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縄文人の志葉楽さんのブログ

日記や趣味を書く

●ジェンダー‐フリー●男女平等●差別と区別●権利と義務

2020年10月22日 14時12分57秒 | 生活
●ジェンダー‐フリー●男女平等●差別と区別●権利と義務
★ジェンダーフリー - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジェンダーフリー
ジェンダーフリー(ラテン文字表記:gender-free)とは、「従来の固定的な性別による役割分担にとらわれず、男女が平等に、自らの能力を生かして自由に行動・生活できること」と定義される。
これが敷衍され、社会的性別(ジェンダー)に対する一般通念にとらわれず、自分の生き方を自己決定出来るようにしようという、「固定的な性役割の通念からの自由を目指す」思想、およびこの思想に基づいた社会運動を指すことがある。
しばしば和製英語と誤解されるが、英語圏でもgender-neutralなどの語とともに広く用いられる。ただし、原語では「社会的性別にこだわらない」という程度の平易な意味であるのに対し、多くの外来語と同様、日本では使用者によってさまざまな党派的主張がなされ、誤解や混乱を生んできた。これを踏まえて、男女共同参画局より地方公共団体に対して「この用語を使用しないことが適切」との事務連絡が出ている。

★男女平等    https://ja.wikipedia.org/wiki/男女平等
男女同権(だんじょ どうけん)
男女両性の権利が同等であること、および、そのような理念を言う。
男女が同権であることは、男女平等(だんじょ びょうどう)と言う。
男女同権と男女平等は少し異なり、男女同権の権利が社会文化に浸透してから自然と生まれて来る社会が男女平等である。
男女同権社会を実現するにあたり、日本では男性の権利と女性の権利が、性別による差を熟考した上での同権になっていない。
男性の権利の面においては、男性の育児休暇を取る権利や主夫と云う態勢を取る権利が一般文化常識的に扱われていない。
女性の権利面においては成人社会人の女性の性を守る権利が整っていない。

★差別      https://ja.wikipedia.org/wiki/差別
差別(さべつ)とは、特定の集団や属性に属する個人に対して、その属性を理由にして特別な扱いをする行為である。それが優遇か冷遇かは立場によって異なるが、通常は冷遇、つまり正当な理由なく不利益を生じさせる行為に注目する。国際連合は、「差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である。」としている。

★区別(読み)くべつ(英語表記) 翻訳|distinction
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
事象の間にある差異を識別し,認定すること。理性の本質的機能の一つであり,科学的営為の基本。類と種差による定義に立脚するアリストテレス的方法や分類学,「われ区別す」 distinguoを合言葉として営まれたスコラ学の弁証法から,判明性 (区別されてあること) を真理認識の本質的要件としたデカルトを経て,現代の精神諸科学に方法的モデルを提供している言語学における弁別特徴の追求にいたるまで,学問史を通して区別の方法的重要性は確認されている。区別は対象に向けられた主観的行為であるから,差異がどこにあるかに従って,実在的区別と概念的区別の2種が立てられるが,ドゥンス・スコツスはこの中間として形相的区別をおき,デカルトも同様な考えを示した。

★「区別」と「差別」
http://www.city.oita.oita.jp/o196/kurashi/jinkenmondai/documents/4.pdf
「区別」と「差別」
次のことは区別でしょうか、それとも差別でしょうか。考えてみましょう。
トイレに行くと男子用、女子用に分かれていた。
運動会の短距離走で、 1位から順位をつけた。
女性のお医者さんを.女医さんという。

★権利と義務と | いつも心に憲法を   2016/03/04
https://kenpou.chuolaw.com/?p=173
「権利には義務が伴う」
といういい方を聞いたことがありますか。
権利ばっかり主張して義務を果たそうとしない、わがまま勝手で自己中心的な人に対して、
「権利を主張するなら、義務を果たしてから言え」
と言いたくなる気持ちは、どなたにも分かると思います。
自由民主党が2012(平成24)年に発表した日本国憲法改正草案には次のような規定が盛り込まれています。
(国民の責務)
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。
ちなみに、現在の日本国憲法の条文は次のとおりです。
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

ジェンダー‐フリー?
こんな言葉を言われて年寄りはハタと困った。
現代は昔と違い多国籍になり色んな国から色んなモノが入って来る。
マスメディアがいち早く取り入れるモノだから政治家も一般人も
遅れてはならじとそれに飛びついて使用し始める。
英語などを普段から使い慣れているモノには非常に好都合。
特に政治家や経済人は喜んでいる。
アラサーという言葉を初めて聞いたときは
思わずコラサーと言ってしまった。
未だに判らないのがネガティブという言葉である。
何度聞いてもダメでその都度調べるのだけど身につかない。
確かに多国籍は大事な事かもしれない。
でも ここは日本である。
言語学者は言葉の発展は良いことだという。
それに追いつくモノは其れで良いだろう。
だが 追いつけないモノも居る。
世に言う落ちこぼれになってしまう。
こんなので良いのだろうか。
何処までの範囲にするかも問題だ。
より複雑な思考になっていくから。
さて本題に戻そう。
下記にこの言葉の記して置く。
「ジェンダー・フリー」の「フリー」について書かれているのには私も賛成。
どうも日本人が誤訳の誤解をして使い始めたようだ。
私は英語は大嫌いで勉強する気になれないからしないけど時々暇なときに
何度か英語の番組を見たことがある。
他にも覚えていないけれども
外国に行って「フリー」などとは普段使わないようだ。
(日本で一般に理解されているような「~からの自由」という意味より、英語では「~がない」という意味合いが強い。)
英語圏では ジェンダー・フリーを、男女平等に対して否定的な
意味合いを持つ用語と解釈したのである。と書かれている。
元々日本人はこんな考えを持っていなかったように思える。
言葉というモノでもっと楽しんでいた。
今では絵文字などは当たり前に使う人が多いようだ。
私は余り好きではないので見ているだけにしている。
ギャル語というモノもあるそうだが 多様化するのは大いに良いモノ。
言語学者も歓迎する人が多いようだ。
デモ一つ考えて欲しいことは和歌や短歌や俳句などを詠んで判る様に
一つの言葉に多機能を持たせるのが日本の本質ではないのかな。
これならば より沢山の言葉を作り出すよりも便利である。
なぜならばこの使い方はモウ完成しているのではないだろうか。
新しい手法は大事かもしれないが已に有るモノを無くすような事は
しなくても良いと私は思う。
英語などの言葉を取り入れようとして誤用 誤解して使い
外国人に何これと言われるよりも。
このあたりの現象は反日教育のねじれ現象では無いかと最近つくづく考える。
真っ当な まっすぐな考え持てない若者が増えているのも
この辺に原因は有るのでは無かろうか。
これ以上は専門家に聞いて見ないと判らないことだけど。
私の思考も間違っているのかもしれない。
私としてはモット シンプルにモノを考えて使った方が
効率は良いのでは無いかと思う。
覚えるのにもさしてエネルギー使わなくても良いから。
江戸時代に和算という日本独特の数学があり老若男女
お茶飲みながら解いていたという。
今の数学でも十分に通用する高等数学を。
神社に絵馬にして寄進されたモノが全国に三千枚以上
飾られていたり床板の補修に使っていたモノが出ている。
笠屋 伝兵衛 とか 桶屋 幾三郎とか 名前を連名にして書いてある。
昔の和算などはそれだけシンプルにして教えていたのだろう。
今では難し過ぎてついて行けない子供が沢山出ていると聞く。
教え方一つで変わるだろうし変な変更した教え方では
よい子は育たないのではないかな。
専門家はどう思うか一度聞いて見たいモノ。
アタマ良くないからいざとなると逃げ出してしまうかもしれないけど。
モット日本語を楽しんで欲しいな。
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フレッシュアイペディアより
1.ジェンダー‐フリー【gender free】
性による社会的、文化的差別をなくすこと。ジェンダーにとらわれず、それぞれの個性や資質に合った生き方を自分で決定できるようにしようという考え方。
2.ジェンダーフリー(gender-free)
社会的性別(ジェンダー)に対する一般通念にとらわれず、人それぞれの個性や資質に基づいて、自分の生き方を自己決定出来るようにしようという、「固定的な性役割の通念からの自由を目指す」思想、および、この思想に基づいた運動を指す。
『デイリー新語辞典』(三省堂)では、「従来の固定的な性別による役割分担にとらわれず、男女が平等に、自らの能力を生かして自由に行動・生活できること。」と定義されている。主にフェミニスト達により主張されている。
※しかしながら、昨今この言葉をめぐって誤解や混乱が起こったことを踏まえて、男女共同参画局より地方公共団体に対して「この用語を使用しないことが適切」との事務連絡が出ている。
ジェンダーフリー概念の成立
元々「gender-free」という言葉自体は、アメリカの教育学者バーバラ・ヒューストンが用いたとされている。しかし、ヒューストンはこの言葉を「ジェンダーの存在を意識しない」という意味で使用しており、かつ、「ジェンダーフリー(ジェンダーの存在を意識しない)よりも、ジェンダーに起因する差別や格差に敏感な視点を常に持って教育を進めるべきだ」と述べて、「ジェンダーフリー」に賛成しないという文脈で使ったのである。故に、日本において「ジェンダーからの自由を目指す」思想や運動に「ジェンダーフリー」という語が用いられたのは、本来の意味と異なる誤用であった。
擁護派からは日本で「ジェンダーフリー」と呼ばれる運動の思想は、英語圏における「ジェンダー・イクォリティ(Gender Equality)」運動に近いとの主張が存在する。
(なお、フェミニストの山口智美は、『「ジェンダー・フリー」をめぐる混乱の根源』の中で以下のように述べている。
『私は10年以上、アメリカの大学院でフェミニズムを専門としてきたが、「ジェンダー・フリー」という言葉は聞いたことがなかった。「ジェンダー・フリー」の「フリー」は、日本で一般に理解されているような「~からの自由」という意味より、英語では「~がない」という意味合いが強い。アルコールフリービール、オイルフリーファンデーションなどを例にとるとお分かりいただけるだろう。アメリカ人のフェミニスト学者数名に、「ジェンダー・フリー」について聞いてみたところ、「何それ?ジェンダー・ブラインドって意味なの?」という反応が返ってきた。彼女たちは、「ジェンダーを見ようとしない。ジェンダーが見えていない」という意味にとった。つまり、ジェンダー・フリーを、男女平等に対して否定的な意味合いを持つ用語と解釈したのである。』)
ただし、欧米の女性学において「Gender」という用語とともに研究対象になったものは、まさに「男らしさ」「女らしさ」であり、このような性の差が差別の根本的原因という論であった。女性学(Women's studies)のさらに過激な展開として発達した「GenderStudies」の哲学的基礎は、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」の標語である。特に1970年から1980年代に展開されたジェンダー論では、このような性差はあくまで文化的に構築された人為的なものであり、これを乗り越えて「Androgyny(両性、あるいは中性)」の人間性を確立することが、フェミニズムが対峙する問題の最終的な解決につながると真剣に議論されていた。ただし、この論は医学的事実と決定的に異なっていたため、1990年代に急速に崩壊する。
日本においてジェンダーフリーが使われたのは、既に時代遅れになっている第三波フェミニズムのジェンダー論を、男女共同参画の政策目的で輸入したときの和製英語化による。これに、日本の(旧来の)フェミニストが飛びついて時代遅れの論戦を張ったため批判が集中し、ジェンダーフリーとはジェンダーレスではないとの反論を張ったが、これは元々の本家のアメリカの女性学で前世紀に展開されたジェンダー論が何であったかを無視したご都合主義の論調である。ジェンダー論とは、元をたどればまさに男らしさや女らしさなどの性的特徴から自由になろうというものであった。これを日本の政府が「政策目的」で徴用したわけである。
「ジェンダーフリー」の擁護派は、「ジェンダーフリー」はフェミニズム運動の一環と捉えられることが多いが、フェミニストのすべてがジェンダーフリー賛同派というわけではない。男性に対する文化的圧力を問題とする「男性学」、「メンズリブ」、「マスキュリズム」などの活動を行う者たちの中にも、ジェンダーフリー運動に賛同する者は多い。また、「クィア」と呼ばれる、同性愛者などの性的マイノリティーに属する層の中にも賛同する者がいるが、彼らの中では、本来の「ジェンダーフリー」の意味から離れ、独自の政治的意味を付加する論も存在すと述べている。ただしこれはポスト・フェミニスト派(バックラッシュ)がジェンダー論に早くから批判を展開していたからである。ついでにメンズリブなどの集団は存在しないに等しい少数であり「ジェンダーフリー」運動の多様な集団からの賛同などの根拠にならない。ついでにクィア論(同性愛・両性愛)はあくまでもジェンダー論から発展した学問である。

コメント
1:
犬の検便で虫いない=ネガティブ、居る=ポジティブ
つーゲットわんフリー=2個買ったら1個ただ。
スモークフリー、アニマルフリー=タバコ、動物は居ません、従って匂いしません。
ジェンダーフリーなど、犬の検便、フィラリアの虫、タバコの煙その程度。
2:
 ジェンダーフリーって和製英語だったんですね。しかも本来の意味とは全く逆に使われれている…と。これなら日本では今までどおり「男女平等」と訴えた方がいいのかもしれませんね。
3: 志葉楽
「男女平等」も良いけど区別を訴えた方が良いと思う。
現代人は区別や権利を履き違えているから。
区別は男らしさや女らしさも有るが
ソモソモ生理的に違うモノを同等に扱うのは良くない。
「男女平等」と訴えた結果 女も肉体労働をさせることになっている。
置換などでもおかしくなってしても居ないのにえん罪被りになったりしている。
ここに権利と義務と言うことが出てくる。
権利の主張は悪くないが義務をないがしろに議論するためにおかしくなる。
義務だけ差別だけ訴えているから物事 複雑になってしまうのではないかな。
この中の事は専門家が詳しいかな。
4:
つまりジェンダーフリーとは
日本発の「世界オカマ化計画」…ということだったんだ!!!!
ナ、ナンダッテー!!!>ΩΩΩ
ちがいますよね笑
5:
志葉楽さん こんにちは。
外国語は日本語に翻訳された時点で意味がまるっきり変わってしまった言葉がたくさんありますね。
また、日本には無い概念だから、どうやっても日本語に置き換える事が出来ず、その言葉をそのまま使うしかない言葉もたくさあります。
そうやって外国語の単語をそのまま発音のカタカナに変換したために「それっていったいなんやねん?」ってな、文章になってしまったり、その単語が指し示す意味を理解せず、安易にカッコつけとして使った自称識者達によって、単語の音と意味がばらばらになったまま大衆に浸透していく言葉もあります。
ジェンダー ジェンダーフリー という言葉もその代表例ですね。
あたしがこの言葉を知ったのは、高校生ぐらいのときだったかな?
親や学校の先生や、あたしに既存の役割の形を押し付ける人を攻撃する言葉だと思いました。
「女性はおしとやかに一歩下がっているものです」と言われれば「そんなジェンダーの押しつけは嫌いだ!あたしはあたしがやりたいようにする」と反発し「これは男が考え、する仕事だ。女子供は黙ってろ。口を挟むな」と言われれば「どうしてそうだと言い切れる?あたしにはそれを考え、する能力があるのに、ジェンダーに阻まれてさせてもらえないのは不公平だ」と叫びました。
そうした男女の役割分担の固定化に対して、異を唱え、その役割の固定からの開放がジェンダーフリーだと思っています。
どの仕事、役割も、男性も女性も同じようにすることが、ジェンダーフリーだとは思いません。
誰もが、自分がしたい仕事をし、自分がなりたい、なれるだろうと思った役割を担うのが、ジェンダーフリーでしょう。
だから、専業主婦が誰もいなくなり、すべての女性が会社勤めをしたり、起業したりすることは、ジェンダーフリーではありません。
専業主婦がいいと思う人は、専業主婦をし、会社に勤めるのがいいと思う人が、会社に勤めることができるのが、ジェンダーフリーです。
どちらを選択しても、どこからも非難されないことがジェンダーフリーです。
だから、政府の「男女共同参画政策」は間違っています。
あれは、男性にも女性にも今までの役割分担の他にさらにプラスして、今までしてこなかった役割もしろ!という押しつけです。
そうじゃない。
出来る人が出来る事をするのが、安定した共同体を維持することに繋がります。役割分担は固定化すると義務という苦しみを生じさせるから。
今出来る人が、今出来る事をする。ただそれだけなんです。
特別な配慮などなにもいらない。そうすることが当たり前になればいい。
ただただ、そうなって欲しいと思います。

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