VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ

谷口雅春大聖師の教えを現代に生かす

御陵参拝

2015-09-11 01:34:04 | 生長の家

           生長の家淑徳大学寮校長  山 口  悌 治


 奈良の古い寺々を巡り歩いて、古塔や金堂のこの世ならぬ美しさに魂を奪われたり、「永遠なるもの」をまざまざとこの肉の眼に見得る思いに、凝然と古仏の前に立ちつくして時の流れを忘れたり、そういうことはしばしばであるが、それらにまさるとも劣らぬ感動を、私は成務天皇(第13代)の御陵で味った。 それは全く予期しない、天から降って来たような不意打ちの感動であった。

 暮もおしつまった12月21日、私は秋篠寺の伎藝天の前に額づいた帰り路、かねてからの念願であった奈良北郊の佐紀丘陵の古墳群、神功皇后陵、成務天皇陵、日葉酢姫皇后陵(第11代垂仁天皇皇后)、磐姫皇后陵(第16代仁徳天皇皇后)等への参拝を果そうと思い、秋篠川を渡ると、平城宮跡を右前方に眺めながら、道を北へ向った。

 12月とはいっても、風もなく暖かな日和で、大和国原は‘あいたい’と霞んでいた。

 地図をたよりに、途中孝謙天皇(聖武天皇皇女、母は光明皇后)の御陵の参拝をすますと、そのまま真直ぐに北上して山陵のを通り抜け、奈良電鉄の軌道をこえると左手には秋篠川をはさんで開けた田圃を隔てて秋篠のが望まれ、右側はこんもり繁った小山。 その小山に添った道を暫く行くと、神功皇后陵への登り口があった。 ゆるいだらだら坂を右へ辿ると、南面して御陵があった。

 どこの御陵でもそうであるが、お参りする人の影は全くない。 ただ森閑と神鎮まり給うて在しますばかりである。 美しい。 どうしてこうも美しいのであろうか  ―  と気を遠くなるばかりの美しさである。

 これまでに私が参拝した御陵は、飛鳥奈良周辺の、年代的には奈良朝以前の20ヶ所あまりの御陵にすぎないが、明らかに御墓の感じの強い聖徳太子の御陵を除いては、いずれもみな溜息が出るほどの静かな美しさを湛えていた。 選ばれた地形の美しさもあるかも知れないが、地形だけの美しさならば、他にいくらでも明媚を誇る景勝の地があるであろう。 併し大自然の景勝の地は、明媚なる風光の美しさにとどまるが、御陵には、年輪に年輪を重ねて来た精神の香気のようなものが地形の美しさを一層深いものにしているのである。

 人間にたとえて言えば、その道の蘊奥を極めて高年に達した一流の達人が、日常、それとなく湛えている人柄の深さの美  ―  とでも言ったら、凡その想像がつくであろうか。

 いずれにしても、応神天皇の壮大な御陵に比すれば、母君である神功皇后の御陵は、その2分の1にもみたないつつましさであった。 後円部の盛り上がりもさして高くはなく、濠をめぐらした様子もみえず、ひっそりと冬の日をあびたたたずまいからは、男装して新羅の国を征せられた剛気な皇后の姿は浮んで来ない。 寧ろ、仲哀天皇崩御後の社稷を、ひたすら神を祭り神に祈り、神に導かれて護持せられ給うた篤信の御心映えが、ほうふつと浮ぶのであった。

 殊に、内玉垣を鍵型にかこむ、白い玉砂利の箒目の跡もすがすがしい前庭の左側に、一列に並んだ大小6基の灯篭がかもし出している雰囲気は、この皇后の篤信を象徴するかと偲ばれてまことに印象深かった。 御軍をいよいよ新羅に進められるに際して、群臣に賜った御言葉が、自然に思い合わされて来るのであった。

 『それ師を興し衆を動かすは、国の大事なり。 安さも危さも成るも敗るるもかならずここにあり。 今征伐つ所あり、事を群臣に付く。 もし事成らずば、罪群臣にあらむ。 こは甚く傷まし。 吾れ婦女にして不肖し。 然はあれども、暫く男の貌を仮りて強ちに雄しき略を起しつ。 上は神祇の霊を蒙ふり、下は群臣の助けを籍りて、兵甲を振ひ、嶮しき浪を度り、艫船を整えて財の土を求めむに、もし事成らば、群臣共に功あり。 事就らずば、吾れ独罪あらむ。 既にこの意あり、それ共に議らへ』 と宣り給ひき。 (「日本書紀」)


 「 ――  もし事成らば、群臣共に功あり。 事就らずば、吾れ独罪あらむ」 皇后もまた一切を自己の責任とする日嗣の皇子の道を、身をもってきびしく歩まれたのである。

 ――  私はお別れを告げた。 もと来た道を引き返して、山陵ので左へ曲がり、暫く行って右手の坂を丘陵深くのぼって行くと、右手にそれとわかる御陵の境界が見えて来た。 後からわかったことであるが、私は背面の方から陵域に入ったのであった。

 右手が成務天皇、左手が日葉酢姫皇后陵。 その中央の参道を私は逆に進んで行った。 真直ぐにとおったこの中央参道は、幅1間半位であったろうか。 1町あまりもあるこの参道の両袖は、高さ1尺あまり、幅2尺あまりの、芝を植え込んだ低い土手で、芝は12月の事とて刈り込まれたままにす枯れていたが、ところどころに姿のよい松の古木が、風趣のある枝振りを見せ、手入れのよく行き届いたすがすがしさに、「ああ、来てよかった ― 」 と、なにやら瑞々しいものが体内にしみて来るのを覚えた。

 注意を右にくばり左にくばりながら進むうちに、不意に、名状し難い感動に襲われ思わず私は息をのんで立ちつくしてしまった。



 〔2〕 へ続きます。

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