VANNON32のブログ  『生命の實相』哲學を學ぶ

谷口雅春大聖師の教えを現代に生かす

神と倶に生活するには

2015-06-19 21:18:22 | 生長の家

          生長の家創始者  谷 口  雅 春 大聖師


 こんな話がフェンヰック・ホルムス博士の本に書いてある。

 二人の女生徒が学校へ通学していた。 学校のすぐ側まで来たときに始業のベルが鳴りはじめたのである。 二人は信仰深い少女であった。 「学校に遅刻しないように跪いて神様に祈りましょうよ」 と甲の少女は云った。 「そんなことをしていては駄目よ。 一所懸命走りながら神様に祈りましょうよ」 と乙の少女は云った。

 読者はどちらが正しい祈りであると思われますか。 それは筆者が回答するまでもなく、自明のことであるのである。

 こんな簡単なことなら誰でもわかることだけれども、実際生活の難問題に直面すると、その原理がわからなくなり、時々途方にくれる人が出て来るのである。

 子供の病気の場合でもそうである。 医者にもかけず、何らの手当も施さないで、ただ気が顛倒して祈ってばかりいるような両親は、丁度甲の少女のやり方に属するのである。 それでは遅刻する恐れがあるし、気が顛倒しているので、その反映として神との波長が一致せず、処置を誤るのである。

 神は全能である。 しかし神の働きたまう出口はただ一箇所のみには限られていないのである。 神は医者やその他の人を通して働きたまい、水を通しても、食物を通しても、薬剤を通しても、また自分自身の努力を通しても働きたまうのである。 吾々は神の働きの出口を自分の我の考えで或る一ヶ所又は数ヶ所に制限してしまってはならないのである。


 しかしこのような心の態度は、‘あれ’にも頼り、‘これ’にも頼り、心が動揺して、確乎とした信念が持てないようになる恐れがあるのである。 時として医者に頼って神に頼らず、薬に頼って神に頼らず、自力の雑行雑修に頼って神に頼らず、自力の雑行雑修に頼って、神に信頼しないようになる惧れがあるのである。 そこにこのような心的感度の欠陥があるのである。 その欠陥を是正するには、どうしたら好いだろうか。

 それは走りながら祈ることである。 祈りは神との一体感を深め、何時、何処に、如何になすべきかの啓示に対して人間を敏感ならしめるのである。

 祈りながら、神の催しによって 「何を為せ」 と内部から感じられて来ることはそれは形の上から見れば、医療であろうと、物理療法であろうと雑行雑修のように見えようとも、それを通して神が働き給うのであるから、その働きにまかせることは純一無雑に神に全托したことになるのである。

 一つでも神の 「是を為せ」 と云う啓示を、自分の我で止めてはならないのである。


    『白鳩』誌  昭和25年9月号 巻頭言

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