中庸

中国の春秋時代に「中庸」という考え方が孔子の論語から世間に広まった(?)。極めて中国的な思想の根本になっていると思われる。中国人の物事の考え方は我々日本人とはちょっと違う所がある。大陸的なおっとりした性格が形成されているが他民族に支配されるという怖さも知っている。その中で儒教や道教、仏教が入り混じる。それぞれの思想や宗教が中国人の長い歴史から中国的な生活感あふれる思想が定着した。それが彼らの「逞しさ」として理解できそうだ。...なんとなく今の中国を理解するのに都合のよいこじつけかも。
本題にもどし、ギリシアでも中国の春秋時代と同じ時期にアリストテレスが善を説明するのに「中庸」という言葉を表現する。欲求について過ぎる点と不足する点の中間に「中」がある。過ぎる点Aと不足する点Bをひとつの線として、その中点をMとする。そして理想とする価値は半円ABの頂点Cにある。但し、欲求の種類、程度によってきれいな半円でなく、楕円であり、その頂点Cがずれる場合もある。そうするとCに対応するMはかならずしも中点ではない。数学的な中点を目指すものではないので、我々にとっての「中」が必要なのである。よって欲求の行為を選択する習性が作られれば、それが卓越した習性的徳である。人間的善を模索する上でアリストテレスはこう展開していた。なるほど難しいけど「中庸」って良いのだと分かったつもりになった。
でも中国人に持ちあわせている中庸とはなにか違う感じがする。それは私が日本人だからなのかもしれない。早く言えば「程々に」と思われるのだが。
でも政治にしても、我々の生き方にしても「中庸」は程度の差はあるが必要な事だと思う。
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