楽しく遍路

四国遍路のアルバム

焼坂峠へんろ道 安和 仏坂不動尊 宇佐

2024-04-10 | 四国遍路

 
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 このアルバムは、平成21年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
 そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
 その点、ご注意ください。

  平成21年(2009)12月21日 第5日目のつづき

焼坂遍路道へ
そえみみず遍路道から長沢川に沿って下り、焼坂遍路道への分岐にやって来ました。国道56号から、左の道に入って行きます。


案内
  左 焼坂峠 とあります。
さて、焼坂峠遍路道は高知自動車道の工事で、どう変わろうとしているのでしょうか。そえみみず遍路道は、入り口部分の尾根筋が、さながら「巨大な切通し」のごとくに、大きくV字型に切り裂かれていました。



土佐くろしお鉄道沿いの道を進みます。


高架下
線路を潜ると、その先が工事現場です。
工事期間は、残るところ3ヶ月。平成22年(2010)3月25日までだそうです。
なお、リライト版の強みで先のことを書き加えれば、開通は、この約1年後の平成23年(2011)3月5日となります。


工事現場
すっかり様変わりしています。雑草の一本すらもないのが、不気味です。
「根刮ぎ」自然が改変された、ということでしょうか。


簡易遍路道
簡易階段の遍路道です。そえみみず遍路道のように、ここにも擬木の階段がつくのかもしれません。


トンネル
トンネルの口です。完工後は、焼坂第一トンネルとなります。


完工後の焼坂第一トンネル
平成27年に撮った、完工後の焼坂第一トンネルです。焼坂峠の下を抜けて行きます。長さは、2040㍍。


旧遍路道へ
ここからが、古くからの焼坂遍路道となります。
澄禅さんが『四国遍路日記』に、・・土佐無双ノ大坂也・・と記している坂です。


山道
   左道 登る 焼坂峠
登りにかかります。焼坂峠の標高は、228㍍です。


山道
今では少なくなった照葉樹の遍路道です。


景色
北方向には、幾重にも山が重なります。


切り通し
焼坂峠の切り通しです。
峠は中土佐町と須崎市の境になっているので、中土佐町を歩いてきた私は、これより須崎市に入ることになります。


標高
標高は、(撮影が悪くて)118㍍に見えますが、228㍍です。


安和
下に見える街は、須崎市安和。写っているケーブルは、ヨンデン(四国電力)の高圧電線です。


注意
ヨンデンからの、高圧電線注意です。


迂回路
迂回の指示がありました。
  へんろ道迂回路 あと1.3キロで、下の写真の場所に到着します。
ただし、これは順打ちをしている方への指示です。私は今は逆に歩いているので、「下の写真の場所」は、(それとは知らず)すでに通過しています。


林道
自分が今どこを歩いているのか、わからなくなってしまいました。今歩いているところが迂回路なのか、いつもの遍路道なのか、そんなこともわからず歩いていました。ただルートから逸れていないことだけは、ていねいな案内のおかげで、わかっていたのですが。


土佐くろしお鉄道
下に、くろしお鉄道の線路が見えました。ということは、焼坂遍路道も終盤に差し掛かっているということです。


降り口
降りてきました。


工事
ふたたび工事現場が現れます。


降り口
どうやら焼坂峠遍路道は、その両端・・登り口と降り口・・が切りとられているようです。


土佐くろしお鉄道
土佐くろしお鉄道の線路脇を歩いています。峠の上から眺めた道です。


保育園
記憶に残る保育園です。前回、焼坂峠へ向かう私たちに、親切に道を教えて下さった方がいて、その方が保育園を目印にするよう教えてくれたのでした。
こんな、なんということもない一齣が、なぜか懐かしく思い出されます。


安和トンネル
国道56号を進むと、安和トンネルに出ました。昭和42年(1967)の開通で、長さは245㍍です。
この辺はトンネルが連続する地帯です。安和トンネルを潜ると、その先には久保宇津トンネルがあり、さらに角谷トンネルへとつづきます。安和トンネルの手前には、(私は峠を越えたので潜りませんでしたが)焼坂トンネルもありました。
思うに、トンネルがない時代のこの辺は、峠越えに峠越えがつづく、旅人泣かせの道だったのです。


久保宇津トンネル
久保宇津トンネルです。長さは130㍍。開通は、安和トンネルと同じで、昭和42年(1967)です。
因みに、次の角谷トンネルも、同じ昭和42年(1967)の開通なので、どうやらこの三本のトンネルは、一括して工事がなされたようです。ただし焼坂トンネルだけは、それよりなんと29年も遅い、平成6年(1994)です。なぜだったのでしょう。その必要は、大いに感じていたはずなのですが。


角谷トンネル
前述の通り、角谷トンネルの開通は昭和42年(1967)。長さは420㍍です。
  かどや やけざか そえみみず
このトンネルの上には、かつては「やけざか そえみみず」と並んで恐れられた、「かどや」という大坂が通っていました。ただし、「やけざか そえみみず」とは異なって「かどや」は、今は藪に埋もれています。


地図
2013年・第10版第1刷からいただいた地図です。
やや左寄りの、赤い点線で表示されているのが、焼坂へんろ道です。右下には角谷トンネルが示されています。そのすぐ左には、名前は記されていませんが、久保宇津トンネルが見えます。もちろん焼坂トンネルも見えます。
焼坂へんろ道や角谷トンネルに、まとわりつくように走っている白線は、旧56号です。等高線をなぞるように、徐々に高度を上げながら、峠を越える道です。


須崎湾方向
旧56号の原型は、おそらくは「馬車道」だったでしょう。
馬車道は、物流が盛んになり、人力の歩荷では間に合わなくなった頃に登場した、馬車による峠越えの道です。馬の力には限りがありますから、斜度は緩やかになっています。その分、ダラダラと長い道になるのは、仕方のないことだったでしょう。トンネル掘削の技術が、まだ未熟であった頃の話です、


民宿ひかり
今日の宿「民宿ひかり」は、二度目の宿泊です。前回お会いできたおばあさんと子供たちには、今回は会えませんでした。
宿泊客は、今夜も遍路は私一人。他に10人ほどの工事関係の人たちが泊まっていました。みなさん礼儀正しく、食事が終わると、さっと自室に引き上げてゆきました。

  平成21年(2009)12月22日 第6日目

朝焼け
宿の名前「ひかり」は、この景色に由来するのでしょうか。


日の出
今日は、仏坂を越え、浦の内湾の海沿いの道を歩きます。宿は、青龍寺の7Kほど手前にある、民宿「なずな」を予定しています。
外海が見られる横浪スカイラインもいいし→(H20春4)、巡航船で行くのもいい(アルバムは準備中)。けれど6年前に歩いた海沿いの道は、忘れられない。もう一度歩きたいと思いました。→(H15秋1


気嵐の新荘川
川面に気嵐を漂わせる新荘川です。今日は、とりわけきれいです。
絶滅前のニホンカワウソが、最後に目撃されたのが、この新荘川だったと言います。昭和54年(1979)のことだったそうです。それより13年後、平成4年(1992)、ニホンカワウソの体毛が発見された、とも言われますが、これははたして、どうだったでしょうか。


須崎中学
新荘川を渡り、須崎中学を左に見ながら進みます。
リライト版の強みで、これより5年後の平成26年(2014)、須崎中学を襲った「廃校の危機」について、記しておきます。
同年、須崎市の「須崎市小中学校統合計画」が、・・市内5校の中学校を 現在の朝ケ丘中学校に統合する。・・ことを決めるのです。つまり、須崎中学は廃校となり、朝ケ丘中学に統合されることが、一旦、決まったのです。


須崎中の文化祭(平成15年/2003撮影)
ただし、この方針は令和4年(2022)、・・須崎中学校は、適正配置計画の基準を満たしているため、当面の間継続する。・・と、一部改訂されました。そのためリライト時点の令和6年(2024)も、同中学は存続しています。
とはいえ、・・生徒数が60人未満となる状態が連続して3年以上続くことが見込まれる学校は、統合を行う。・・との決定はまだ生きていますから、危機を脱したわけではありません。ガンバレ、須崎!須崎中!なお令和5年度の生徒数は、119名だそうです。がんばっています。


トンネル
トンネルの口が、二つ見えました。須崎はトンネルの街です。
右がE56(高知自動車道)の新須崎トンネル。左が、国道56号のかわうそトンネルです。なぜネーミングの発想が、こんなにも異なるのかわかりませんが、とまれ、開通はいずれも平成19年(2007)。比較的新しいトンネルです。
写真だけ撮って、通過します。


須崎隧道
今度は、須崎隧道です。こちらの開通は早く、昭和29年(1954)です。長さは115㍍。
写真でもお分かりのように、人や自転車がこれを抜けるのは、かなり危険です。


歩行者用トンネル
そこで須崎隧道には、「須崎歩行者用トンネル」が造られました。開通は、まことに遅まきながらの昭和62年(1987)。長さは145㍍です。


無量山観音寺
聖徳太子の四天王寺創建に加わった唐土の工人や仏師たちが、帰国途上、嵐に遭って遭難し、須崎の浦に漂着したのだそうです。観音寺は、この工人達が無事帰国を祈願して、正観音菩薩像を安置し祀ったことに発すると言います。
里俗に「三度栗大師」とも呼ばれるのは、弘法大師に栗を所望された童子が、(大師は一個だけ望んだのに)採った栗の全部を差し出した譚に発します。それに感じた大師は、童子が採りやすいよう木を枝垂れにし、年に三度実るよう祈願したというのです。
なお別格5番大善寺は、通過しました。→(H15秋1)をご覧ください。


水門
大間の潮止め水門です。
これより須崎港の最奥部を歩き、仏坂と浦ノ内湾沿いの道の分岐に向かいます。


須崎港
沢山の釣り船が係留されています。タモが写っているので、釣り船だと思います。


須崎港
須崎港には、住友大阪セメントの高知工場があります。たぶん、その煙でしょう。


須崎湾
須崎湾はリアス海岸です。穏やかで、しかも水深が深く、大型船の停泊も可能です。


河口
湾奥に二本の川が流れ込んでいます。
右が、押岡川の河口です。押岡川沿いの道(県道23号)を行くと、鳥坂峠(トンネル)を越え、浦ノ内湾の最奥部に出ます。約7.2キロの行程です。
左は桜川河口です。この川沿いの道(県道314号)は、仏坂と呼ばれる道になります。岩不動(岩乃不動尊)があるからです。さらに進むと、やはり浦ノ内湾(横浪)に出ます。行程は、約10.4キロになります。


桜川に架かる橋 
さて、私は仏坂・岩不動の道を行くのですが、ここで大失敗に気がつきました。不覚なことに、昼食の準備を忘れていたのです。私が歩きたい仏坂道には、コンビニなどはありません。


コンビニ
幸い、鳥坂峠(トンネル)の道にコンビニが在ることを知り、やってきました。
コンビニまで片道2キロ。引き返せば往復4キロ。一時間前後のロスとなります。ならば、このまま直進してしまおうかとも、考えたのでしたが、・・


住友大阪セメントのプラント
しかし、今日の行程は20キロほどで、かなり余裕があります。それに「楽」よりも「苦」をとった方が、気分もいいし。・・やはり引き返すことにしました。
「楽」に流れなかったことが、うれしかったからでしょうか、往路では目に入らなかった景色が、復路では入ってくるようになりました。カメラを向ける余裕も、生まれてきました。


へんろ道 
これ、見た覚えがある!
懐かしい看板です。1年前にこの道を歩いたとき、しばらくここで立ち止まり、この楽しい看板を眺めていたのでした。
  おへんろさんが行く道 県道23号 老人と子供と美人の多い地区
  車は徐行 徐行 最徐行


平成20年(2008)の写真 
1年前に撮った写真です。土砂降りの雨が上がった後のことでした。→(H20春4)


仏坂へ
さて、ここからが仕切り直しです。
分岐点に戻りました。これより 桜川左岸を、仏坂へ向かいます。


峠へ
桜川左岸の道・県道314号です。


川と雲
ワンちゃんと二匹のネコちゃんを従えた、女性と出会いました。
ワンちゃんはリードでつながれていますが、ネコちゃんはつながれておらず、女性とワンちゃんの前後を、尻尾をピンと立てて歩いています。尻尾を立てるのは、ネコちゃんの喜びの表現です。


お接待
・・家がすぐそこなので、お茶でもどうぞ、・・と誘っていただきました。陽当たりのよい庭先で、小一時間も話し合ったでしょうか。
・・現金がなければ生活できない、そんな世の中はおかしいですよ。
・・ミカン食べてください。私が作っている、無農薬栽培のミカンです。まあ、虫もつきますが、虫も生きなきゃいけないんだし、仕方ないですよ。
・・岩不動の住職さんは、お話好きです。話しかけてください。
そんこんなを話し合ったのでした。



ワンチャンが、しきりと私に寄ってきます。遊んで欲しいのです。
ネコチャンがまた散歩に行ってしまい、寂しかったのかもしれません。


お接待
別れ際に、女性は不動明王真言を大声で唱え、私の旅の安全を祈ってくださいました。
写真は、お接待の無農薬ミカンです。ありがとうございました。


仏坂へ
仏坂の登り口へ、県道314号を進みます。


貯蔵庫
記録も記憶も曖昧で申し訳ないのですが、ミョウガだったかショウガだったかの、貯蔵庫なのだそうです。須崎はどちらも産するので、わからなくなりました。
防空壕の跡を利用したのかと尋ねると、いや、貯蔵庫として新しく掘った、と答えてくれました。


県道314号
おばあさんと立ち話をしました。
・・この家は日当たりがよくなく、ヒヤイのだけれど、兄さんにもらった土地だし、それに、ここに住んでいればお遍路さんとも話が出来るし、それで住んでいるのです。
・・満州から引きあげてみれば南海地震。その後、チリ津波もあったしねえ。
波乱の人生を語ってくれました。


仏坂へ
  佛坂不動尊 光明峯寺 ここから1K
これなら、道の間違えようもありません。


ヤマガラ
歩いていると、小鳥が肩先をかすめて飛びました。人に親和性を持つ鳥の飛び方です。
しまった、ヒマワリの種を忘れた! 後悔しながら、それでも道端に座り掌を差し出してみると、・・なんというサービス精神でしょう。掌に乗ってくれました。
むろんエサが置かれていないので、すぐ飛び立ってしまいましたが、そのとき掌に感じた小鳥の体重は、忘れられない感触です。
ヤマガラは、掌から去った後、しばらく側の手すりに留まっていました。”だましたな!”とでも言っているのでしょうか。


岩不動へ
この道は、車も通れます。しかし、出遭うことはありませんでした。


告示
・・是ヨリ奧光明峯寺ハ 遙カ昔弘法大師空海修行ノ砌 当山ニテ紫雲を感得号泣シ コレオ大岩ニ刻ム コレ当山本尊岩之不動明王ナリ 右ノ如ク当山ハ紫雲垂レル神仏習合ノ霊山ニテ 真心オシテ礼拝修行セバ 速カニ神仏オ顕現シテ 至福ニ至ル霊山ユエ 当山境内ニテノ山菜山芋及ビ植物採集オ禁ジマス 当山住職英心合掌


光明峯寺山門
6年前に北さんと訪れたとき、季節は春でした。
なんとも穏やかな空間に、ただ身を置いているだけで癒やされていた、・・そんな心地よい記憶があります。


境内 
光明峯寺は、「岩不動さん」と人口に膾炙しています。弘法大師御作とされる、岩之不動明王が祀られているからです。


岩之不動明王
不動堂です。前回は扉が開いていて、お姿を直に拝むことが出来たのですが、今は、しっかりと閉まっています。
訪れた時間帯がよくなかったのでしょうか。



青龍寺に向けて歩きはじめました。
しかし、いきなり厳しい坂です。順打ちならば、この坂を下るのですが、今、私は逆に歩いているので、登らなければなりません。


坂の上
ようよう登ってきました。


案内
順打ちの人用に、案内が立っています。



これより今日の宿までは、7-8キロです。急ぐ必要はありません。


宇佐へ
県道23号です。鳥坂峠(トンネル)の道に合流しました。これより浦ノ内湾沿いに、宇佐方向へ向かいます。


石柱
仏坂への入口を案内しています。


休憩所
入口近くの休憩所です。生け花が心を和ませてくれます。


横浪小学校
横浪小学校です。前掲の須崎中学のところでも記したのと同じ事情で、これより5年後の平成26年(2014)、横浪小学校は廃校となります。


新・浦ノ内小学校(平成27年/2015撮影)
平成26年(2014)に誕生した、新・浦ノ内小学校です。横浪小学校を増改築して、新・浦ノ内小学校に生まれ変っています。
横浪小学校は校名を失いましたが校舎を残し、旧浦ノ内小学校は校舎を失いましたが(後述)、校名を残しました。アイコの智恵です。
校門の両側に立つ「二人二宮金次郎像」は、それぞれの旧校に立っていたものでしょう。


かさまつはし
東分川に架かる、笠松橋です。東分川は、このすぐ先で奥浦川と合流。浦ノ内湾に注ぎます。


鳴無神社遙拝所
鳴無神社(おとなし神社)の遙拝所です。湾の対岸に赤い鳥居の鳴無神社が見えます。→(H27春10)→(H27秋1)


浦ノ内湾
湾口から湾奥まで三里(約12キロ)。リアス海岸の入江が続く枝湾は、正式には浦ノ内湾ですが、横浪三里(よこなみ三里)との雅称を持ちます。


浦ノ内湾
穏やかな海を眺めながらの歩きとなります。飽きることのない景色です。ハマチ,ノリの養殖が盛んで、浮かぶ筏からは、チヌ、マダイ、キス、アオリイカ等が釣れるといいます。


摺木(するぎ)バス停
このバス停の山側に、浦ノ内立目摺木(浦ノ内たちめ・するぎ)という集落があります。この集落のためのバス停でしょう。
ただ、時刻の時刻表の表示は、はがされていました。(後になって、廃線になっていたことがわかります)。


宇佐へ
県道23号を宇佐へ進みます。



近頃珍しい、放し飼いの飼い犬です。それとも脱走したのでしょうか。
人は嫌いではないらしく、吠えたり咬んだりの危うさは、まったくありませんでした。それどころか、しばらくは付いてきてくれました。「案内犬」ではなかったようです。


農業
この辺りは、ポンカンの産地です。


お接待
ポンカンをお接待にいただきました。前にいただいたミカンと合わせて、私のザックは柑橘類でいっぱいです。


狩猟禁止
猟銃の散弾がポンカンの実の中に入り、保管中にコンテナ内で腐る被害が多発しているのだそうです。
そのため、ポンカンの収穫が終わる時期(12月31日)まで、この地区での猟は禁止されています。


浦ノ内隧道
昭和30年(1955)の開通。長さは、255㍍です。 


休憩所
お遍路さん専用の休憩所だそうです。なぜでしょうか、船を屋根に担いでいます。
船体の CHEERFULは、我が田に水を引いて、どうぞ「楽しく遍路」をつづけてくださいとのメッセージ、と解しましたが如何でしょうか。



室内には魔除け札が貼ってありました。
「伯州三徳山」とあるので、国宝・投入堂がある、伯耆国・三徳山三佛寺のお札でしょう。


鳴瀧八幡宮
人皇65代花山院(かざん院)が京から勧請したと伝わる、鳴瀧八幡宮です。花山院廟が、この神社から少し山側に入ったところにあることから、このような伝承がうまれたのでしょう。
ただ私見では、浦ノ内湾での豊漁を祈願して、地元民たちが祀ったと考えました。
八幡(やはた)は、「多くの旗」の意。この場合、旗は「大漁旗」で、八幡さまは、豊漁をもたらす神様なのです。(旗が「戦旗」と解され「武神」とされてしまったのは、八幡さまの不幸です)。


黒潮牧場
高知競馬場を走るハルウララが、一躍、全国に知れ渡ったのは、平成15年(2003)のことでした。私は北さんと、その頃、ここを歩いています。
負ければ負けるほど高まる人気。その単勝馬券は、「絶対に当たらない」ことから、交通安全のお守りになったというのですから、負けるが勝ちのお手本のような馬でした。あの馬、いまはどうしているでしょうか。
黒潮牧場は、(HPによれば)・・種牡馬、繁殖牝馬、競走馬としての役目を終えた馬達が、幸福な余生を送るための牧場・・なのだそうです。


釣り筏
写真中央に、屋根付きの筏が写っています。たぶん釣り筏なのでしょう。
夏には納涼の宴会、秋には月見の宴なども、いいのではないでしょうか。


浦ノ内小学校
浦ノ内小学校です。6年前のことが、懐かしく思い出されました。
平成15年(2003)秋、私は校門前の無人スタンドで、あけびの実を50円で買って食べたのでした。スタンドは、子供たちが総合学習の一環として、「経営」しているものでした。


校舎跡(平成27年撮影)
これより更に5年後、まさか校舎が取り壊され、更地に帰っているなどは、考えてもみないことでした。浦ノ内小学校は、今は旧横浪小学校の地に、その名を残しています。


船の家
船を屋根に乗せた休憩所があったかと思えば、今度は、平屋を船が乗せています。
どんな使い方をするのでしょうか。階段が付いているので、船としては、もう使われていないのだと思いますが。


宿
民宿なずな、が今日の宿です。
名前の「なずな」は、「せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ」の「なずな」なのでしょう。「ペンペン草」というと、少しイメージが悪くなりますが、花言葉は、I offer you my all. (私のすべてをあなたに捧げます)です。
泊まり客は、この時季ですから仕方ありませんが、またも私一人でした。女将さんが、しばらく話し相手になってくださいました。


足跡
さて終わりに、令和6年現在での、浦ノ内湾をめぐる、私の足跡を整理しておきます。それぞれの内容については、「目次」からご覧ください。
 平成15年(2003)秋  青龍寺から浦ノ内湾沿いに仏坂→安和へ
 平成20年(2008)春  青龍寺から横浪スカイライン→安和へ
 平成20年(2008)初夏 青龍寺から巡航船で鳴無神社→安和へ(準備中)
 平成21年(2009)冬  安和から仏坂を経て青龍寺へ(本号)
 平成27年(2015)秋  青龍寺から浦ノ内湾沿いに仏坂→安和へ

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
一月往ぬる 二月逃げる 三月去る、とはよく言ったもので、早くも令和6年・2024年も、第二コーナーにさしかかっています。
皆さま、一日一日を大切にお過ごしくださいますように。次号更新は、5月8日 の予定です。

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♪桜の花の咲く頃は うらら うららと 日もうらら~  (天恢)
2024-04-23 18:17:19
今回のブログの締めに「早くも令和6年・2024年も、第二コーナーにさしかかっています」と、あって、モタモタしていたら半年が過ぎて、もうすぐ今年も残り少なくなるのでしょうか?
今年は元旦から地震や航空機事故が多発しています。 つい最近も、愛媛県愛南町と高知県宿毛市で震度6弱の地震があって、「これはやばい!南海トラフだと」 切迫した避難行動を取られた方も多かったことでしょう。 死者が出なかったことが不幸中の幸いでした。 個人的ですが、天恢は縁あって、幡多地区から愛南町・宇和島市には、これまで10回ほど歩かせていただいています。 今年も歩く計画をしていますが、想定される南海トラフ地震に備え、防災対策はいつも心掛けたいものです。

 さて、今回も「楽しく遍路」さんが 平成21(2009)年の厳冬に歩かれた「焼坂峠へんろ道 安和 仏坂不動尊 宇佐」までのリライト版をコメントすることにします。 今シリーズは、土佐久礼から中村まで歩き、足摺に向かわずに青龍寺、清滝寺まで引き返すということで、今回は逆順の遍路コースにあたりますので、慣れぬ追跡には戸惑うものを感じました。
 いつもながらの悪い癖?で、グーグルのストリートビューでポイントを追いますが、最初の一枚目の写真から躓いて、場所すら見つけられないのです。 こうなると意地でも探したくなる嫌な性格で、必死になって探したら、「ホームセンター ダイワ」の看板が撤去されていて、かろうじて50m先の今は廃墟となった食事処のコカコーラの看板を探し当てて、「焼坂遍路道」の入り口を見つけることができました。 ブログ冒頭に断りがあるように 15年前の遍路アルバムを、リライトしたものですから現在とは異なる、写真や記事内容があって当然です。
 それにしても15年の歳月の流れは、実に驚くことばかりです。 当時の遍路では、なじみのある国道55号(徳島市から高知市)や国道56号(高知市から松山市)は、大型トラックなどが盛んに行き交う四国の大動脈で、これらが発する騒音や排気ガスで、お遍路さんの多くは随分泣かせられたものです。 それが皮肉にも工事中の高速道路に取って代わられ ストリートビューで辿れば、これが酷道のなれの果てと思うくらい、静かで、物悲しく、人気がない田舎道に変貌を遂げていたのです。
 
 さてさて、今回のタイトルは『♪桜の花の咲く頃は うらら うららと 日もうらら~ 』ですが、ブログに登場した「負け続けで一躍有名になったハルウララ」にちなんだもので、「楽しく遍路」さんの『いまはどうしているでしょうか』に応えたくなりました。 「春うらら」については、滝廉太郎作曲の『花』の「♪春のうららの隅田川」、天恢の青春時代を歌った田山雅充さんの『春うらら』などがありますが、如何にも春らしく長閑に感じさせるのは野口雨情の『春のうた』で、 「♪ガラスの窓さえ みなうらら  学校の庭さえ みなうらら~」と続きます。
 こんな有名馬ハルウララですが、現在も高知でうららかに過ごしているのかと思いきや、今は千葉の御宿町にある預託牧場「マーサファーム」にて健在です。 私たち人間も老いを生きるにはかなり厳しい現実がありますが、ハルウララも現役引退後の高知から千葉に至るまではいろいろ大変さがあったようです。 今年で28歳。人間なら80歳をとうに過ぎている年齢だそうですが、心温かい「春うららの会」の皆さんによって、まだまだ元気いっぱいだそうで、今も訪問客が絶えないそうです。 頑張れ!ハルウララ!
♫それがごっちゃになりまして・・ (楽しく遍路)
2024-04-29 09:30:07
天恢さん、コメントありがとうございました。
おっしゃるとおり、・・防災対策はいつも心掛けたいものです。・・
楽しかるべき正月元旦であっても、あのようなことが起きるのです。地震は時を選ばないと、再認識しなければなりません。

豊後水道地震が起きたのは、23:14 だったとか。
お遍路さんたちは20:00から21:00には寝てしまいますから、23;00頃は、ちょうど熟睡中だったでしょう。文字通りに叩き起こされたわけですから、さぞや恐い思いをされたことと察します。
ついに来たか!そんな思いが、頭を駆け巡っていたかもしれません。

遍路中の地震といえば、平成26年(2014)3月14日2時6分、伊予灘地震が起きたとき、私は焼山寺の「なべいわ荘」に泊まっていました。震源地からだいぶ離れてはいましたが、それでもけっこう大きな揺れで、目が覚めたのでした。
地震だ!旅先の、しかも山の上にいることでもあり、私は普段以上に、恐さを感じていました。「なべいわ荘」が宮大工の手になる、しっかりした建物であることは知っていましたから、避難はせず部屋に留まりましたが、揺れが早く治まってほしい、これ以上大きく揺れないで欲しいと、ひたすら願っていたのを覚えています。

以来、小さなことですが、やり始めたことがあります。
というのも、私はあの時、避難準備のなに一つもが、できていなかったのです。部屋には荷物が散らかしっぱなしでした。なにかを持って出ようにも、なにがどこにあるやら、♫それがごっちゃになりまして、・・もし揺れがもっと大きくなって、避難の必要が出てきたとしても、きっと避難はできなかったでしょう。
その反省から、次の2点を決めたのでした。
① 就寝前、枕元に、外衣の上下(たいていはジャージ)と貴重品袋を置いておく。
② 就寝前、鉄道員がやるように、避難方向を指さし確認する。

もちろん、「備え」と言えるほどのことではありません。ですから「憂い」は残ります。いざ本番ともなれば慌てまくるのでしょうが、私はこれを、けっこう良い習慣と自賛しています。
なにより良かったのは、こんな作業をしているうちに、部屋の中が前に比べて、ずいぶん片付くようになってきたことです。部屋が片付いている、これはまさかの時に自分を落ちつかせてくれる、とても大切な要素なのではないでしょうか。♫どれがどれやらさっぱりわからず・・の「なべいわ荘」での経験から、今、私はそう考えています。

さて、だらだらと長くなりましたが、ハルウララです。
健在であるとのこと。とりあえずハルウララのためには、喜びたいと思います。
しかし、単純には喜べない情報を、知ってしまいました。
他の引退馬たちはどうしているのだろうと、認定NPO法人引退馬協会なるところのHPを覗いてみたら、次の様な衝撃的な記事に出会ったのです。
・・競馬業界では毎年約七千頭のサラブレッドが生産され、一方では約六千頭が引退する。ではその引退馬はどこへ行ってしまうのか。
・・経済動物として生産される馬たちの多くは、それぞれの役目を終えると処分される場合がほとんどです。

つらい話です。
実はこちらがメインの話題だったのですが、この後に続けるべき言葉がみつからず、地震の話と差し替えました。
書きっぱなしになりましたが、これで終わりとさせていただきます。本文の「黒潮牧場」の記事は、そのうち書き直したいと思っています。

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