討論の広場

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「語らない」語り

2006-11-08 23:09:10 | Weblog
「語らない」「語り」
 この間、「ガンダーラ映画祭」にいってまいりました。
そのなかで、「私の志集300円」という、路上志集売りのドキュメンタリーを見ました。
概要については以下のHPを参照してください。
http://www.imagerings.jp/gandhara_1.html#watashinoshisyu
この作品、実は本人の了解なく隠し撮りしているのです。監督自身も何度も「撮影(取材)していいですか?」と聞くと、「20年間このスタイルでやってきたので、そういうことは一切お断りします」と返答したのです。
しかし、女の詩のなかにでてくる「私は、路上に立ち続けることが花であり、みなを花になって見続けたい」、ということばから、監督は「あえて」隠し撮りという手法をつかって彼女を撮影していきます。
彼女自身の詩は「彼女」を語っているのです。
 そこで思ったのです。対象者にとって「語らない」、路上に立ち続けるということがあえて「語り」になるのではないかと。
 この間の日本社会学会において山田富秋先生がガーフィンケルの48年の草稿からというテーマで発表されていました。
 そこでの中心的な話題は研究者自身がいかに「主観-客観」図式から開放されるのか。ということ。でした。それをガーフィンケルは60年にもわたり苦悩し続けたと。
 聞き取り調査の研究者側の意見としては、お互いの「相互理解」あるいは「相互了解」が成立して(いや、成立していると「あえて」、研究者が「主観的」に思って)データとして研究という「場」だされると思うのです(と僕が勝手に思っているのかもしれませんが)
 分析する場合も同じです、いかに客観性?というか、いわゆる「科学」という土俵にいかにのせるのか。
そこからへんの苦悩はお互いの「相互理解」「相互了解」(これもあえていうと、研究者側の主観的な問題と絡んでくると思うのですが・・・)があって成立、解明できると思った(いた?)のです。
 このドキュメンタリーは、その「相互了解」をとっぱらった形で行われたある種斬新な調査手法の一つではないかと思ったのです。
 ただ、私の無知さゆえに「そういうデータだってあるよ」といわれたらそれまでなんですが・・・。
ただ、こういう調査手法は、山田先生のことばを借りるのであれば「行為者たちはワークシェアリング(相互行為には、行為者が共同で行う作業が伴っており、それを通して相互に理解可能な世界が構築される)のかたちで、相互行為の内容を相互に構築していく」という実践を行った一例であると思ったのです。
ただ、新宿西口で立ち続けることによって行われる彼女なりの「アイデンティティ」。詩集によって語られる語り。そして、そういう全く「語らない」存在に対していかに社会学者が「語る」存在として浮かび上がらせるのか。(私には十分彼女が「語る」存在として浮かび上がっている作品になっているとは思いますが)素朴な疑問というか、考えさせられる作品になっていると思います。
 色々と雑文ですが、かなり斬新な作品だと思いましたので、HPにUPさせていただきました。

吉崎一