咆哮

負け犬の遠吠えかも…
最近「負け犬」が流行り言葉になってしまったので「落ち武者の歯軋り」とした方がいいのかも…

『コラテラル』

2005年03月07日 21時34分28秒 | 映画
ストーリー説明及びネタバレなし。

面白いねぇこの作品、特に個人的に凄くウケてしまった。
だって、このブログのタイトルを付けた理由を、まんまこの作品の中でもみつけてしまったんだもの…。(それが何かは追々書き進めて行こう)

それと、優れた娯楽作品には必ず作り手の哲学やらメッセージが控え目に見え隠れしていて、たんに娯楽作品としても楽しめるし、そのメッセージを読み取れたり、共感したりすると数倍面白く感じることが出来るというのは映画ファンなら誰しも思うことだろう。

まずはこの作品、「ユニーク」という言葉が頭に浮かんだ。
何がユニークかというと、多くのこの手(犯罪・アクション・サスペンス)の作品の場合と逆転の発想なんだよな。この手の娯楽作品で世の中を映し鏡として表現する場合、物語の中では警察とか被害者などの役柄で社会を反映して、犯罪者側などにメッセージを託すケースが圧倒的に多いように思える。
要するにマジョリティーよりもマイノリティー側から、世の中の批判をさせた方が分かり易いし物語も作りやすいからね。

でもこの作品の場合、それが逆になっていた。この作品の殺し屋の台詞って馬鹿らしいほど正論で面白いよね。もしこいつが殺し屋という職業ではなく真っ当な仕事をしている人間だとしたら、実に立派な「勝ち組」の正論にしか聞こえないような台詞ばかりなんだ。(苦笑)
しかも、「負け組」のしがないタクシードライバーもそれは十分に自覚していて、最大の自分弱点をズバリとつかれて落ち込むのが可笑しい。もう少し具体的にいうと能力のあるエリートから「お前は本気で(その夢に)取り組んでいない」って初対面の相手から鋭く批判されてしまう訳。(笑)

そして「プロの仕事はこうするんだ」といわんばかりに手際よく仕事を進めて行く。
「お前のように夢を絵葉書だけで満足しているようでは一生負け犬なんだよ。俺はそんな生き方は絶対にしない。自分の能力を最大限に生かして無能な奴らとは違う世界で生きる。」
「でも、あんたらみたいに能力はあるがその能力を発揮することだけしか考えなくて手段が目的となっている事で本当に満足出来るのか?。俺は何かひっかかるんだよ、俺は自分が能力が無いとは思っていない。でも、あんたらみたいに能力を発揮する事だけに生きがいを感じ、結局のところ自分が何をやっているのか全然見えていない奴ら(社会そのものが)のようにはなりたくないと思っているだけなんだよ。」
ってな会話は映画には無いが、私にはそのように聞こえて来るんだよ、この二人のキャラが出来上がっているから…。

この映画の中では殺し屋が言ってるのだから私の話は極端だと思う人の方が圧倒的に多いだろうけど、現実の社会においても勝ち負けは問答無用の世の中になりつつあり、勝つ為には人生の最も重要な何かを切り捨てなければならい。しかし、それが出来ないこの主人公のようにウジウジ、イジイジした生き方にこそ、その極端から逃れることの出来る唯一の手段だってことをこの作品から感じ取れたし、これこそがこのブログタイトルの咆哮であり私の生き方でもあるんだ。

ただし今まで書いた事だけだと誤解するかも知れないので、念を押して書いておくと、この映画の優れているところは、この両者の互いの生き方は全く相容れないものであり反発しあっていながらも、何処か魅かれてしまっているってところもあり、(殺し屋側に、その傾向はより強く出ている)そこから哀愁が生まれてくるところが非常に映画的でありハードボイルドなんだよな。