「幻の桓王朝」
五胡十六国時代のことである。
皆さんに馴染みのある三国時代の後の話である。蜀と呉は(曹操の)魏に征服され、その後司馬仲達の晋王朝になる。晋国も司馬王朝は乱れ、分裂し、西晋が亡くなり、東晋が辛うじて存続する。
しかし、皇帝はなぜか皆20代で若くして死んでしまう。その中で皇帝の娘婿である桓温(かんおん)が出世し、大司馬になる。哀帝が死んだあと、その弟の司馬奕(えき)が即位するのですが、桓温の力は絶大です。皇帝を廃してしまったのです。皇族の長老、司馬昱(いく)は52才で温厚な人柄でした。彼を即位させました。簡文帝です。桓温はこの簡文帝から禅譲を受けて、帝位に即くつもりでした。簡文帝自身も、自分の即位の前提であることは知っています。即位して11カ月で亡くなりました。簡文帝は臨終のとき、「少子(皇太子司馬昌明は十歳)輔(たす)く可(べ)くんば之(これ)を輔けよ。如(も)し不可ならば、君、自ら之を取れ。」という遺詔を桓温宛に作りました。これは劉備が諸葛孔明に与えた遺詔とまったくおなじです。ところが侍中の王坦之がこれを破り捨てました。弱気になっている簡文帝が、これは天運だから仕方がないと言うと、王坦之は、「天下は宣・元の天下なり。何ぞ之を専らにするを得ん。」と反対しました。(宣は宣帝司馬仲達、元は東晋元帝司馬睿(えい)のこと、彼らのはじめたもので、いくらその子孫でも、あなたが勝手にこれを他人に譲れませんよ、という意味である。簡文帝は改めて「家国の事は一に大司馬に稟(ひん)し、諸葛武侯、王丞相の如くせよ。」一切は大司馬桓温にまかせるが、それは諸葛孔明や王導のようにせよ、という条件がはいっています。自ら取れ、と言われた諸葛孔明は、けっして簒奪していません。王導もしかり。桓温の簒奪は、あぶないところでとめられました。これで十歳の司馬昌明が即位し、幼帝を吏部尚書の謝安と侍中の王坦之が補佐しました。これが孝武帝です。当の桓温はもう還暦を過ぎていて、諦めたのでしょう。簡文帝におくれること、丁度1年で死にました。
さぞかし、桓温は目前にして皇帝になれず残念であったことでしょう。それにしても簒奪することは戦争せずに天下を取るのですから、手っ取り早く、民にも負担がかかりません。考え方によっては無能な皇帝よりも優れていれば有能な皇帝の方がましかもしれません。新(前漢)の王莽、魏(後漢)の曹操、晋の司馬仲達、唐の武則天らと比較してはいかがでしょうか。但し、王莽は有能とは言えず、邪な輩ですが。優れたものが帝位を取ることは大事です。国家最高権力者を無能者に委ねることは絶対してはいけないこと。今の民主主義にも当てはまることだと思います。が今は選ぶ国民がもっと賢くなることももっと大事なのかもしれない。~中国の歴史「陳舜臣」を参考。