「自然界の現象は原則として説明可能で、超自然的な力のしわざではない。観察や実験を通じて規則性が見いだされ、いろいろな仮説が生まれる。不十分な仮説は論破されて退けられる。科学的な知識は当初は仮のものだが、試行錯誤を繰り返して、しっかりしたものになる。科学者は、常に仮説に対して異を唱え、議論しなければならない。英国王立協会のモットーは「誰の言葉も額面通りに受け取るな」。科学のよるべはその道の権威の言葉ではなく、観察と実験による実証なのだ。・・・」(ポール・ナース英国王立協会会長の言葉を引用①)
「自然界の現象は原則として説明可能で、超自然的な力のしわざではない。」とそれに続く表現には、今はまだ未解明な謎として残されている問題があるとしても、世界は科学的に掌握することができるはずであるという、科学と科学論理に対する深い信頼が汲み取れる。「原則として」という言葉を添えながらも「超自然の力のしわざではない」という断定的結びに科学信奉ともいえる揺るぎなき信念を思う。
科学的根拠の裏付けのもとに一般化・普遍化をめざすことが、近代の学問に通底する基礎理念といえる。科学的実証主義への信頼は、「客観性」「再現性」が担保されるところにあり、科学信奉の根幹をなしている。科学の成果は、常に目にみえる形で万人が共有・享受することができる。こうした価値尺度が近代社会の成立基盤そのものの土台になっている。
それでもなお、自然界には、今も未知なる謎が数多存在する。未知なる謎は、「超自然的な力」という表現と関連づけることができるかもしれない。一つの未知なる謎は、科学的解明を経ることによって「超自然的な力」との結びつきが引きはがされていく。
問題は、科学論理の範疇から零れ落ちる現象にある。
たとえば、臨死体験時の体外離脱という心的現象がある。臨死体験時に体外離脱(意識が肉体を離れる経験)をするという報告事例は多い。『臨死体験9つの証拠』(著者は医学博士のジェフリー・ロング氏)によれば、臨死体験者(613人)への聞き取りに対して、75.4%が体外離脱経験をしたことが報告されている②。体外離脱という心的現象には、民族や宗教といった違いを超えた普遍性(客観性と再現性)が認められることが知られている。ところが、「臨死体験」「体外離脱体験」を科学論理のもとに把握することには困難が伴う。人間の心が体験する夢や宗教経験、臨死体験、幻視、幻覚といった類が科学の範疇に収まり難いのは、そこでみられる心的現象は、あくまでも個人の内的な体験にとどまるからで、科学的な検証が困難なのである。臨死体験時にみられる体外離脱現象が広く国境を横断する普遍性を獲得しているとしても、科学論理に根差した「客観性」と「再現性」を確保する手立てがないのである。実験と称して人を人為的に臨死状態に陥らせることなどできない。そもそも、現段階では「臨死」の科学的定義すら厳密に定まってはいない。こうした現象は個人が偶然遭遇するもので、観察は患者の体験後に聞き取ることによってのみ可能であり、同時に共有することは不可能だからである。両者の客観性と再現性とは、性質を異にするのである。
「浦島説話」を伝える『丹後国風土記』「逸文」で、主人公は目を閉じさせられて異界へと赴く。現世に戻る時も目を閉じさせられる。異界は、視覚などの五感を通しての認識が困難であることが暗示的に示される。「逸文」が伝える異界描写は、深層心理学の知見に照らせば人間のたましい(Psyche)の内的体験として考察の対象になる。始原の三書が共有する「性的モチーフ」は世界的にみられる神話素で、ここに、この説話の宗教心理学的な主題、時代を超越した普遍的要素を汲み取ることができるのである。人間のたましい(Psyche)の内的体験という意味において、この説話は今現在の心理学的研究課題となるのである。
「浦島説話研究所」