも言われています・・・とあります。
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スタート地点の丁石
一番奥の丁石は四十一丁石です。側の案内標識には4.8キロとあります。
他の丁石はまったく別の所に在ったり、寺に保管されたりしていたものだそうです。
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登り口
一宿寺の境内から「かも道」が始まります。
「かも道」については、ウェブ上で公開されている阿南市の広報誌「あなん」の特集「かも道の魅力に触れる旅」から多くの情報をいただきました。
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道
竹林は「かも道」の特徴のひとつです。
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石室
道沿いに点々と石室があります。西国33観音が祀られていたそうです。
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西国33観音
石室の観音像は一宿寺境内に遷されています。
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丁石道
三十三丁石です。同形式の丁石は11基残っており、貞治(じょうじ)の年号が使われているそうです。14世紀、南北朝時代の北朝の年号です。弘法大師の時代から約600年後、東寺の僧長範が太龍寺を再興したとされる嘉保年間からは約400年後になります。
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道
17世紀の人、真稔さんは「四国遍路道指南」に・・・大師御行脚のすぢハ加茂村、其ほどニ里、旧跡も有・・・と「かも道」を紹介しています。
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石灰石の道
石灰岩地も「かも道」を特徴づける一つです。
(阿南市広報誌によると)「阿州奇事雑話」という史料に「龍の窟」伝説が載っているそうです。蛇行する那賀川を「龍」と見たのでしょう。石灰岩地に「窟」=鍾乳洞があっても不思議ではありません。
土地の人々の作物を荒らす龍がいて、弘法大師が法力で窟に閉じ込めたというものです。また、龍が美女に化けて出たので窟に閉じ込めたとも言います。「龍の窟」については、後でまた触れます。
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大師像
上掲写真の右下に見える弘法大師像です。「文化乙丑 十一月廾一日 小延村 智海」とあります。文化乙丑は、1805年に当たります。「小延」は、ケーブル山麓駅の東辺りでしょうか。
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那賀川
前々回、あずり峠を境にして「粟の国」と「長の国」(ながの国)があったことを記しました。(「おさの国」と読みをつけましたが訂正します)。
那賀川(なか川)の名は、「長の国」の「長川」(なが川)から来ているとのことです。
写真奥が下流です。
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こぶし石
崩れ落ちてきた岩を、大師が拳一つで受け止めました。それで岩が少し凹んでいます。
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道
原生林もまた「かも道」の特徴です。
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にじり石
前傾姿勢の岩ですが、少しずつ太龍寺に向かって進んで(にじり寄って)いるのだそうです。
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道
杉林の地帯が少しあります。落ちた杉の葉で、柔らかな「絨毯の道」になっています。
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ケーブル
太龍寺のケーブル支柱が見えてきました。
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七丁
下りにかかります。
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合流
下に見えるのが、鶴林寺からの道です。合流して左方向に進むと、すぐ太龍寺です。
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道標
合流点に道標があり、「左 鶴林寺」「右 太龍寺」「右 かも道 富岡道」とあります。「富岡」は、前回ご紹介した「王子製紙富岡工場」がある、那賀川河口の辺りでしょう。かも道から那賀川を下る道です。
後ろに見える四国の道の案内標識には(まだ「かも道」は復旧していなかったのでしょう)「かも道 富岡道」の案内はなく、「鶴林寺-太龍寺-平等寺」の道を案内しています。
四国の道標識に従うと、太龍寺を打った後、ここまで打ち返し、平等寺へ向かうことになります。
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太龍寺山門
私は、太龍寺から南捨身ケ岳を経て→太龍寺山に登ろうと考えています。太龍寺山から持福院へ降りて、大根峠を経て平等寺へ向かいます。
「太龍寺」が危険としている道ですが、由緒ある遍路の道です。少しでも危険を感じたら引き返すこととして、試してみようと思います。
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北舎心嶽
太龍寺の山号は「舎心山」と表記されますが、公式ホームページには・・・舎心は「捨身」の意で、大師の気迫を感じさせる・・・とあります。
どのような経緯で’捨身’から’舎心’へ変ったのでしょうか。「四国遍路日記」の澄禅さんは’ 捨身山’と書いていますが、「四国遍礼霊場記」の寂本さんは’舎心山’と記しています。
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太龍寺中門
寺名は、文字通り、求聞持法修行中の大師を、「龍」が守護したことに発しています。前述の「龍の窟」伝説に重なる話でしょう。大師は法力で龍を従えました。
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大師堂拝殿
龍が棲んだという「窟」は、太龍寺に実在していました。太龍寺の奥の院でした。
寂本さんは「四国遍礼霊場記」に・・・是より30町ほど辰巳の方にあたり岩窟あり。なかばより両へ相わかれ、一方は竜王の窟という。むかし大竜神棲る迹とて石面に鱗形など歴然たり・・・と書いています。
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(南)舎心嶽
また五来重さんは「四国遍路の寺」に・・・戦前の地図には龍の窟が出ていましたが、戦後の地図には出ていません。縁起に出ております弘法大師が行をしたところを、セメント会社に売ってしまって、窟はつぶされてしまいました。南舎心岩から左の道がはっきりと書いてありますが、その道が通れないので・・・と書いています。
これが「いわや道」と呼ばれた道でしょう。(南)舎心嶽から「龍の窟(岩屋)」→黒河(くろごう)を経て→大根峠→平等寺へ向かう道でした。
残念です。有名な天井の画龍も、点睛を欠いているかもしれません。
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南舎心ケ嶽「求聞持法修行大師像」
・・・ノウボウ アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ・・・・
・・・もし人、法によりてこの真言一百万遍を誦さば、即ち一切の教法の文義暗記することを得と・・・
求聞持法とは、記憶力増進を祈念し、虚空蔵菩薩の御真言を100万回、100日かけて唱える法だそうです。
求聞持法が成就すると明星が降ってきます。虚空蔵菩薩のお使いです。・・・明星来影す・・・像は東を向いています。
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太龍寺山から持福院へ
(南)舎心嶽から太龍寺山を経て、持福院→助友に降りる道です。助友から国道195号線を経て、平等寺へ向かいます。茂兵衛道標は「平等寺」とのみ案内しています。
「北地」は、ケーブルの山麓駅がある辺りです。
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石標
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拡大
「是より左 ふだらく山・・・」と思われます。国土地理院地図の太龍寺山(H618)を「補陀落山に見立てているようです。
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二つの道標
赤い木の道標は、←南舎嶽、↑補陀落山、→中山持福院ヨリ国道195号線へ、と三方向を示しています。やはり太龍寺山を補陀落山に見立てているようです。石の道標にも「ふだらく道」の文字が見えます。
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道標
太龍寺山を過ぎた所にある道標です。補陀落山←→持福院と記しています。やはり太龍寺山が補陀落山です。
この辺の道標はどれも、太龍寺山を補陀落山と見立てて設置されています。
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道
しかし異なる考え方もあるようです。へんろ道保存協力会の地図は、南舎心嶽を補陀落山としています。「舎心嶽」の後にカッコをつけて(ふだらく山)と記しています。太龍寺山には、そのピークを示した上で、「ほだらく峠」と記しています。
また、太龍寺山を「須弥山」とする考えもあります。角川書店の地名大辞典は、太龍寺山を「須弥山」とし、太龍寺本堂の裏山(H600)を「太龍岳」としています。寂本さんの「四国遍礼霊場記 太龍寺図」を見ると、確かに本堂裏山には「龍王」が書きこまれています。地名大辞典は、また、太龍寺山が三教指帰の「大滝岳」に当たる、としています。
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太龍寺山の山頂部
基壇がありますから、かつては何らかの構造物があったのでしょう。しかし今は、何もないようです。
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山頂
ここが補陀落山であれば、海が見えなければならないのですが、残念ながら今は、一方が開けてはいますが、海は見えません。
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スプレー
いい道標が残っている道に、なんとも無粋なスプレーです。
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持福院
降りてきました。
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唐杉山持福院
途中、「中山 持福院」と書いた道標を見かけましたが、「中山」は山号ではないようです。持福院の山号は「唐杉山」です。
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国道195号線 中山
国道195号線は旧土佐中街道をベースにした道です。
平等寺を打つと、その先の鉦打(かねうち)で国道55号線に出ますが、55号線は、旧土佐浜(東)街道をベースにしています。二本の土佐街道は阿波橘で分岐します。ただし、「ベースにしている」とは言え、その様相はまったく異なっています。
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長い道
那賀川の支流、中山川沿いの道です。山道になれた足には、コンクリート道は堪えます。
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採石場
ここにも石灰採石場がありました。
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阿瀬比
今日の歩きはじめ「お松権現」への標識が出てきました。
坂口屋さんを経る道と、ここで合流します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/6a/36817fb57a49efb8b638a429fa316551.jpg)
大根峠
「四国遍礼名所図会」に、・・・峠より津峰山南林、丸島一円に見ゆる絶景いわんかたなし・・・とあります。阿波三峰の一、津峰山(つのみね山)が見えたそうですが、今は見えません。
津峰山については、次回、報告します。
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平等寺
田園を見下ろす、落ち着く雰囲気です。
遍路道は平等寺から南下を始めます。まず薬王寺へ、それから室戸岬へ、ひたすら南下する道が始まります。
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手水
平等寺での楽しみに、手水の花があります。今回は、蘭でした。シンピジュウムでしょうか。
ご覧いただきありがとうございました。
次回更新予定は11月20日です。
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天恢さんのコメントは、(負担に思わないでほしいのですが)更新時の私の楽しみになっています。ありがとうございます。
「四国ガチンコ・・・」、知らなかったです。早速見ました。やっぱり「負けた」が実感です。
遍路の宿で写真家の方と話したことがあり、俳句が切り取った風景とカメラが切り取った風景が話題になりました。カラー写真よりもモノクロ写真の方が、より想像力を刺激することがあるように、写真よりも俳句の方が、より広大な、あるいは、より深遠な風景世界を表現することがある、そんな話を交わしたのでした。
五月雨や大河を前に家二軒(蕪村) かたつむり甲斐も信濃も雨の中(龍太)
これらが、この時、例として挙げられた句でした。この句が見せる景色を、静止画のカメラも動画のカメラも、撮ることが出来ないように思います。(もちろん逆の場合もあるのですが)。
私がブログに載せてある写真と文章は、手もなく「四国ガチンコ・・・」の動画に敗れていると思いました。それも、お世辞にも上手とは言えない撮影技術の動画なのに・・・。動画に勝る静止画をせめて一枚、撮りたいとは思うのですが・・・。私の撮影技術は(最近少しばかり気にかけているにもかかわらず)きわめて拙劣のようです。
大河は、しばしば「龍」に例えられますが、太龍寺の「龍」は、まず間違いなく那賀川から来ています。あの辺には石灰岩地が多いですから、「龍」の棲む「窟」=鍾乳洞もあり、龍伝説が生まれるには、絶好の場です。
「龍の窟」を経て平等寺に至る「いわや道」が、近頃テレビに出演された奈良の山下さんによると、復旧されつつあるそうです。その暁には、「かも道」とつながり、素晴らしい歩き道が出来ることになります。太龍寺の名にふさわしい道と言えるでしょう。
山号の「捨身」「舎心」については、私もぜひ教わりたいところです。
高野山、熊野の道、何回も計画しながら、私はまだ歩いていません。いざとなると、なぜか怯んでしまうのです。実は京都や奈良も、私はほとんど歩いていません。どうしてなんでしょう。
・・・1000m以上の峠を越えるアップダウンの山道で、それぞれ表情を変えて迎えてくれる石仏・・・いいですよね。きっと、いつか行きます。その時は、ガチンコで。
2巡目の結願寺が太龍寺でしたから、平等寺ともども馴染みの札所なのです。 天恢も鶴林寺へ上る途中の展望台からの那賀川の写真を撮っておりました。 眼下に大きくゆったり蛇行しながらの那賀川を眺めると身も心も癒やされたものです。 それが、ひとたび今夏の台風のような大豪雨となれば、暴れ川となって堤防を決壊させ、加茂谷中の校舎2階まで水没させる大水害をもたらすとは。 文中にあった 『だからでしょう、加茂の平地には民家はありません。民家はすべて、お松大権現がある東加茂と、一宿寺がある西加茂の山裾に建っています』 に救われます。
さて今回の道中記では、何たって一宿寺から太龍寺への「かも道」が最高ですね! 天恢も丁石で「高野山町石道」を、「西国33観音」では、10年前に熊野古道の小辺路の果無峠を越えた時のことが懐かしく思い出されました。果無峠にも33体の観音石像が大正末期に設置されて、1000m以上の峠を越えるアップダウンの山道で、それぞれ表情を変えて迎えてくれる石仏に慰められ、励まされながら歩いたものです。
今では「かも道」の観音像は保存のため一宿寺境内に遷されているそうで、路傍に石室だけが残され残念なことです。 それにしてもつくづく思うことは昔の人は信仰心も篤く、懐も深かったことです。 果無峠の観音像は十津川村、本宮町の信者の寄付によって祀られたそうですが、「かも道」も大長者や権力者によるものではなく、たぶん近隣の方たちの信仰心によるものでしょう。 それも、お金しかない人は金銭で、お金の無い人は力仕事で、皆でこのイベントに協力して携わり成し遂げたと思いたいです。 古くから日本の地蔵信仰は、旅の途中に病気や怪我や事故で命を落とした旅人を供養し、行路安全を願うために祀られるようになったそうで、遍路道や熊野古道では尚更のことでしょう。
「かも道」のことをインターネットで検索していたら、YouTubeに「四国ガチンコ!徳島女子遍路旅~かも道を歩こう~」という画像があって大変参考になりました。 これはこれで楽しいもんです。
最後に今回気になったことは、『太龍寺の山号は「舎心山」と表記されますが、公式ホームページには・・・舎心は「捨身」の意で、大師の気迫を感じさせる・・・とあります。 どのような経緯で’捨身’から’舎心’へ変ったのでしょうか?』 のところです。 太龍寺さんが公式ホームページでこうだと書かれてもすんなり納得できません。
大先達の故・宮崎建樹(へんろみち保存協力会)さんは、『舎心ケ嶽の名は、この断崖絶壁に立つと身がすくみ、立つ人の心を舎(とど)めたことに由来します』と書かれています。 天恢としては「捨身ケ嶽」はお大師さまが願をかけて崖から飛び下りた73番出釈迦寺の奥ノ院が唯一無二で、とくに高所恐怖症の身としては宮崎さんのご高説に軍配を上げたいのですが・・・。 もしご存知の方がいらっしゃったら教えていただきたいものです。