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「浦島説話」を読み解く

「浦島説話」の時代を生きた古代人の人間観を歴史学、考古学、民俗学、国文学、思想哲学、深層心理学といった諸観点から考える。

易の時間論(クロノスとカイロス)

2009-11-03 12:21:14 | 深層心理学
「易の時間論は、どのような宇宙観・自然観と結びついているのであろうか。そしてそれは、今日において、われわれに何か意味のある重要なことを教えてくれるのだろうか。問題のポイントは二つある。一つは、時間と空間の関係がどのようにとらえられているか、ということである。そしてもう一つは、人事と自然、つまり人間界と自然界の関係をどのようにみるかということである。・・・易の卦は本来、人事と自然の両方を占うという基本的性格をもっているからである。時間―空間の関係から考えることにしよう。これは神学者のポール・ティリッヒによって知られるようになったことであるが、古代ギリシャには時間について二つのちがった見方があった。一つはクロノス、もう一つはカイロスである。クロノスはふつういう意味の客観的な時間つまり物理的時間である(ギリシャ神話では、クロノスChronosは農業神で、季節の変化を司っている)。われわれは時間を知ろうとするとき、外界の物理的状態の変化を手がかりにする。たとえば、太陽の位置がどれだけ変わったか、時計の針は今どこを指しているかといった感覚的に認識できる空間的事物の状態を観察して、どれだけ時間がたったかということを知る。これは時間の量quantity(数量的に表現できる時間の長さ)を測っていることである。科学が自然現象の性質や法則を知ろうとするときには、こういう客観的な時間を用いる。ベルグソンは、このような時間を「空間化された時間」である、と言っている。彼がこういうことを言ったのは、過去―現在―未来と流れる時間は、もともと心が記憶や想像を用いて感じるものであるからである。その意味では、過去と未来はわれわれ人間が設定した区別であって、心と物を分けて考えるかぎり、外界の物質それ自体の中にあるわけではない、と考えなければならない。・・・身体の感覚器官だけでは過去や未来を知ることはできないからである。ベルグソンは、この場合、心から分離された身体の存在の極限状態として「純粋知覚」を想定したのであるが、逆に、身体から分離された心の存在の極限状態として、「純粋持続」duree pureを想定する。それは、現在の中に過去と未来が織りこまれて流れているような(心の)時間である。心理学的にみれば、これはユングが考えた意識―無意識の構造と同じである。・・・カイロスKairosとは何を意味するのか。・・・クロノスの時間が物に即して数量化される量的時間であるのに対して、カイロスの時間は質的であって数量化できない。それは、主体が心において感得する時間である。さしあたり、心理的時間といってもいいであろう。しかし、おそらくそれは単に心理的な時間にとどまらない。中国医学の伝統的見方では、心と身体のはたらきはー生きているかぎりー分離できないからである」
(湯浅泰雄 共時性の宇宙観―時間・生命・自然― pp137~141 人文書院 1995年)

湯浅氏は「易の時間観がカイロスの時間にもとづいていることは明らかである」と指摘したうえで、「中国の格言に「人ハコレ一箇ノ小天地ナリ」というように、小宇宙としての人間は大宇宙のはたらきと調和して生きるところに、その本来の姿がある。易は、人間は自然の内部にいて、そのはたらきを受けることによって受動的に生きている、という人間観に立っている。言いかえれば占いは、人間が自然の内部にいて、そのはたらきを受けて生かされている存在であるから可能になるというのである」と語っている(p142)。
「浦島説話」を伝える始原の三書に共通して看取される神仙思想は道教の中核をなしている。道教は、道(タオ)の不滅と一体になることを究極の理想としている。それは易でいう陰陽合一の太極である。不老不死の神仙なる観念は、そこに根ざしている。「逸文」にみえる「意等金石、共期萬歳、何眷郷里、棄遺一時」という箇所の「一時」は「たちまち」「一瞬」といった意味に解釈されている。しかし、この説話が易の哲理を背景にして成立しているとみる立場からいえば、「一」なる時と解する。男女交合の性的モチーフを陰陽統合の太極の象徴表現とみる根拠でもある。
易の哲理に通暁していた馬養は、決して数量化することなどできない質的時間としての象徴表現として「一時」と記述したと考える。「一」なる時は、現在・過去・未来が未分の状態として溶け合っている、たましい(Psyche)が感得する聖なる時として解せると思うのである。

浦島説話研究所