藤 原 敏 之
私がご飯が終わって、お茶でお茶碗を洗っているのを見ていた人が言っていましたね。先生みたいにきれいに洗うたらいいなと。
私はもう60年くらい前のころ、同朋園という禅の大家のところで2年ほど修行したことがあるの。鍛えられましたよ。そのときにひどい目に会ったことがあるの。
先生が講演に行かれるのに随行して行ったときのこと、先生は禅の大家ですから、ご馳走がいっぱい出ても、あれもこれもつついて食べるということはしない。一皿ずつをきれいにおあがりになる。そして、ご飯のお代わりをするかわりに、出ているおかずをなるべく一皿でもよけいにいただくのが作法だよ、仏の供養だからね、とおっしゃる。そして、一皿終わるとまた次にお箸をおつけになる。
だから、食い残しになって粗末にするということがない。そして終わりますと、茶碗にお茶を入れて、お椀からはじめて、おこうこのお皿まできれいに洗いあげて、全部洗って集めて、それを飲むんです。そうしてきれいに洗って器を重ねて、感謝してお礼を言うて食事が終わる。忙しいのよ。
私はついて歩きおったから、ある時、先生は正座でご馳走になる。私は相伴。横向きで食べとる。私も先生のを全部見ておって真似するわけです。
先生のやるとおり真似して、食べ終わりましてな、お茶で洗うわけですが、お漬物の皿だけ洗わなかったのです。なぜかというと、醤油はかけなかったし、ちょっとも汚れていない。あとは先生のやられるとおり洗ったのだけれども、汚れていないのは洗う必要はないと思って、それだけ洗わなかった。
それで私は終わったのですが、それを先生、ちゃんと見とったんじゃね。
「ちょっと、藤原さん」
「はい」
「食事終わったんですか」
「はい」
そうすると、先生が私の洗わなかった漬物の皿をしゃっと取った。なにするんかと思っていたら、それにお茶をしゃっと入れて、それで皿をさーっと洗う。それを飲めと言ってくれれば助かるのに、自分がしゃーっと飲んでしまった。偉い先生が私の使った皿の洗いカス飲んでしまった。漬物が乗ってたのを食べただけだから、汚くはしてない。それでもこたえたね、私は。怒ってくれた方が、よっぽど助かる。だまーって取って、洗って、飲んでしまわれたから私はこたえたのよ。そのことが骨身にこたえて、それ以来私は、どこで食事をしても絶対これをやりますよ。
きれいに洗って、拝んでいただく。そういうことを教えられたでしょう。みんな仏として拝む。禅宗では、顔を洗うんでも、流れている水でも、わざわざ樋でとる。山の中で、きれいな水がどんどん流れている、それでも樋にかけて、樋から竹の柄杓で水を受けて、その一杯ではじめ口をゆすいで、それから次の一杯で顔を洗う。
そこに流れよるんだから、普通は手を突っ込んでざーっと洗えばいい。ところが、それでも神の命、仏の命と拝めば粗末に出来ない。仏の命として拝んで受けて、ゆすいで洗って、三杯目は必ず半分で使って、半分はお礼を言うて、お返しせねばならん。必ず二杯半です。
だからご飯をよそうのでも、禅宗では二しゃもじ半でよそう。まず七分目入れて、それから又ちょっと入れて、三べん目は入れるまねだけして、返すまねをして拝んでご飯つけるのを終わる。それが、半分は仏様にお礼を言うてお返しする、そういうことです。
唯物論者は、「ばっかな、今時そんなことをやっとるから、宗教なんてだめじゃ」と言う。
しかし、本当の宗教というのは、これを頭でわかるんじゃなくて、実践する。形を見て頭で理解するだけではだめなんです。
おやじをおやじだと思って拝もうとしたら、拝まれせんよ。そんな立派な者ばっかりいやせんから。立派な者なら拝めるけれども、中には出来損なったような者もおる、それを見て拝めと言っても、拝めはせん。どうしたら拝めるか。実相を見るから拝めるのです。
子供でもそうよ。勉強せん子や、頭の悪い子や、そんないろんなことがあって困るのは、みんな自分の子にしているからです。
実相を拝む。「ああ、私の子じゃ ない、私の子として現れた観世音菩薩じゃ」と、拝んでお仕えするから、子供がようなるのですよ。実相が現れるのです。本物が出てくるのです。そういう生活をやらにゃだめなんですよ。「人間は神の子だというのは、知ってるんだけどのう、なかなかそうはいかんでのう」そんなことを言っていたんじゃ、つまらんよ。
ほんとうに神の子だと分かったら、神の子として拝む、拝むんじゃない、お礼を言う。そうなったら、拝まずにはおれんようになる。
気張って拝むんじゃない、神想観も、聖経読誦もそうです。気張ってお経をあげんと先祖がうろうろするとろくなことないから、忙しいけど読んで聞かしとかにゃ、そんな気持ちで読んでいる人もあるが、それじゃダメですよ。
無我、無条件、無はからい、そのまま、ただそれだけでいいでしょう。あとは手を合わせて、喜んでいればいいんです。ただ礼拝、ただ合掌、ただ喜べ。
見えている姿が、ようなくても、喜べ。そして心から笑う。
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