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墾道

「きっとこの先に何かがあるんだ」

皇帝は俺のもの!

2017-05-04 16:58:26 | Weblog

「幻の桓王朝」

五胡十六国時代のことである。

皆さんに馴染みのある三国時代の後の話である。蜀と呉は(曹操の)魏に征服され、その後司馬仲達の晋王朝になる。晋国も司馬王朝は乱れ、分裂し、西晋が亡くなり、東晋が辛うじて存続する。

しかし、皇帝はなぜか皆20代で若くして死んでしまう。その中で皇帝の娘婿である桓温(かんおん)が出世し、大司馬になる。哀帝が死んだあと、その弟の司馬奕(えき)が即位するのですが、桓温の力は絶大です。皇帝を廃してしまったのです。皇族の長老、司馬昱(いく)は52才で温厚な人柄でした。彼を即位させました。簡文帝です。桓温はこの簡文帝から禅譲を受けて、帝位に即くつもりでした。簡文帝自身も、自分の即位の前提であることは知っています。即位して11カ月で亡くなりました。簡文帝は臨終のとき、「少子(皇太子司馬昌明は十歳)輔(たす)く可(べ)くんば之(これ)を輔けよ。如(も)し不可ならば、君、自ら之を取れ。」という遺詔を桓温宛に作りました。これは劉備が諸葛孔明に与えた遺詔とまったくおなじです。ところが侍中の王坦之がこれを破り捨てました。弱気になっている簡文帝が、これは天運だから仕方がないと言うと、王坦之は、「天下は宣・元の天下なり。何ぞ之を専らにするを得ん。」と反対しました。(宣は宣帝司馬仲達、元は東晋元帝司馬睿(えい)のこと、彼らのはじめたもので、いくらその子孫でも、あなたが勝手にこれを他人に譲れませんよ、という意味である。簡文帝は改めて「家国の事は一に大司馬に稟(ひん)し、諸葛武侯、王丞相の如くせよ。」一切は大司馬桓温にまかせるが、それは諸葛孔明や王導のようにせよ、という条件がはいっています。自ら取れ、と言われた諸葛孔明は、けっして簒奪していません。王導もしかり。桓温の簒奪は、あぶないところでとめられました。これで十歳の司馬昌明が即位し、幼帝を吏部尚書の謝安と侍中の王坦之が補佐しました。これが孝武帝です。当の桓温はもう還暦を過ぎていて、諦めたのでしょう。簡文帝におくれること、丁度1年で死にました。

さぞかし、桓温は目前にして皇帝になれず残念であったことでしょう。それにしても簒奪することは戦争せずに天下を取るのですから、手っ取り早く、民にも負担がかかりません。考え方によっては無能な皇帝よりも優れていれば有能な皇帝の方がましかもしれません。新(前漢)の王莽、魏(後漢)の曹操、晋の司馬仲達、唐の武則天らと比較してはいかがでしょうか。但し、王莽は有能とは言えず、邪な輩ですが。優れたものが帝位を取ることは大事です。国家最高権力者を無能者に委ねることは絶対してはいけないこと。今の民主主義にも当てはまることだと思います。が今は選ぶ国民がもっと賢くなることももっと大事なのかもしれない。~中国の歴史「陳舜臣」を参考。


五右衛門風呂とドラム缶

2017-04-08 08:24:19 | Weblog

アルバイトでウォーキングスタッフをしている。バスツアーなのでマイクで山の話をする機会がある。余り専門的な話ではウォーキング参加者にはピンとこないと思われる。参加者全員が山に興味があればよいのだが。と考えてお風呂の話なら聞いてくれるかもと。~今、我々はユニット風呂で簡単に沸かせる。都市ガスなので早く沸かせる。私の子供の頃は我が家は五右衛門風呂である。兄弟5人いたが、男兄弟3人が風呂当番であった。新聞紙と小枝に火を点けて、薪に火がともると頃合いを見て、石炭をくべるのである。今の子供にはちょっと難しいかもしれない。釜の蓋を開けて、手を入れ、湯加減をみる。湧いたら、若いものから入るのだ。一番いやなのは一番手である。私は末っ子なので大体一番手である。最初は熱い。水で薄めてよい湯加減にするにはかき混ぜる。余り水で薄めすぎると石炭をくべなければいけない。また底板を沈めて定位置にはめ込む。入れば釜の中なので壁(鉄製)に寄りかかればあっちち!。そんなことで色々と大変であった。かれこれ50年前いやもっと前かも!ということで風呂沸かし、入湯もらくではなかった。いまはスイッチひとつですむ。暖房、乾燥もできるし、シャワーもある。温水ももちろんでる。~昔の登山は山小屋に風呂はない。下山し、温泉にはいるまで汗臭いままである。温泉がなければそのまま家路につく。くさいのが山男の特許である。嫌われるのは当然である。でもある所には風呂があった。ドラム缶のお風呂である。一番記憶に残るのは1979年5月19日に西丹沢に入った時である。橋本駅からバスを乗り継いで、東野につく。長者舎(ちょうじゃごや)山荘を過ぎ、神の川ヒュッテに着いた。ここで宿泊するのだが、お風呂があるのだが、ドラム缶のお風呂であった。私は慣れていたが、仲間はどうであったのか。うまく入れたのか。山の中で静寂の中、こんな素晴らしいお風呂に入れたのは最高であった。今でもあるのかな!~ドラム缶はまだ役に立っている。三頭山を登るときに奥多摩湖をわたるのにドラム缶の橋を通らねばならない。いまは中々奥多摩に行く機会がないが今も健在だろうか!「ドラム缶」ひびきがいいではないか!またどこかでお世話になるかもしれない。お~いドラム缶!私はドラ息子だったがドラム缶はすきだ!

 

 


関白とは!

2017-03-05 09:30:51 | Weblog

関白という官名は日本の歴史によく出てくる。有名なのは秀吉関白である。関白とは天皇が幼少の時に摂政、成人後は関白である。天皇を助ける公家にしか任官されない。秀吉は公家へ養子に行き、名前だけを五摂政家から借りたことになる。本来、百姓の子であった秀吉にとっては最高の栄誉である。ようするに天皇家の傀儡政権なのである。所でこの関白とは、中国から来ている。古代中国の前漢時代である。秦を滅ぼした劉邦が打ち立てた国家が漢である。漢帝国の帝位を守ることは取り巻きの力が左右する。漢帝国は劉邦の妻、呂后に簒奪される。一時、宮廷内は泥沼の様相であるが、戦争はなく、国内は安定していた。呂后親族の政権は崩れる。その後、五代帝王の武帝で国家は安泰となる。国外の匈奴、砂漠の国家にも勢力を伸ばす。活躍したのが張騫である。月氏、大宛、烏孫等の漢周辺国家を偵察し、その報告により、積極的な外交が進められた。輝かしい漢の時代でもあった。ところが武帝が亡くなると、取巻きの争いが起きる。帝王の外戚である霍光が実権を握る。そして新しい帝王を探して来た。民間に住む無冠の人間で皇室との微妙な身分にある、劉病已(りゅうへいい)である。18才の青年である。大将軍の霍光は新しく即位した宣帝に対して、稽首帰政した。長く頭を地につけ、うやうやしく政を皇帝に奉還することを願い出た。自分の野心も異心もないことを、示そうとした。宣帝はこれを受けないで、「諸事は皆、先に光(霍光)に関(あずか)り白(もう)し、然る後に奉御する。」ということにした。どんな事でも、皇帝に奏上する前に、霍光に伝えねばならない。皇帝の専制放棄に見えるが、あらゆる責任を霍光におしつけたことにもなる。まだ力のない賢明な宣帝の判断でもあった。いわゆる関白とは「漢書・霍光伝」の文章に由来するものである。日本では陽成(ようぜい)天皇のときに、摂政太政大臣藤原基経(ふじわらのもとつね)が、天皇御覧の前にすべての奏文を見たことから、その官名が考えられたと言われている。~参考:陳舜臣「中国の歴史」

摂政であろうが関白であろうが、国を動かす人間は私利私欲によらず、万民を愛し、平和な国家を運営すればよいのではなかろうか。いまの天皇制は事実的に悪い意味では傀儡された制度である。天皇が必要かどうかは別として、関白首相に物申す。この地球での国家作りは、地球規模で考察し、目先の外交にとらわれず、思い切った政をすること。よきブレーンを持ち、よく見極める力も必要。すべては人間力なのかも。歴史に残る人間になる前に、人間力を磨いてはどうだろうか。そして願わくば、平和な国家づくりの先導者であってほしい。


小池都知事は武則天・皇帝になれるか!

2016-10-14 09:05:19 | Weblog

隋が滅び、唐という大帝国が出来た。李世民という英雄が成し遂げた国である。李世民の側室に上がった武照は頭の良い、美人さんである。武才人(武照)は李世民の子、李治(後の高宗)に近寄り、李世民亡き後は、高宗の妻となり、実権を握り、李王家の親族をことごとく粛清する。出来の悪い官僚も左遷、優秀な官僚を登録する。子の睿宗、中宗の傀儡皇帝をうまく使いこなし、初めて中国の女帝となる。唐から周と国号を変えた。思い切りのよい、政治手腕のある小池知事は絶大な都民の支持を受けている。今までの男性都知事があまりにも情けない。強い指導力をうまくコントロールして権力を使い分ける武則天皇帝(皇太后)とどこか似ているような。これからも都民の為に思い切った政治をしてもらいたい。その先は国政に進出するのか、どこまで進撃するのか注目である。


沈魚落雁閉月羞花

2016-04-25 16:37:45 | Weblog

美女の形容である。魚も水底に沈み雁も空より落ち、月はおそれて雲間に姿を隠し、花も羞いてみずからを閉じる。中国の四大美人をまとめて沈魚落雁閉月羞花(ちんぎょらくがんへいげつしゅうか)という。沈魚の件とは西施のこと。落雁は王昭君、閉月は貂蝉、羞花は楊貴妃である。魚も雁も月も花が美人を見て、恥らい、身の置き所もなかったのである。春秋時代、漢の時代、三国時代、唐の時代を代表する美人たちである。...男たちのあこがれの的である絶世の美女。欲をかかずとも、身の回りにはきれいな人がいっぱいいますよ。外見はどうであれ、心のきれいな人も美しいではありませんか。また欲張るようだが、外見も心も美しいと尚更かな。自身には何の権力も金もない、庶民の老いぼれである。酒を飲み夢の中で美人に会いたいものだ!


北宋時代の様子をのぞく

2016-04-09 08:41:14 | Weblog

北方謙三の梁山泊を読み終わり、続きがあるので楊令伝を読んだ。まだ読んではいないがその続きまだあるらしい。岳飛伝である。うすうすこの時代がどう変わるのかも気になる。更に楊家将である。時代は五代十国の北漢に楊業という優れた武将がいた。楊業一族は北漢に見切りをつけて、宋の家臣となる。宋が五代十国時代の終止符を打つ。しかし宋を脅かす国が遼(契丹)である。燕雲十六州を取り戻そうとする宋と遼は壮絶な戦いが始まる。そこで活躍するのが楊業一族なのである。宋は遼と兄弟盟約し、西方の西夏とも君臣関係の和約を結ぶ。宋は落ち着き、官僚の汚職が蔓延ってくる。ここら辺から国家勢力に反発する勢力が出てくる。巨大勢力となったのが梁山泊の百八人の豪傑である。しかし官軍に滅ぼされる。再生したが梁山泊の頭領、楊令が官軍を敗る。そのころ、北方の遼が女真族の反乱で金が建国された。宋は金に攻められ、上皇の徽宗(芸術家でもある)と皇帝欽宗らが連れ去られ、滅ぼされる。激動の時代であった。宋(北宋)は途絶えるが、かろうじて臨安を都とする南宋が出来た。日本は平安時代から鎌倉時代に変わるころである。我々は鎌倉時代に中国の侵略を受けるが阻止した。その中国も金が滅びモンゴル人の元が支配していた。元寇の襲来である。我々の取り巻く環境も目を外に向けると色々と変化があるのである。今の中国、特に漢民族の歴史を振り返ると他民族の支配を受け、苦労していることが分かる。中国と日本、歴史背景から感性の違う民族なのである。今後の日中関係が怖くもあり、楽しみでもある。


別れの酒、でもうれしい酒!

2015-11-03 08:47:26 | Weblog

65才で定年退職した。まさか歓送会をしていただけるとも思っていなかった。Kさんの音頭で前グループの仲間と運用グループと現行グループのリーダーが集まって成田市内で酒盛りをした。プレゼントに銘酒と飛行機(DC9)のプラモデルそして妻にもプレゼントを頂いた。涙が出るくらいうれしかった。集まっていただいた8名にはとても感謝しています。この人たちのことは絶対忘れまい。たかが一人の退職者にこうももてなして頂けるとは幸福者である。会社の方針による不遇な扱いに不満が多い中、人間関係にも行き詰る不信感がくすぶっているところである。ここ数年退職される方はさみしく何もなかったように消えていく姿を見ている。こういう状況なので私も何もなく消える予定であった。うれしい仲間がいたのだと深く記憶にとどめよう。また山岳会(PLAY FELLOW)の山行にはOBとして参加させてもらい。うまい酒を飲みたい。


三途の川から女帝

2015-06-21 16:23:49 | Weblog

先日、甘楽の町を散策してきた。この町のはずれに三途の川がある。国道254号を走ると上州新屋駅付近に三途橋があった。そもそも三途の川とは死者がこの世からあの世へ渡る川である。渡るには船頭さんに六文銭を渡さねばならない。我々の習慣にも死者のお棺に三途の川を渡れるように六文と書かれた紙を入れるのである。お金がないと渡れない、渡りたいときには肌身離さず着ていた服を剥ぎ取られてしまう。地蔵菩薩発心因縁十王経(中国で成立した経典。飛鳥時代に渡来した)の十王の配下に懸衣翁・奪衣婆が衣服を剥ぎ取る役目である。その奪衣婆像を作成した人、つまり行基上人である。三途橋のたもとにある姥子堂に奪衣婆像が安置されている。果たして六文銭の金がないと渡れないのだろうか。そんな話でもしたのだろう。この地に三途の川という地名が残った。奈良時代の行基上人は布教活動のため、この地によっている。この方は仏教を広めるために日本各地を歩いている。仏教だけに関わらず、各地の池や橋、道などを作り、民衆から慕われた。そもそもこの時代に貨幣制度があったのか。和銅開珎があった。日本最初の通貨である。慶運5年(708年)に秩父から和銅が発見された。行基上人はどう庶民に話をしたかわからないがよりよく生きるために蓄えることもおしえたのかも。もうひとつこの人の師匠は中国の西遊記で有名な三蔵法師の教えを聞いてきた人でもある。いかにこの時代は中国と縁があったのかである。三蔵法師は実在の人である。ブッタの国から法典を収めるために危険と苦難を乗り越えてきたえらいお坊さんである。彼は唐の時代で活躍した人である。また同時期に唐から鑑真和尚が6回も難破に会いながら、盲目になりながらも大和の地へ来た人である。残念ながら行基上人がなくなってから日本に来ている。この二人の偉大な僧たちが日本の仏教界の礎となっている。中国では李世民が隋を滅ぼし唐を立てた。日本は高句麗や新羅などへ派兵し、飛鳥から奈良時代へおおきな変貌の時代でもあった。遣隋使、遣唐使を送り、中国とは色々な意味で交流が盛んであった。このころ武則天皇帝が長年の高句麗征伐に終止符を打つ。その影響が少なからずも日本にもある。高句麗の人はバラバラになり、一部の人が日本に来ている。埼玉県に高麗という地名が残っている。子孫が生き延びた場所である。武則天皇帝の孫である玄宗皇帝が寵愛した世界三大美人の一人、楊貴妃がいる。遣唐使で行った阿倍仲麻呂も会っていることだろう。彼は唐の朝廷に仕えた。また李白や王維とも親交があった。「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」と呼んだ句は有名である。彼も暴風雨のため、日本の地に戻れず唐でなくなった。ちなみに武則天皇帝は中国唯一の女帝である。日本では女性天皇問題が落ち着いてきたが、昔の飛鳥、奈良時代には女帝が六人もいた。この時代に男尊女卑などといっていられない。話が広がりすぎました。三途の川から女帝ならぬ女首相が出現するかも!


替天行道

2015-04-02 09:46:06 | Weblog

JALの再生は稲盛さんのお陰で蘇った。稲盛語録のフィロソフィは社員のやる気、会社の正常な経営を導き出した。むかしのJALは一人ひとりは優秀な人が多かったが、本来向かうべきベクトルが一つにならず、気持ちもバラバラ、怠慢な蓄積で倒産した。中国の水滸伝に衰退の宋の国を変えようとする集合体が現れる。湖に梁山泊が作られ、全国から人々が集まる。旗印は「替天行道」である。世の中を変え、正しい世の中にしょうと結集するのである。その精神を書いた小冊子が人から人へと渡る。替天行道の精神の元に人々が集まる。腐敗した政治に対する不満を持つ人と正義心のある人たちが反国家集団を作っていく。梁山泊の行方は成功したのか、やや疑問の多いところであるが、潰れかかった国家、企業に再生となる「生きた小冊子」が役に立つのだと思う。稲盛さんが中国へ招聘されて、企業の建て直しに貢献している。中国は自国の歴史を顧みて、替天行道を行いたいが、共産党一党独裁国家なので、とりあえず企業のあり方について、変革を試みているのだろう。そのうち、国のありようについて矛盾が露呈されることは目に見えている。中国が世界の覇者になるためには、国家を論ずる自由を認め、偏った政治団体を改め、儒教と道教の教えと仏教とキリスト教等の宗教を超えた人間の基本となる精神融合した哲学を基にした国づくりをしてもらいたい。

 


意志ある者よ!

2014-10-23 08:46:43 | Weblog

三国志に出てくる司馬仲達(晉建国の祖)こそ、格好良い男である。世界の歴史でも稀に見る英雄である。

彼の生き方に感銘し、おそらく天性のものであるが、凡人には真似出来ない。強い意志と決断力を持つ、リーダーである。

今の日本に必要な人物である。坂本竜馬も惜しいかな、中途半端で彼のなそうとしたものが途絶えた(暗殺)。

彼の意志は明治維新へ繋がるもののその先の活躍が惜しまれる。

この二人に共通するものはこれである。「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人といえども吾往かん」~孟子。

自分の判断が正しいと確信するならば、反対者が千万人いても闘う。という決意である。部下をうまく使う、人を当てにしない。

先を読み、チャンス到来時に実行する。政治家の皆さんに不可欠な精神だ。今の政治家は金(かね)の亡者が多い!

我々人類規模で何が優先されるべきか考えて診ては如何かな。宗教問題と人種問題と先端技術が果たす意味と混迷する世界でその上にあるべきものが何か考察して欲しい。