VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ

谷口雅春大聖師の教えを現代に生かす

生長の家発見

2015-06-16 21:17:21 | 生長の家

          生長の家創始者  谷 口  雅 春 大聖師


 『若人のための78章』 の49頁にこう書かれております。

 「自然が神の創作したまえる直接芸術であるに対して、人生は人間の自由意志によって想像する芸術であるということが出来るのである。 色とりどりの人生は、すべての人間の各々の想念という絵の具によって彩られて、五彩七彩の輝きをあらわすのである。 そこに悲劇があらわれているにせよ、喜劇があらわれているにせよ、それは作者の創作であって、神が決して押しつけた運命ではないのである」


 この人間の運命というものが、神が決して人間に押しつけたものではない、すなわち決して宿命的なものでないということを吾々は知らなければならないのであります。

 私は或る宗教におりました時代に、その宗教では、愈々近いうちに神様が此の世界を建て替える最後の時が来ると申しておりまして、神様の気に入らないところの不良の人間を、「地震、雷、火の雨降らして」 滅亡せしめて、神様の気に入る人間だけを地上に残すというようなことを説いている教えであったのであります。

 ところが私は或る日の事、自分の家の庭を見ておりますと、一匹の蛇が出て来て蛙を呑んでいたのを見たのであります。

 「ああ、可哀想だなあ、あの蛙は。 あの蛇を棒で撲って、蛙を助けてやろうか」

 と一時は、思ったのでありますけれども、

 「いやいや、蛙を助けて蛇を撲ったら一体蛇っていうものは何を食べて生きるんだろう。 又別の蛙を掴まえて食べるからあの蛙は救かるかも知れんけれども、他の蛙は救からんことになる。 或いは他の蛙が見つからないとしたらあの蛇は飢え死にをしてしまうかもしれない。 蛙を救けると蛇が死ぬ、 蛇を救けると蛙が死ぬ。 何という不調和な世界なんだろう」

 と私は思ったのであります。

 「どうしてこんな不調和な世界を神様が拵えたのであろう」 と私は考えました。 互に食い合い殺し合いをしなければならないような、不完全な世界を神様は拵えたのは誠にもって怪しからぬ。 これに創造主 (つくりぬし) があるなら創造主の責任である。 そんな不完全な創造神が、人間が争い、食い合い、殺し合い、不徳な行いをするからといって、人間に罰を与えて神様自身の気に入らぬ人間は、皆殺しに殺してしまうというような、そんな不合理な事があるだろうか。 

 神自身が不完全じゃないか。 そんな不完全な神は 「神」 と称するに足りないものである。 そんな神は存在しないのである。 ついに私はこう考えたのであります。 そうして私は、その宗教から脱退した。 

 そして此の世界はそういう神様が拵えた世界ではない、これは人間の心が拵えた世界なのである。 つまり人間自身の心が展開してそれが時間・空間面に現われている世界が、この肉眼で見える現象世界である、こういう風に私はその時考えたのであります。

 私はその時、神の宇宙創造説からぬけ出して、この見える世界は 「唯心所現の世界」 であると考えるようになったのであります。 この世界は唯心所現の世界、即ち 「心のあらわす処の世界」 であって、神様が拵えた世界じゃないんだと考えるようになったのであります。

 お釈迦さんも矢張りそう思われた時代があったという事を私は仏典で読んだことがあります。

 お釈迦さんは或る日の事、王宮の外苑を散歩しておられましたら一匹の烏が出て来て土を掘って何か蝉の幼虫のような、芋虫のようなものを掘り出して食べているのであります。 その芋虫のような生物は烏の嘴につつかれて、からだをくねらせて痛そうに苦しんでいる。 それを釈尊が御覧になった時に、 

 「ああ、この世界は悲惨な世界である、生存競争の世界である。 弱肉強食の世界である、殺し合いの世界である。 そこには “生” の苦しみが充満している、この “生” の苦しみを解脱するのにはどうしたらよかろうか」

 と考えなやまれた。 これが釈尊の出家せられた動機の一つになったということでありますが、私は蛙と蛇との闘争を見て、此の世界は神の創造の世界ではない  ―  愛深き神様が拵えた世界じゃないんだ、人間の心の創作の世界であると考えるようになったのであります。


 それからしばらくしまして、私は、宇宙の創造神が此の世界に地震、雷、火の雨をふらして最後の審判をおこなうというその教団から脱退いたしまして、著述家になろうと思って東京へ飛び出して、或る本を書いたのであります。 しかしその教団を飛び出したけれども、心の奥底に、この弱肉強食の闘争の此の世界を調和ある世界にするには如何になすべきか。 このままでは人間は救われない。 その救われないことに自分自身が悩む心が起って来るのは一体どうしてであろうか、という事を考えずにはいられなかったのであります。

 その闘争の世界から目を挙げて、“救い” を求める心というものが起って来るのは、どうしてそれが起って来るのであるか。 その “救いを求める心” がたまらなく自分の心をかき立てるのは、何処かに、本当に 「救うところの本体」 があるからではないか  ―  だからこそ、こういう “救いを求める心” が切実に起って来るのではなかろうか ・・・。

 《切実に吾々が魂の底から求めるのは、既にそれが‘ある’からそれを感じ求めるのではないか》

というような感じがして来たのであります。

 即ちこの世界を造ったのは 「吾々の心」 であるが、併し 「吾々を救う処の何か偉大なる者」 が何処かにあるに違いない ―― 。 何処かにその偉大なるものがなかったら、こうして切実に魂の底から “救いを求める心” が起って来る筈がない。 私の心の底は、何処かにその救いを求める尚一層大なるものにつながっていて、それを感じているのである。 既にそれを暗黙のうちに感じ知っているからこそ、それを求めるのではなかろうか ―― 。

 「救いの本尊」 が何処かにある。 それを 「神」 と言えば 「神」 と言える、しかしその 「神」 はこの悲惨な弱肉強食の現象世界を拵えたんじゃないんだ、という直感が這入って来たのであります。 ここに現象世界の創造者と、実在の世界の創造者とをハッキリ分けて考えなければならぬことに気がついたのであります。


 その直感が今、生長の家の教えの奥底にあるのでありまして、その 「救いの本尊」 は何処にあるかと言うと、それは 「実相の世界」 にあるという風に今では生長の家では説かれているのであります。

 この肉眼で見るところの世界は、殺し合いの世界は、奪い合いの世界は、食い合いの世界は、それは吾々の “心” のあらわすところである。 “心” が変ればそれは変わる。 けれども、その現象世界の、殺し合いの世界のその彼方に、もっと 「超越した処」 に完全な実相の世界があって、そこはイザヤ書に書いてあるように、蝮のすむ孔に子供が指を突込んでも蝮と子供とはたわむれ遊んで蝮が子供を傷つけない。 ライオンと羊とは仲良く草を食っているようなそういう世界が既にある。 既にあるからこそ吾々の求める気持が、自己の生命の奥底から押し出してくるのである。

 実相の世界にはすべて生きとし生けるものが互に完全に調和した姿において、‘そこに’既に在るのだ。 その世界はどうしたら出て来るか、どうしたら現象化して出て来るかという事に、私は思い悩んだのであります。

 そうして遂にそれを発見したのであります。 それは現象世界は心のあらわす所でありますから、心を媒介として、心をレンズとして、その心を澄み切らして、完全に心を透明にして 「実相の世界」 の光が射し入るようにした時に、その心を媒介として心のあらわす処の現象世界に、実相世界の完全な相が投影して、諸法がこのまま実相となる。 

 この 「実相の世界」 のことを 「仏の世界」 と言ってもいい、「神の世界」 と言ってもいい、天国と言ってもいい、「お浄土」 と言ってもいい、それこそが本当に実在する世界である。 その実在の既存の完全な世界が、心を媒介として吾々の現象世界にそれがあらわれて来させる  ――  これが “地上天国建設運動” であります。


 しかし、この真実在の完全な実相世界は、霊的世界であって、物質世界ではありませんから、観じなければあらわれないのであります。 その観ずる方法として私は 『神想観』 という観法を神から啓示されたのであります。 その 『神想観』 によって実相の完全なる姿を心の眼をもって正観する時に、完全な実在の姿が現象世界にまで延長して出て来るのであります。


     『光の泉』誌  昭和39年11月号  56 ~ 61頁



 

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