NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」を見ているが、主人公は最終的に何になりたかったのか考察してみた。秀吉は優秀な軍師が今後、国が統一されれば、彼が邪魔になる。古代、中国の漢が誕生するときに優秀な軍師、韓信が活躍するが彼の影響が及ばないうちに、抹殺されてしまう。要するに跳びぬけて優秀な人材が脅威になるので劉邦は中枢から遠ざけ、最後は殺すことになる。この後にも漢が滅びる三国時代に魏の国に跳びぬけて優秀な軍師がお目見えする。蜀の天才軍師、諸葛孔明と渡り合えるのも、魏では司馬仲達しかいないのだ。司馬仲達は全てにおいて職務を完璧に済ます。魏の曹操に信頼され、めきめきと力を発揮し、軍師として結果を残す。漢が滅び、魏王国が誕生する。(呉、蜀も王国として独立)。そして五丈原の戦いで宿敵、孔明は病で亡くなり、蜀との戦いも終止符を打つ。司馬仲達に怖いものがなくなった。が魏国にとって、司馬仲達は邪魔な存在であり、政権から遠ざけられる。仲達は病を装い、着々とクーデターを準備する。突如、クーデターは起こし、曹一族を皆殺しにした。魏国は廃され、晉が建国されたのである。官兵衛は人情に厚いが仲達は冷酷である。官兵衛は家督を息子・長政に譲るが、秀吉配下の石田光成の悪知恵に対抗できず、出番がない。そのうち関が原の戦いになり、徳川に政権が移っていく。官兵衛は仲達のように、国を治めたかったのではないかと思料される。官兵衛が隠居の身でチャンスを狙っていたのかも知れない。秀吉の死後、石田光成、徳川家康とどう向き合えるか、秘策を練っていたのかも。司馬仲達に一歩及ばなかったのでは。歴史を振り返ると面白い局面があり、今が今でなくなっているのかも知れない。
あきこ!ペキンはこれからさむくなりますね。
あきこのパパのおかあさん、きょうこさんについておはなしします。
きょうこさんはにほんでにばんめにおおきいしまのほっかいどうでうまれました。
とかちへいやというところです。きょうこさんのおとうさんががっこうのせんせいでしたので
あっちこっちのしょうがっこうにうつります。やまのがっこうだったり、うみのがっこうだったり。
きょうこさんはげんきなこでした。スケートもはしるのもとくいです。
うんどうかいはいつもいっとうしょうをもらっていました。おえかきもおしゅうじもとくいでした。
おおきくなり、とうきょうのがっこうへすすみ、えいごのべんきょうをしました。
そしておおきなぎんこうにおつとめしました。
3ねんごにじじのおよめさんになりました。とうきょうからちばへうつりました。
そしてあきこのパパとけいくんがうまれました。
きょうこさんはべんきょうしておくすりやさんをはじめました。
あきこのぱぱもいっしょうけんめいべんきょうをして、いまのかいしゃにつとめ
ました。
あきこのパパもちゅうごくへうつりました。そしてママといっしょになりました。
きょうこさんもあんしんして、おくすりやさんをやめて、とうきょうのぎんこうへお
つとめするようになりました。
きょうこさんはまちをよくするために、まちのえらいひとたちともおなしもしました。
またきょうこさんはじじといっしょにやまのぼりもしました。
にほんのゆうめいなやま、にほんぜんこくのやまにもいきました。
げんきなきょうこさんですが、いまはびょうきになり、びょうきとたたかっています。
あきこがつくってくれたつるのおりがみをかざって、がんばっています。
あきこもいっぱいあそび、いっぱいおともだちをつくってください。
あきこがちばにあそびにくるのをたのしみにしています。
中国の唯一の女帝である武則天は有名である。日本はもっと古くから女帝がいた。飛鳥時代から奈良時代にかけ、推古天皇、皇極天皇、斉明天皇、持統天皇、元明天皇、元正璋天皇と数多く即位していた。男尊女卑になってしまったのは何時の時代なのだろうか。今、安倍政権では女性閣僚を増やしている。閣僚を増やすことも大事であるが、女性の首相がそろそろ輩出してもよいのかも知れない。但し、人間的に優れ、官僚体制に対峙でき、古い体質の打破できる女性が望ましい。世界に誇れる政治家が日本の女性から出ないものか。
それにしても武則天は昔の儒教一辺倒の貴族階級に徹底的に立ち向かった。頭でっかちの官僚を徹底的に潰したのは爽快である。庶民は平和であれば、誰が皇帝でも良いのである。唐の時代の閣僚は学問、文学が優れていたが、女性に対する差別は強く、李姓(唐の創始)の男子を皇帝にしようと策略するが、ことごとく武則天に跳ね返されたのである。儒教が著しく政治に反映されすぎたのだろう。武則天は仏教を後押しした。道教、儒教、仏教を通して、広く国家の安定に努めた。唐の繁栄は武則天の政治の効果もあり、長く反映されたようである。まずは国民の声を聞くことができた政治家は武則天しかいない。それぞれの案件(裁量)は全て自分で確認する。閣僚に任せきりにしない。そもそも親子何代と政治家をやる操り人形の体質がこの日本を駄目にしてきている。苦労のしらない政治家ほど口が達者で、先の見えない政治を平気でやるものだ。全ては官僚の思うがままである。頼りない政治家の皆さん、命がけで仕事をする覚悟があるのか。先を見据えて、信念を持ち、真に国民のためになる政治をしてください。野党のみなさんへ物申す。党内をまとめられる人間力のある人材を集め、方向性を間違えずに助け合うこと。古い体質の人間はまとめるよりも分裂させることが得意なのでしょう。協力することも大事。特に年配の政治家に多い。無能の党首は居座ることはせず、優れた若手に譲り、後押しする了見をもちたい。そもそも居座る党首は「己(おのれ)」を知らない方が多い。我慢するところはし、緻密に実績を残し、後輩の育成をしつつ、将来の展望像を具体的にできるように頭を切り替えようでは。
女帝・武則天が14才のときに(唐の高宗に)入宮した。美少女で利発な子であった。高宗に寵愛を受けるが、高宗にとって不吉な女として、遠ざけられる。不運のどん底にいたとき、庭の様子を伺った。
春宵一刻値千金 花有清香月有陰
歌管楼台声寂々 鞦韆院落夜沈沈
という蘇軾の漢詩を思い浮かばされる。この中に鞦韆(しゅうせん)という言葉が出てくる。今で言うブランコである。唐の昔から北方の山戎の間で、身の動きを敏捷にする訓練をかねて始まった遊戯であったらしい。我々が子供の頃お世話になった遊戯が昔からあったとは。原百代の武則天を読みつつ、高校の科目のひとつ「漢語」にこの詩を思い起こした。話は戻り、彼女は今の境遇から立ち直ろうと必死にもがく場面でもある。その後、幾多の困難を乗り越えて、女帝の道に邁進するのであった。
中国の歴史に大きく関る人がいる。それも1000年単位で国を変える家柄の人たちだ。隋を滅ぼして唐を建国した李世民。その1000年後に明を滅ぼした李自世。(李自世は建国途上で滅びる、清に変る)。今の中国(2000年代)をいつか李姓の中から大きな変化をもたす者が現れる。必ずしも国内の李姓とは限らない。これからの中国にいつか変化が起きる。
淮陰候韓信。股潜りの韓信とも言われ、屈辱に耐えて、やがて名将となる。彼の生きた世は中国を統一した秦の始皇帝が没後、世が乱れて、各地で群雄が立ち上がったときである。最初、項羽に従ったが、彼の業績を認めてもらえず、ここを去り、旧友の伝手(つて)を使い、項羽の敵になった劉邦の家来になる。見る見る頭角を現すが、「股潜り」の韓信に全幅の信頼を受けるのに時間を要した。が彼の戦歴には敗戦がない。連戦連勝の将軍である。項羽と劉邦の戦いに目途を突けるのがこの将軍韓信である。韓信は項羽を取り囲み、かの有名な四面楚歌の件(くだり)となる。項羽はわずかな武将を引き連れて、揚子江沿岸の烏江で自殺する。ここで戦国は終わり、劉邦が作った漢が出来上がる。しかし劉邦の妻、呂后は韓信を嫌っていた。呂后からの怨みを聞き入れられたのか、韓信は斉軍の兵権を奪われ、項羽のかっての根拠地楚は荒れ果て、徴兵が出来る状態ではない楚王に人事異動をさせられた。-狡兎と死して、走狗にられ、飛鳥尽きて、良弓蔵められ、敵国破れて、謀臣亡ぶ-(呉越戦争ではんれいが越を勝利に導くものの越王に亡ばされるとことを悟り、越王の元を去る)の例えを韓信の食客に諭されるのだが、聞き入れなかった。そして最後に呂后によって殺された。「我、天道を歩めり。恥ずかしきことなし!」という言葉を残して、36才の軍事天才の首は刎ねられた。・・・近隣の国家にも似たような事態があるのではないかと思う。人の心とは恐ろしい、人を信じるのも難しい。昔も今も変らない。国家が安定すると腐敗が始まる。誠に困ったことである。
上坂冬子の巣鴨プリズン13号鉄扉を読んだ。「国敗れてつみ人死ぬる身は世界平和の杭となるなり」と記し、処刑された片岡正雄曹長の句が頭に残った。上官の命令で捕虜を処刑したのである。もちろん裁判の結果、情状酌量もなく裁判官の一方的な判決である。仏印で敵機が不時着して、現場付近でゲリラ化した。住民に危害を与えているという情報により、鎮圧部隊が派遣された。戦闘の結果取れえられた捕虜は負傷兵(治療されて帰国)を除く5名を処刑した。実際に携わった元日本兵が全員、死刑にされたのである。これらの人はBC級戦犯として処分された。そのうちの一人片岡曹長は若い妻を残して、日本の平和を祈り、犠牲となる覚悟を決めた。死刑と無期懲役では雲泥の差がある。A級戦犯で生き残った人もいる。BC級戦犯の人に本当に責任があったのだろうかと!それにしても戦争を絶対に起こしても起こさせてもならない。この本をもっと若い人たちに読んでもらいたい。
秦の始皇帝の相国(大宰相という意)である。陽翟の商人の子として生まれる。少年時代に放浪の旅に出され、災難(戦に巻き込まれ、奴隷になるなど)に出くわしながら、それを乗り越える。またその歴史に残る人々に会い、儒教を学び、法家など幅広く知識を会得していく。秦の宰相・魏冄の後ろ楯により更に事業は拡大する。彼の天性の勘で趙国に人質となっていた秦の昭王の孫の子楚をみて哀れに思い、奔走して帰国させる。その間に呂不葦の妾を子楚が譲り受け、生まれた子が大子政(後の始皇帝)である。彼の人生は一変し、秦の宰相となる。中華統一に向けて着実に進む。武将・蒙驁を使い、陥れた邑を徳を持って管理していくのである。しかし荘襄王が亡くなり、大子政が13才で秦王になる。この秦王の性質には棘があり、成人すると善政する呂不葦に対して、不信感を抱くようになる。呂不葦を宰相から罷免し、李斯(焚書坑儒)や韓非などの法家思想家を使い法治主義による天下統一へ進む。呂不葦は追放され河南の封地へゆかされたが彼の人気は絶大で、訪問する諸侯の使者や客はあとを絶たない。秦王政は呂不葦の実力を恐れ蜀の国へ移すよう命ずる。呂不葦があらわした呂氏春秋を秦王が理解できないことを悲観したのであろうか。彼は毒を飲んで死んだ。彼は儒教、道教、法家の良いところを摂り、善政し、徳をもって人と接してきた。紀元前の話ではあるが、我々は学ぶところが多い。