◆楠木正成 後醍醐天皇の忠臣
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https://youtu.be/DIQmiuot_4c
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2019/07/03 に公開
楠木正成は永仁2年(1294年)河内国赤坂水分(大阪府千早赤阪村)で生まれた。元弘元年(1331年)正成は後醍醐天皇のお召しにより鎌倉幕府打倒に立ち上がり幕府は滅亡した。然るに、足利尊氏の反乱によって各地で再び戦闘が勃発。1336年(延元1年)正成は後醍醐天皇に命じられ、足利尊氏の大軍を迎え討つべく兵庫湊川へ向かい殉死した。
鎌倉幕府からは「悪党」と呼ばれた。後醍醐天皇の側近として名和長年、結城親光、千種忠顕らとともに「三木一草」とよばれた。明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。
楠木正成(楠公)の銅像は、楠木正成が1333年(正慶2年)隠岐の島から還幸途次の後醍醐帝を兵庫の道筋でお迎えした折の勇姿を象ったものである。
これは、別子銅山開坑200年記念事業として献納したもので、住友家が1891年(明治23年)に東京美術学校(現・東京芸大)に製作を依頼し、同鉱山の銅を用いて高村光雲、山田鬼斎、岡崎雪聲などにより、10年を費やし完成した。
◆楠木正成 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E6%88%90
楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。出自不詳。自称は橘氏後裔。息子に正行、正時、正儀。
元弘の乱(1331-1333年)で後醍醐天皇を奉じ、大塔宮(護良親王)と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。また、建武の新政下で、最高政務機関である記録所の寄人に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた。延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。
南北朝時代・戦国時代・江戸時代を通じて日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受け、「三徳兼備」(『太平記』、儒学思想上最高の英雄・名将)、「多聞天王の化生(けしょう)」(『太平記評判秘伝理尽鈔』、「軍神の化身」の意)、「日本開闢以来の名将」(江島為信『古今軍理問答』)と称された。『太平記』では奇想天外な策と智謀に長けた「不敵」(無敵)の戦術家としての活躍が印象的に描かれるが、それは正成の軍才のごく限定された一面に過ぎず、史実では刀を振るえば電撃戦を得意とし六波羅探題を震撼させた猛将であり(『楠木合戦注文』『道平公記』)、築城・籠城技術を発展させ軽歩兵・ゲリラ戦・情報戦・心理戦を戦に導入した革新的な軍事思想家であり(楠木流軍学の祖)、そして畿内にいながらにして日本列島の戦乱全体を俯瞰・左右した不世出の戦略家だった(『梅松論』『国史大辞典』)。
明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 永仁2年(1294年)?
死没 延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)
改名 多聞丸(幼名)→正成
別名 通称:兵衛尉、左衛門尉、判官、河内判官
尊称:大楠公
神号 南木明神
戒名 霊光寺大圓義龍卍堂
墓所 観心寺
官位 兵衛尉、左衛門少尉、検非違使、河内守・摂津守、河内国・摂津国・和泉国・守護(『梅松論』)、従五位下、記録所寄人、従五位上、贈正三位右近衛中将(南朝、『全休庵楠系図』)、贈正一位
主君 後醍醐天皇
氏族 楠木氏(橘氏後裔を自称)
父母 父:楠木正遠?(諸説あり)、母:橘盛仲の娘?(諸説あり)
兄弟 俊親(正俊)?、正成、正季、正家?
妻 不詳、一説に南江久子?
滋子?(万里小路宣房娘)
橘(薄)朝臣以隆弾正少弼養女?
子 正行、正時、正儀
◆楠木正成
http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/nanboku/kusunoki.htm
●楠木正成の登場
楠木正成はこれほどの武将でありながら前歴はほとんどわかっていません。ほぼ確実なことは、彼は河内・和泉を本拠地とする悪党だったということです。
当時鎌倉幕府は日本全国津々浦々を支配していたわけではなく、近畿地方は天皇領が多いこともあって幕府の支配力は比較的弱かったと思われます。鎌倉幕府はその成立過程からして農業政権で、幕府を作り支えてきた人たちはほとんどが大地主(つまり武装農民)でした。しかし経済圏としてみれば坂東のような東国がほぼ農業圏だったのに対し、近畿地方は商業圏といえばおおげさかも知れませんが全国的に見れば商業の発達している地域だったのです。
◆大楠公「楠木正成」の知謀を探る~日本史上に残る知将の戦いとその魔術とは
https://senjp.com/kusunoki/
2019/07/01
楠木正成(くすのきーまさしげ)の生誕についての詳細は、はっきりしておらず鎌倉時代の末期、1294年(永仁2年)頃とされ、生い立ちも諸説ある。
楠木正成と宇都宮公綱の戦い · 千早城の戦いから倒幕へ · 建武の新政そして湊川の ...
◆湊川神社~男がとことん惚れた武将、楠木正成公が眠る神社~|神社専門メディア
https://okumiya-jinja.com/interview/interview013/
創建 明治5年(1872年)
御祭神 楠木正成公
御盛徳 智・仁・勇
忠誠と正義
神戸の中心地には楠木正成(くすのきまさしげ)公を祀る立派な神社がある。かつて乱世の中で天皇に忠誠を尽くし、正義と公の精神で生き抜いたその姿は、多くの日本人に慕われ、死後も歴史の偉人たちに大きな影響を与えた。忘れてはならない日本人としての心を伝える湊川神社の魅力を紐解く。
湊川神社~後編~はこちら
https://okumiya-jinja.com/interview//interview014
目次
1. 大きな影響を後世に与えた楠木正成公とは
2. 誰も入れない!歴史の舞台が残る境内
3. 明治維新の立役者たちが皆訪れた○○
◆【日本人の心 楠木正成を読み解く】序章(1)皇居外苑 振り向かれぬ英雄
https://www.sankei.com/life/news/190111/lif1901110011-n1.html
2019/01/11
皇居外苑の一角に巨大なブロンズ像が立つ。
「馬場先門(ばばさきもん)の楠公(なんこう)像」。
前脚を上げる軍馬の手綱を引いた甲冑(かっちゅう)姿の楠公こと楠木正成(くすのきまさしげ)の銅像だ。
明治33年に住友家から宮内省に献納され、制作中には明治天皇がご覧になった。
戦前は、上野の西郷隆盛像、靖国神社の大村益次郎像と並ぶ「東京の三大銅像」として人気を博した。
現在、銅像のそばには大型観光バスの駐車場がある。1日平均200台ものバスが発着するが、「ほとんどの人が銅像が正成とは知らない」(国民公園協会皇居外苑楠公・北の丸の関原利裕管理者補佐)。かつての東京名所、楠公像はいまや忘れられている。
◆楠木正成の生涯
http://kajipon.com/kt/haka-topic27.html
南北朝時代の武将。大阪・千早赤阪村の山里に生まれ、金剛山一帯を本拠地とする。幼名多聞丸。
鎌倉時代末期、元寇から半世紀が経ち、幕府にはもう与える恩賞がなく権威が失墜していた。執権の北条高時は政治への興味をなくし遊興三昧の日々。民は重税に苦しみ、世の秩序は乱れた。1331年、幕府打倒を目指して後醍醐天皇が京都で挙兵。しかし、幕府軍の巨大な軍事力に恐れをなして倒幕勢力に加わる者は少なかった。焦る後醍醐天皇。この時、駆けつけた数少ない武将の中に当時37歳の楠木正成の姿があった。
正成の前半生は不明だが、楠木一族は地元特産の水銀を売って経済的に力を蓄えた新興の土豪(地方豪族)。河内地方の商業や輸送の利権をめぐって、これを独占しようとする幕府側と対立関係にあった。天皇に謁見して戦への意見を求められた正成は「武芸に勝る関東武士に正攻法で挑んでも勝ち目はありませんが、知謀を尽くし策略をめぐらせば勝機もあるでしょう」と答えた。この言葉は後の戦いで証明されていく。
◆桜井の訣別(別れ)大楠公の唄
http://www.baq.jp/sound/dainankounouta.html
作詞:落合直文
作曲:奥山朝恭
1 青葉茂れる 桜井の
里のわたりの 夕まぐれ
木の下蔭に 駒とめて
世の行く末を つくづくと
忍ぶ鎧の 袖の上に
散るは涙か はた露か
2 正成涙を 打ち払い
我子正行 呼び寄せて
父は兵庫へ 赴かん
彼方の浦にて 討死せん
汝はここまで 来たれども
とくとく帰れ 故郷へ
3 父上いかに のたもうも
見捨てまつりて 我一人
いかで帰らん 帰られん
この正行は 年こそは
いまだ若けれ もろともに
御供仕えん 死出の旅
4 汝をここより 帰さんは
わが私の 為ならず
己れ討死 なさんには
世は尊氏の ままならん
早く生い立ち 大君に
仕えまつれよ 国のため
5 この一刀は 往し年
君の賜いし 物なるぞ
この世の別れの 形見にと
汝にこれを 贈りてん
行けよ正行 故郷へ
老いたる母の 待ちまさん
6 ともに見送り 見返りて
別れを惜む 折からに
またも降り来る 五月雨の
空に聞こゆる 時鳥
誰れか哀れを 聞かざらん
あわれ血に泣く その声を
◆吉川英治 日本名婦伝 大楠公夫人 - 青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/56059_54219.html
目次
+一
+二
+三
+四
+五
+六
+七
+八
一
木も草も枯れ果てて、河内の野は、霜の白さばかりが目に沁みる。
世は戦に次ぐ戦であった。建武の平和もつかの間でしかなかった。楠木正成、弟正氏たち一族の夥しい戦死が聞えた後も、乱は熄まなかった。山は燃え、河はさけび、この辺りを中心として、楠氏の軍と、足利勢との激戦は、繰返され繰返されて、人皆が、冬野の白い枯木立のように、白骨となり終らなければ熄まないかに思われた。
「……何として近づこう」
ひとり野を歩いて行く男は考えていた。
足利方の大将山名時氏の家来で、漆間蔵六という者だった。蔵六の顎にも霜が生えていた。五十がらみの武者である。
◆大楠公像 | 井原市
http://www.city.ibara.okayama.jp/denchu_museum/docs/2017020200165/
2017/02/02
大楠公像(だいなんこうぞう)
制作年不詳
木彫彩色
http://www.city.ibara.okayama.jp/denchu_museum/docs/2017020200165/file_contents/s_denchu_works51.jpg
大楠公とは南北朝時代の武将楠木正成のことです。正成は後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画に引き入れられ、機動性に富んだ武士団をひきいて幕府軍を悩ませました。幕府滅亡後、後醍醐天皇の新政府に反していた足利尊氏らの軍と神戸の湊川で戦い、敗北しました。
この作品は、奈良一刀彫の名手・森川杜園の「大楠公像」をまねて作ったもので、全体的に面をいかした作りになっています。田中は森川杜園を尊敬しており、明治以降の優れた彫刻家として「一に竹内久一。二がなくて三が森川杜園」と名前をあげています。
◆大楠公の歌 歴史叙事詩の唱歌を復活させるべき - 小さな自然、その他いろいろ
https://blog.goo.ne.jp/ginga7788
2011/02/22
yahooブログ「チェンマイの原風景」から転載します。かつての日本では、楠木正成公はとても多くの国民から尊敬された人物で、大楠公の歌は、皆が小学校で習ったのです。
この歌はかなり長い叙事詩であり、歌をうたうことで、楠木正成がどのような志を抱き、どのように戦ったかなどが、共感を持って知ることができました。このようにして、日本の歴史の重要な事件が、日本人のアイデンティティと共に自分の中にしっかりと血肉として、取り込まれました。
こうした歴史的な唱歌など、いまは、まったく歌われません。歴史が事件の羅列としか認識されない授業では、日本人として、ほんとうの意味で歴史に学ぶということも歴史を継承するということもできないのではないでしょうか。
・桜井の別れ (唱歌♪青葉茂れる桜井の)
落合直文 作詞 奥山朝恭 作曲
-桜井の訣別-
1.葉しげれる櫻井の 里のわたりの夕まぐれ
木の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か
2.正成涙を打ち拂ひ 我が子正行呼び寄せて
父は兵庫に赴かむ 彼方の浦にて討ち死せむ
汝はこゝまで來つれども とくとく歸れ故郷へ
3.父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人
いかで歸らむ歸られむ この正行は年こそは
未だ若けれ諸ともに 御供仕えむ死出の旅
4.汝をこゝより歸さむは 我が私の為ならず
おのれ討死為さむには 世は尊氏の儘ならむ
早く生い立ち大君に 仕えまつれよ國の為
5.この一刀は往にし年 君の賜ひしものなるぞ
この世の別れの形見にと 汝にこれを贈りてむ
行けよ正行故郷へ 老いたる母の待ちまさむ
6.共に見送り見返りて 別れを惜しむ折からに
またも降りくる五月雨の 空に聞こゆる時鳥
誰か哀れと聞かざらむ あわれ血に泣くその聲を
・-敵軍襲来-
7.遠く沖べを見渡せば 浮かべる舟のその数は
幾千萬とも白波の 此方(こなた)をさして寄せて來ぬ
陸(くが)はいかにと眺むれば 味方は早くも破られて
8.須磨と明石の浦づたひ 敵の旗のみ打ちなびく
吹く松風か白波か よせくる波か松風か
響き響きて聞ゆなり つづみの音に鬨の声
・-湊川の奮戦-
9.いかに正季われわれの 命捨つべき時は來ぬ
死す時死なでながらへば 死するに勝る恥あらむ
太刀の折れなむそれまでは 敵のことごと一方より
10.斬りてすてなむ屠りてむ 進めすすめと言ひ言ひて
駆け入るさまの勇ましや 右より敵の寄せくるは
左の方へと薙ぎ拂ひ 左の方より寄せくるは
11.右の方へと薙ぎ拂ふ 前よりよするその敵も
後ろよりするその敵も 見ては遁さじ遁さじと
奮いたゝかふ右ひだり とびくる矢數は雨あられ
12.君の御為と昨日今日 數多の敵に当たりしが
時いたらぬをいかにせむ 心ばかりははやれども
刃は折れぬ矢はつきぬ 馬もたふれぬ兵士も
13.かしこの家にたどりゆき 共に腹をば切りなむと
刀を杖に立ちあがる 身には數多の痛矢串
戸をおしあけて内に入り 共に鎧の紐とけば
14.緋おどしならぬくれなゐの 血潮したゝる小手の上
心残りはあらずやと 兄のことばに弟は
これみなかねての覺悟なり 何か嘆かむ今さらに
15.さはいえ悔し願はくは 七度この世に生まれ來て
憎き敵をば滅ぼさむ さなりさなりとうなづきて
水泡ときえし兄弟の 心も清き湊川
作詞の落合尚文は、國學院大學の前身である皇典講究所、現在の跡見学園女子大学となる跡見女学校で教鞭をとる教育者でもありましたが、東京帝大で古典を学んだ国文学者で、森鴎外などとも親交があり、与謝野鉄幹の『明星』にも協力していたようです。そんな彼の代表作ともいえるのがこの『桜井の訣別』でしょうか。
一方、作曲の奥山朝恭は、明治7年に海軍鼓笛隊に入り、その後文部省音楽取調掛を拝命して邦楽の五線譜化を推進したとされていますが、兵庫師範で教職に就いていた時、落合の詩に出会い、曲を付けたとされています。
◆楠公の歌~櫻井の訣別~
529,071 回視聴
https://youtu.be/U8yjnEu0QJY
安倍正行
2012/10/16 に公開
敵軍襲來
遠く沖べを見渡せば
浮べる舟のそのかずは
幾千萬ともしら波の
此方をさして寄せて來ぬ」
陸はいかにとながむれば
味方は早くも破られて
須磨と明石の浦づたひ
敵の旗のみうちなびく
吹く松風かしら波か
よせくるなみか松風か
響き響きて聞ゆなり
つゞみのおとに鬨のこゑ」
湊川の奮戰
いかに正季われわれの
命すつべき時は來ぬ
死す時死なでながらへば
死するに勝る恥あらむ」
太刀のをれなむそれまでは
敵のことごとかたへより
斬りてすてなむ屠りてむ
進め進めといひいひて
かけいるさまの勇ましや」
右より敵のよせくるは
左のかたへと薙ぎ拂ひ
左の方よりよせくるは
右の方へとなぎ拂ふ
前よりよするその敵も
後よりするその敵も
見ては遁さじのがさじと
奮ひたゝかふ右ひだり
とびくる矢數は雨あられ」
君の御ためと昨日今日
數多の敵に當りしが
時いたらぬをいかにせむ
心ばかりははやれども
刄はをれぬ矢はつきぬ
馬もたふれぬつはものも」
かしこの家にたどりゆき
共にはらをばきりなむと
刀を杖にたちあがる
身には數多のいたやぐし」
戸をおしあけて内に入り
共によろひの紐とけば
緋をどしならぬくれなゐの
血しほしたゝる小手の上」
こゝろ殘りはあらずやと
兄のことばにおとうとは
これみなかねての覺悟なり
何かなげかむ今さらに」
さはいへくやしねがはくは
七度この世に生れ來て
にくき敵をばほろぼさむ
さなりさなりとうなづきて
水泡ときえしはらからの
こゝろも淸きみなと川」
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