VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ

谷口雅春大聖師の教えを現代に生かす

新刊 『左翼老人』 扶桑社新書

2019-04-28 13:32:44 | 生長の家
森 口 朗 著

『左翼老人』 ーー 冷戦思考から抜け出せない哀しき人たち (扶桑社新書)


元東京都職員で、現在は教育評論家である森口朗氏の最新著作 『左翼老人』(扶桑社新書)は、


「一人でも多くの高齢者が左翼であることを悔い改め、死にゆく前に祖国日本の発展に貢献していただくために書いた本です」

という刺激的な一文から始まります。


本書は、他の先進諸国ではとっくの昔に絶滅した共産主義者が、いまだに日本では跋扈し、共産党と名乗る政党まであり、政治界、学界、教育界、マスゴミ、法曹界などを牛耳ってきた時代背景とエピソードが豊富に語られているので、“そうそう、そんなこともあったねぇ~”と思わず膝を打つ例証のオンパレードです。


沖縄の基地反対運動で、機動隊員に向かって「クソ」だの「ボケ」といった言葉を投げつけるうす汚くて醜い暴力じーさん、ばーさんや、有り余る暇とカネにあかして国会前に集合し「アベ政治を許さない」というプラカードを持ってデモの真似事をする老々男女は、若いころにリベラルを詐称する真性左翼(共産主義者)に騙されて以来、冷戦はとっくに終わっているのに、いまだにその思考から抜け出せず、祖国日本を分断し、発展を阻害することを生きがいにしている危険な存在です。


1950~60年代、若者を左翼に取り込んだのは「歌声喫茶」「うたごえ運動」「左翼演劇」など、条文も読まずに「革命」を夢想し60年安保闘争に明け暮れた出来事など、今から見ると滑稽で幼稚な運動が仕掛けられ、単にそれらに踊らされて、「反権力 = かっこいい」 と思い込み、いまだに妄想と思わない救いがたい人々が現在も大手を振っているのです。


あの頃、東京や京都などの大都市に革新知事・首長が続々誕生しましたが、東京都のように債務が膨れ上がり破綻し、「みんな平等」を掲げる左翼が決して弱者の見方ではないし、左翼野党の掲げる政策は実現性ゼロであることが知れ渡り、良識ある人々はこういった人々を「お花畑」とバカにしています。


大豪邸に住む共産党のドンこと不和哲三氏、北朝鮮とパチンコのために働いた旧社会党の女性ドンこと土井たか子氏、拉致家族を犬畜生のような言葉で罵った自民党の野中広務氏、北朝鮮びいきで天皇制廃止希望の辻元清美氏など、日本の左翼は特定アジアを理想郷としていることが、他の先進国リベラルとの大きな違いですが、それはこうした国々との結び付きが利権になっているからです。



著者森口氏が本書の出だしに過激な一文を掲げた理由は、日本政府が一環して年金、医療、介護など、あらゆる社会保障で現在の老人を優遇し、今の老人こそが福祉国家理念の利得者であるにもかかわらず、左翼小児病患者は存在しなかった対岸の天国理念を信じ、テレビ漬け、新聞漬けのあげく政府に文句ばかりを言い、国家破壊活動に精を出しているからです。


年金、医療、介護全てを足すと、支払い額と受給額の差は、1940年生まれは4930万、1945年生まれは3370万、1950年生まれは2150万も得しています。

損得がイコールになるのは1965年生まれで、1985年生まれは2180万、2000年生まれの若者は今の制度では3240万も損するといわれています。

これだけ恩恵を受けていながら、国に感謝することもない左翼老人は嫌われて当然だし、左翼老人は日本を滅ぼすと実感しています。

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老人性白内障(2)輝子先生に手術を勧める

2019-04-26 18:39:52 | 生長の家

生長の家創始者 谷 口 雅 春 先生


私は家内にその曇っている内障ある眼のレンズ(水晶体)を切除して、人工のレンズで補うことを勧めたのである。


私は理論的にそのことを勧めた。



「生長の家の誌友や信徒の中には老人性白内障にかかっても、聖経読誦で治したい、神想観で治したい、悟りを深めて治したいと一心にあんたのように苦労している人があるが、そうして治るのは若い人の白内障である。

老人性白内障は六十歳を越えると誰でも顔にシミが出来るが、これは色素排泄の調節力の老衰であるが、あんたの顔には他の人ほどにはあまりシミが出来ない。

その代りにそのシミが不幸にして眼の水晶体に出来てそのためにレンズが不透明になって来たんだ。

その不透明なレンズを人工的に切除して眼鏡のレンズと置き換えることは、蝕くった歯に金充填するようなもので、歯は金充填をする手術をしながら、眼の手術を恥じる必要はない。


宗教人であるから、静坐や、悟りや、読経で治さねばならぬと頑張るのは、柳生但馬守が自分は剣者だから雨を刀を揮って斬り払わねばならぬと考えたり、沢庵禅師が、自分は禅者であるから坐禅によって雨に濡れないでいなければならないと考えて、濡れていながら、実相は濡れていないと頑張るのと同じことだ。


生長の家はそんな“ねばならぬ”を放ち去って、人時処の三相応に適するように雨には傘をさして濡れずという風に物質的に処置し得るものは、簡単に物質的に処置するのが三相応の道であり、それが生長の家の生き方だ。


あんたを白内障にかかって手術によって視力を恢復したということを聴いたら、今のあんたのように老人性白内障にかかりながら信仰によって、悟りによって直さねばならぬと頑張って苦しんでいる信者が“生長の家でも手術しても好いんだ”と安心してそれによって多くの人々が救われることにもなるのだ」



わたしはこんな話をして、家内をして、ついに白内障の外科手術をすることを納得せしめたのであった。

老人性白内障

2019-04-25 21:33:38 | 生長の家

谷 口 輝 子 先生

夫にその問題についてたずねて見たら、若い人の白内障は、眼は先祖及び両親の七光を象徴するところで、その光を見ない心が障りとなって現れているのであるから、先祖及び両親の光に感謝する心になって、聖経を供養すれば治るようになるけれども、老人性白内障は、肉体の老化現象の一つとして、ふだんの生活の仕方や、食物の不良成分や、公害物質の多年に渡る蓄積などが原因になって、その蓄積がある飽和状態以上になると、どこかに老化状態があらわれて来ると言われた。

それはその人の精神的肉体的の生活の仕方によって遅らすことも出来るが、全然、老化を避けることはできない。


夫はそれからまだいろいろと私に説いて下さったので、私はついに入院と決心した。

皇恩が生きている

2019-04-24 21:54:44 | 生長の家

生長の家創始者 谷 口 雅 春 先生


『仏祖の大道、かならず無上の行持あり、道環して断絶せず、発心修業、菩提涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり。みずからの強為にあらず、不曾染汚の行持なり。この行持の功徳われを保任し、他を保任す。わが行持、すなわち十方の巾地漫天みなその功徳をこうぶる。他もしらず、われもしらずといえどもしかあるなり。』(道元禅師『正法眼蔵行持』上)



右の一節を数回繰返しお読み下さい。そして「行」の尊きことをお知り下さいませ。


「行」とは必ずしも苦行のことではございません。行いです。その行いが道に載ったときに、「無上の行持」となるのでございます。

発心と修業と菩提涅槃と、これは三つではなく、一つの環の如く連りひとつのものなのです。

発心〈みちにこころざす〉も自分がするのではない、修業をするのも自分が修業するのではない、また他〈ひと〉にせられるのでもない。

即ち「行持道環なり。みずからの強為にあらず、他の強為にあらず」と道元は云う。

では何が発心し、何が修業し、何が悟りをひらくのであるか。

種から自然に芽が出て茎がのび花をひらくように、本来清浄の仏種が内より催して来て発心し修業し菩提〈さとり〉を得るのである。

だから「不曾染汚の行持なり」と道元禅師は仰せられたのであります。自分の行が完全であるなどと力んでいる人には頂門の一針でございます。


吾々の行持はそのままに天地の道の周行するところの行持であって、天地の道を倶に立つところのものなのでございます。

ですから「わが行持、すなわち十方の巾地漫天みなその功徳をこうぶる。他もしらず、われもしらずといえども、しかあるなり」と道元禅師は仰せられたのであります。


神想観をしても、座禅をしても、我が行持〈おこない〉は天地と共に立ち、天地と共に周遍〈あまねくゆきわたる〉するのでありますから、今更、自分の病気が治るとか、自分の何々の功徳が得られるとか、そんなちっぽけな功徳の事ではないのであります。


「他もしらず、われもしらずといえども」天地と倶に立つところの吾々の行持が、天地全体に影響を与えない筈がないのであります。だから「この行持の功徳、われを保任し、他を保任す」と仰せられたのであります。


われわれが今道に志すのは我が一身ははからいに非ず。皇恩、諸仏諸祖の恩、父母の恩、夫又は妻の恩、衆の恩 ーー それらの行持がここに一環をなして生きるのであります。

ここに皇恩が生きているのであります。ここに父母の恩、夫又は妻の恩、兄弟の恩が生きているのであります。


忠の心を起すも、自分が「忠」の心を起すのではない、皇恩が茲に循〈めぐ〉り来って「忠」の心が必然的に起るのであります。

孝の心を起すのも又そうです。父母の恩が自然に循り来って「孝」の心が必然的に起こるのであります。

ここに皇恩が生き、ここに父母が生きているのでございます。ただ合掌でございます。

個人を超えて国家に捧ぐる

2019-04-24 00:37:04 | 生長の家

生長の家創始者 谷 口 雅 春 先生


生長の家は、個人を成就する今迄の宗教とちがって先ず家庭を成就するのであると申上げたことを私は今更取消そうとは思いませぬ。


生長の家は生長の人と称(い)わずして生長の家と称(しょう)しているのもその所以でございます。


併し、その「家」なるものは必ずしもあなたの思っていられるような「家庭」のみのことではございませぬ。


「家庭」もやはり含まれてはいるのでございますが、「国家」も「家」であり、「宇宙」も吾々の称しているところの「家」でございます。


「家」と称するところの意義が「国家」となり「宇宙」となることによって、吾々の生きる生命(いのち)が自己拡大するのでございます。


「国家」又は「宇宙」と「個人」とを対立的なものと観ている見地は全世界をバラバラに見ていますので生長の家式世界観でも生長の家式人間観でもございませぬ。


生長の家式人間観に於ては「個人」の中(うち)に現成せる「国家」を観、「個人」の中に現成せる「宇宙」を観るのでございます。


ですから「個人」が「個人」の煩悩として生きるのは本当の「個人」を生きる所以ではございませぬ。


「個人」が本当に生きるのは、その「個人」が「国家人」及び「宇宙人」を生きることによってでございます。


「個人」を愛して、その愛を甘やかして「個人我」の煩悩だけを伸さばらせて置くことは却ってその人を愛しているようでその人を生かしていないことになっていることが多いのでございます。


あなたのように家庭的情愛の深い人には特に御注意願いたいと存じます。