VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ

谷口雅春大聖師の教えを現代に生かす

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

年金、2000万円で騒いでいるが …… 『道心に衣食あり』

2019-06-17 12:02:35 | 生長の家

徳 久 克 己

谷口雅春先生の随行をして、汽車にのっていた時に、私は思い切って、

「先生、職員のなかには、老後のことを心配している人がいたり、若い人のなかには、子供の教育費の心配をしたりする人がいますが、どのように答えたらよいのでしょうか?」


このような、ブシツケな質問をいたしました。すると、先生はニコニコお笑いになりながら、まことにオダヤカなお声で、汽車の窓の外を指さしながら、


『徳久君! そこに雀や鳥が飛んでいるだろう! 雀や鳥は給与をもらっていないよ』


こう言われました。私は本当にビックリしました。雀や鳥が給与をもらっている、ということを聞いたことがないし、また、雀や鳥の給与のことなど、考えたこともありませんでした。

あの時の、私の顔はポカンとして、バカのような顔をしていたにちがいありません。私の考えていた世界と、ぜんぜん別の世界のことを、先生は言われたのです。先生は、私とは別の世界に住んでおられるような感じでした。ポカンとしている私に、


『雀や鳥は、老後の貯蓄もしていないよ!』


こう言われました。私はドギモをぬかれたような気がしました。雀や鳥は給与ももらわず、老後の貯蓄もしていないが、生きているし、死滅してしまわないでいる。そうだ、全く、そのとおりだ、と私の心は大きく動揺しました。その時、


『「道心に衣食あり」 と言ってね、神さまのお仕事をさしていただいていれば、生活には、困らないものだよ!』


と教えてくださいました。「道心」というのは、仏道を信仰する心でありまして、神を信ずる心でもあります。仏・神を本当に信じている者には、衣食は与えられるものである、ということです。

雀や鳥、そしてネズミでも給料ももらわず、元気に生きているのだから、人間が生活に困るはずはない、まして、人間のなかでも、神・仏を信じ、神・仏のお仕事をしている者が、衣食に困るはずはないということです。


微笑をたたえながら、もの静かに私に真理を教えててくださる、先生の御言葉をお聞きしながら、先生から、深い深い信仰を、ジカに伝えられたような感動をおぼえました。

私はまだまだ、神を本当に信じていなかったのだ、と反省しました。神様を本当に信じて、神様のお仕事をさしていただいていれば、生活のことや、老後のことなど考える必要はないので、今、与えられた仕事に、全力をつくしていさえすればよいのだ、ということを教えられました。

職員のなかの一部の人が、私に給料や老後のことを尋ねたのを、私が気にしていたということは、私自身も、その職員の人びとと同じ考えがあったのだ、ということもわからしていただきました。


谷口輝子先生が御結婚される時、これからの生活はどうするのですか、と先生にお尋ねになられましたら、

「そんなこと、僕しらんよ!」

とお答えになったというお話を、輝子先生から直接お聞きしたことがありますが、ただ表面的にお聞きしていた私であったと、わからしていただきました。

先生が、「そんなこと、僕しらんよ!」 と言われたことは、先生の深い道心から出た、御言葉であったので、また、それについてゆかれた輝子先生も、深い深い道心でついてゆかれたのだ、ということをわからしていただきました。

神を求めつづけてこられた、谷口先生、輝子先生の御生活そのものが、道心そのものであることを、『生命の實相』の自伝篇を、再び読ましていただいて、よくわからせていただきました。


「谷口先生は、ただヒタスラに神を求めつづけてこられたので、もし、途中に一回でも、妥協の生活に入っておられたら、生長の家は生まれなかったでしょう」

輝子先生が、このようにお話されたことがありました。

神を求める生活は、決して安易なものではなく、ただヒタスラに、まっすぐに、神をみつめながら歩む生活であります。谷口雅春先生、輝子先生の歩んでこられた道は、本当の道心であったのであります。

谷口先生から、「道心に衣食あり」ということを教えられまして、私は大いに反省し、私の生活の根本的な「心がまえ」を、考えなおしました。


そして、宗教、神を求める者の道を、真剣に歩まなければならない、と決意しました。そして、再び、先生の歩んでこられた道を、もう一度、学ばしていただこうと思い、『生命の實相』の自伝篇を読みなおしました。

このことをとおして、給料や老後の生活のことだけではなく、もっともっと根本的な、私の生活にたいする考え方を、みなおさなければならない、ということを教えられました。

人類を光明化するために、生長の家の真理を説く自分自身が、本当に道心をもった生活をしているか、神に自分を全托しているか、という根本的な「生き方」にたいする反省をさせていただきました。
コメント

神とともに祈る

2019-06-17 02:31:34 | 生長の家

生長の家創始者 谷 口 雅 春 先生


神よ、生きとし生けるものを生かし給える吾等のみおやなる神よ。

わたし自身の本来のものでない願いを、わが胸より去らしめ給え。

わが心を浄め給え。

わが魂の切なる願いのみを願うことが出来るようになりますように ーーー (今日の祈り)。



自分が真に何をもとめているかを知らない人が随分多いのである。

そして自分のものでないものを憧れ求め、それが成就しないからとて嘆き悲しみ、それが成就したからとて図に乗って悪く働く。

ああ迷える人々よ。

『光明法語』道の巻
コメント

神様に対面する神想観

2019-06-03 14:31:20 | 生長の家

徳 久 克 己

昭和23年頃は、谷口雅春先生が、講習会においでになる時、随行をさせていただいたことが、たびたびありました。

当時は、随行員は一人で、飛行機はありませんでしたし、新幹線もありませんでしたので、長い長い汽車の旅でした。汽車の中では、先生と同席させていただき、いつもおそばにおりましたので、私はイロイロのことを質問いたしました。

先生は、いつもニコニコされながら、どんな愚問にたいしても、本当に、深切丁寧に教えてくださいました。ある時、

「先生、私は、どうも神想観を、心の底から好きになれないのですが …… ?」

と申しますと、先生はジーッと私の顔を見つめながら、しばらくして、

『君! 恋人に会う時は楽しいだろう?』

と言われたのです。私はビックリして、「はい!」とお答えしますと、

『恋人よりも、もっともっとスバラシイ神さまだよ。その「神さま」に対面するのが、神想観なのだから …… 』

と言われました。

「『神さま』に対面する。『神さま』にジカにお目にかかる。それが神想観なのか?」


はじめて、私は「神想観」の本当の意味を、理屈でなく、教えていただいたような気がしました。しかし、その「神さまと対面する」という実感は、私にはまだありませんでした。

先生は、それだけを教えてくださいまして、「神想観は、人生で最も楽しい時だのに、それが好きになれないとは、不思議だね!」とでも言われるようなお顔をして、私をみておられました。

その当時、先生は、一日に7回以上は、神想観をしておられましたので、私が神想観を好きになれない、と申しあげたのが、不思議に思われたような感じでした。


昭和17年頃、今はなき吉田國太郎本部講師が、岡山へ来られて、「三度の食事はしなくても、神想観をせずにはいられない」と言われたことを思い出しました。

吉田講師は、神想観を本当に楽しんでおられたのであり、神想観の正しい意義を、実感として知っておられたのだと、今更のように思い出されます。

当時、本部講師は「講演会」と「光明講座」をして日本国中まわっていましたが、私には、その区別がよくわかりませんでした。ところが、吉田講師は、

「講演会は講話だけだけれど、光明講座は講話だけでなく、神想観の指導をするので、神想観があるか、ないかでは、全然ちがうのですよ!」

と、強い口調で私に教えてくれたことを、よくおぼえています。


神想観をするかしないかで、そんなに違うものかしら、ぐらいにしか私にはわかっていませんでした。

「生長の家に入っても、神想観を実修している人と、していない人とでは、心境の進歩がちがう」と、谷口先生は教えておられます。「神」を、そして生長の家で説く「実相」を、体得するために、神想観は大切な大切な「行」であることを、私もダンダンとわかってまいりました。


ある時、先生は、

『神さま! 神さま! 神さま! と三回、神さまをお呼びすると、涙が出てくるんだよ」

と、目をうるませて、私に言われたことがあります。

その時、私は「先生は、ほんとに『神さま』を愛しておられるのだ」という、深い深い感動をうけました。

「神を信ずる」ということは、「神を、心の底から、いや魂の底の底から、無条件に愛することだ」と教えられました。


そして私は『生命の實相』の第8巻の「神想観」のところを、読みなおしました。

神想観をする時に歌う「招神歌」に、「かみよびうた」とフリガナをつけておられることを、再発見しました。なんの気なしに「かみよびうた」と言っていましたが、漢字では「招神歌」と書いてあります。神想観をする時、まず「かみよびうた」を歌って、神さまをお招きするのだ、そして「神さま」と対面するのだ、と気がつきました。

それから招神歌をうたう時には、「神さまをお招きする」という気持ちで、真剣にうたうようになり、そして「気合い」をかけて、

「われ、今、五官の世界を去って、実相の世界に入る。ここが、このまま実相の世界である」

と念ずる言葉の重要さに、気づかせてもらいました。
コメント

封建的存在たらんとする政党

2019-05-30 22:54:18 | 生長の家

生長の家創始者 谷 口 雅 春 先生


騒然と政党が争っている間に国民は飢えて行くのである。

騒ぐ政党に投票した国民は今悔いているであろう。

黙々として実行するもののみが本当に力となるのである。

吾等は黙々として日本国民のために祈る。毎日毎日が神想観であり、祈りである。

魂の低劣なるものにとっては多勢の甲論乙駁政治は結局何物をも建設することなくして日が暮れるのである。

衆愚の政治は必ずしも民主主義の政治ではない。

日本に東條のような独裁者が出たのは東條も悪いが、衆愚の民衆の政治の収拾すべからざるものある間隙を縫うて、一人の独裁者があらわれるのである。

日本の民衆はもっと教育せられねばならない。

政党の立会演説の放送をラジオで聴いたが、静粛に相手の言論をきいて、正々堂々と反駁する聴衆よりも頭から感情で相手を叩き伏せようとする妨碍の野次が多いのである。

かかる野次的存在は民衆の正論を、喧噪と云う暴力をもって妨碍しようとするものであるから、民主主義の敵なのである。

かかる暴力者なる野次を、聴衆が自治的に退場せしめる位の見識が出来て来なければならない。

智慧に導かれずして、群集心理による附和雷同をもって、人民の声だと思いあやまるのは危険である。

附和雷同者を煽動すること巧みなる群衆指導者はそれが何党のものであろうとも、東條と同じき独裁指導者となるおそれがあるのである。


今、日本に必要なのは、雷同者を操縦する一人の強力なる煽動政治家ではない。

国民に甘い政策を見せびらかして、当選するや国民を益する何事をも為さずに、政党の地盤争いや、政権争いに浮身を窶している党人ではない。

政治家は党人であることを忘れ、徒党の力を利用して自己拡張又は自派拡大する慾望を捨て、先ず、自己を捨て、国民を真に救う実践をすることを行わなければならないのである。
コメント

仮面愛国者と聖経『天使の言葉』

2019-05-29 23:28:25 | 生長の家

生長の家創始者 谷 口 雅 春 先生


治病の奇蹟は事実であるから吾々はその方面からは崩壊せしめられなかった。

しかし吾々の宗教の濫觴時代は既に満州事変の出発と相前後し、極右翼の国家主義者のテロ的恫喝の横行している時代でありまして、吾々の神の啓示による教の歌『天使の言葉』に「吾れ個神を善しと云ふこと勿れ、形に現れたる神を讃むること勿れ」との一句があると「これは反国体的宗教である。日本天皇は現人神であらせられて、形に現れたる神ではないか、それを『讃むる勿れ』とは何事であるか。こう云う反国体的宗教は弾圧しなければならぬ」とか云って脅喝にまいります。

まことに真理を知ろうとするのでは なく、揚げ足取りで当時の国家主義を看板にして恫喝によって金を儲けようとする『仮面愛国者』が頻々として来訪する。


そう云う時代に、此の生長の家が万教調和の教えとして、世界各国の宗教と相親善し、日本の神道とも調和し、愛国者の現人神思想と調和するためには、天皇信仰を表に標榜して、そう云う『仮面愛国者』のテロ的恫喝を避けるほかには致し方なかったのであります。


丁度その頃、文部省で宗教団体法と云うのが制定せられ、教義を書いて提出せよと云うことになり、その教義が官の御心にかなわなければいけないので、教義の冒頭に吾々は日本国体と合致するように、天皇信仰のことを表示したのであります。


この「吾れ個神を善しと云ふ事勿れ、形に現れたる神を讃むること勿れ」と云う『天使の言葉』の一節は、前後の関係から見ても天使と云う形に現れたる個神〈天使自身〉を讃めてはならない。神は普遍なる一神であると云う意味でありますが、そう云う意味の詩篇の一節にさえもテロ的恫喝のくる仮面愛国者横行時代には色々の対応策が要る、此れが観世音菩薩三十三身のはたらきであります。


生長の家の教えがどんな教であるかは、その教の主著『生命の實相』の巻頭の神示を読むだけでも明になるのであります。
コメント