「浦島説話」を読み解く

「浦島説話」の時代を生きた古代人の人間観を歴史学、考古学、民俗学、国文学、思想哲学、深層心理学といった諸観点から考える。

「気」と人間観

2010-10-31 12:25:55 | 深層心理学
「気の問題について人体に即して具体的に検討してゆくと、人間というものの見方、つまりは人間観の問題につき当る。たとえば中世のキリスト教では、霊魂―肉体の関係をどう考えるかということはその人間観の基本にかかわる問題であった。霊魂―肉体を近代的な概念でおきかえると、精神―身体という関係になるであろう。「気」の考え方は、この両者の関係について、東洋の宗教・哲学、および科学の歴史の中で育てられてきた独特な見方を示しているのである。したがって「気」の問題を掘り下げてゆくと、人間観や世界観といった、より深い一般的な問題にまで及んでくるように思われるのである」(湯浅泰雄 「気」とは何か~人体が発するエネルギー~ p5 NHKブックス 1994年第12刷)。

湯浅氏は、「気」はみえない道(タオ)のはたらきであると指摘しているが、道(タオ)は哲学的概念である。また、いわゆる「仙人」について、「みえない超越的なもののはたらきとつながり、それと一体となった人間」であり、それを「完成した人格の状態」とも表現していることに留意したい。近代的人間観に従えば、寿命という制約のもとに生きる人間が「不老不死」などということはあり得ず、単なる願望、俗信、信仰といった範疇のことがらとして切捨てられてしまうであろうが、次元を異にする超越的なものとの合一によって感得される世界認識と解するならばどうであろうか。人間のいのちは、不死なるものと結びついているという理解である。そこにおいて、この主題は宗教経験を含む深層心理学の重要な研究テーマとなってくる。
「一太宅之門」をくぐり異次元世界に赴いた主人公が、そこで神女と交合するというモチーフが深層心理学の観点からみると大きな研究課題となるのはそうした理由からである。

浦島説話研究所

道教と「氣」

2010-10-30 14:02:18 | 易(陰陽)・五行、讖緯(しんい)思想
坂出祥伸氏は「道教は「気の宗教」であると定義しておきたい」と指摘していることについて触れた(坂出祥伸 日本と道教文化 p11 角川学芸出版 2010年)。
「気」について、湯浅泰雄氏は次のように述べている。「「気」とはまず、心身の訓練を通じて感じられるようになるはたらきである。それは、通常の状態では感覚によって認識することはできないが、訓練によって心が日常ふつうの意識状態から変容するときに感受され、自覚され、認識されてくる」(湯浅泰雄 「気」とは何か~人体が発するエネルギー~ pp36~37 NHKブックス 1994年)。
坂出氏は、「「気」という視覚では捉えられない存在、それは人間をも含んだ万物を生成する根源的なエネルギーであり、道教では、その「気」を操作することによって仙人とか真人とか称される最高の境地に到達することを目指すのである」と説く(坂出祥伸 日本と道教文化 p11 角川学芸出版 2010年)。
湯浅氏は「道教でいう「仙人」とか儒教でいう「聖人」といった完成した人格の状態は、実践的努力によって、みえない超越的なもののはたらきとつながり、それと一体になった人間である。(西洋でもヘレニズム時代のストア派、新プラトン派、グノーシス主義、キリスト教神秘主義などの中には、神々と人間の世界を連続的にとらえる見方がある。)「みえる身体」の基礎に「みえない身体」「流れる身体」のシステムを考える人体の見方は、このような哲学的宇宙観と人間観から生れたものである。「気」とはこの場合、宇宙と人間を生かせているみえない「道」のはたらきであって、人体はそのはたらきが宿る容器なのである」と語る(前掲書 p44)。

『万葉集』が語る「浦島説話」では、主人公の死が「氣左倍絶而・・・」(氣さえ絶えて)と描写されている。湯浅泰雄氏は「「気」という概念(考え方)は、中国・朝鮮・日本を中心にした東アジアの宗教や哲学の世界では、古くからよく知られている」と指摘している(前掲書 p5)。この説話が、道教と深い結びつきを有することを考えると興味深い記述である。 「氣」が絶えるということと死が結びつくことの意味を、人間の無意識、つまり宗教的、深層心理学的な観点から問うことは説話を読み解くうえで重要な鍵であると考える。

浦島説話研究所

道教と馬養の時代

2010-10-28 22:24:33 | 浦島説話研究
「道教の歴史は古い。2000年以上になる。けれども、道教研究の歴史は新しい。中国の思想や宗教の研究者の間で「道教」という概念が認知されてから、100年も経っていない。・・・
道教とは、どのような宗教なのか。はなはだ答えにくい問いであるが、私見では、その根底にあるのは中国思想一般と同様に「道」の観念であり、特に道教にあっては「道 タオ」とはすなわち「気」だと考えられる。そこで道教は「気の宗教」であると定義しておきたい。「気」という視覚では捉えられない存在、それは人間をも含んだ万物を生成する根源的なエネルギーであり、道教では、その「気」を操作することによって仙人とか真人とか称される最高の境地に到達することを目指すのである」(坂出祥伸 日本と道教文化 p11
角川学芸出版 2010年)。

天武天皇の諡号には「真人」の文字のみならず、不老不死の神仙が住む三神山の名称の一文字も付されている。そこには明らかに道教思想の影響が看取される。皇后で皇位を継承した持統天皇が、神仙の地に比された吉野の地に30回以上にわたって訪れたことは、当時、道教の中核をなす神仙思想が大きな影響を与えていたことを如実に物語っている。
「浦島説話」を書き残した伊預部馬養連も当時の思想潮流を敏感に感知していたことは間違いない。説話に反映されている神仙思想の影響からもそのことが容易に汲み取れる。むしろ、彼が天武帝や持統帝に思想的な影響を及ぼした可能性すら考えることができる。馬養は、軽皇子(後の文武天皇)の皇太子学士も務めている。
「浦島説話」を読み解くうえで、当時の時代背景という要素は大変重要な意味をもっていると考える。

浦島説話研究所

「陽寶剣」と「陰寶剣」

2010-10-27 21:07:58 | 浦島説話研究
「大仏殿」の名称で知られている奈良県東大寺の大仏の足元の土中に埋納されていた二振の大刀が1907年(明治40)に発見されていたが、この大刀が正倉院宝物の大刀「陽寶剣」と「陰寶剣」であることがわかり、10月26日付けの新聞各紙で大きく報じられた。
二振の大刀が「陰」と「陽」の一対として一緒に埋納されていたことは興味深いが、吉野裕子氏は「古来、刀剣は陰陽の一対、即ち、雌雄のペアを以て扱われる場合が多い」と指摘している(吉野裕子 陰陽五行と日本の天皇 p215 人文書院 1998年)。「水」と「火」という相反する二つの要素を合体させることによって不壊の生命を宿す呪物になるのが刀剣である。
聖武天皇と光明皇后が仏教の力による鎮護国家を希求したことは確かであるが、二振の大刀の埋納が、陰陽の呪術に基づくものであることは間違いなく、両者を合した呪力によっても永遠の国家安寧を祈願したという考え方は合理的で説得力を持ち得ると思う。陰陽の哲理は、背後に隠れ秘された神秘主義思想をその本質としている。つまり、二重の意味(表と裏の両面から)での秘法の力によって国家が支えられているという理解である。その力の本性を科学で解き明かすことはできないであろう。“祈り”という宗教行為に含まれる本質とはそのようなものではないだろうか。

浦島説話研究所

「水」「江」「浦」「島」

2010-10-25 22:56:03 | 浦島説話研究
小島憲之、直木孝次郎ほか校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』の「浦島説話」に関わる注記には「日下部は水・江・浦・島など水運関係の部であり」という記述がある(p206 小学館 1996年)。
日下部氏が水運関係の部とみる見解の背後には、「水」「江」「浦」「島」という“海”あるいは“水”に関係する普通名詞が4文字も姓名に用いられていることがある。このような大陸の思想の影響が海人族といった海洋を生業の舞台とした氏族によってもたらされたとみる認識は自然である。
だが、主人公の姓名が「水」に深く関係するという認識においては一致するのであるが、本論は、易・五行思想の観点からこの問題を考える。そうすると前述の4文字のみならず、「子」もまた「水」に関係するのである。「子月」は旧暦11月にあたり、冬至を含む「仲冬」で水気を象徴する。「子」は方位に配当すると北極星が位置する「真北」にあたる。

「『五行大義』には「子を困沌と名付く。陽気混沌をいう」と見え、子即混沌であると「子」を定義づけている。・・・中国古代哲学において、原初唯一の絶対の存在は「混沌」。これは陰陽二大元気を包摂するところの中枢である。易はこの混沌を「太極」とするが、中国古代天文学では、これを「北極星」とする。この北極星の神霊化が「太一」「天皇大帝」である」(吉野裕子 十二支 p25 人文書院 2000年)。

「水」「江」「浦」「嶼」「子」、姓名に関わる5文字全てが「水」に関係するのである。しかも易・五行思想に照らすなら「子」には特別な意味が付与されている。
「浦島説話」において、主人公の姓名という問題は、馬養の意図を探る重要な手がかりを残している、と本論は考える。

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