A.C.T.S.用務員のコツコツ工作帖

なんだかここんとこ「なんでも帖」になってますが…

秋の夜長の自由研究 - L8

2009-09-26 | Chronicle
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人は「時代と環境という繭(まゆ)の中で育つ」と言います。

ボクが生まれたのは1950年代の半ばですから、
物心がついて世の中の出来事を多少なりとも理解し反応出来るようになったのは、
おそらくその1950年代の終盤からだったのではないかと思います。
戦後10数年の時が経ち、日本は高度成長の波に乗り始めていたのでしょう。
自分の記憶には、戦争からの復興とか再建といった印象はほとんどありません。
すでに大人達は「しゃにむに走り始めていた」という感じがします。

生まれたのは東京の原宿、神宮前三丁目という所でした。
といっても今の原宿を思い浮かべられては困ります。
近所には木造の長屋ばかりが建ち並び、コンクリートの建物など知りません。
大きな建物と言えば明治通りの反対側にある東郷神社だけ。
その明治通りには渋谷と二幸(現・新宿アルタ)前を結ぶをトロリーバスが走り、
明治神宮の丘の向こう側に住んでいるというアメリカの将校さんたちが、
航空母艦のように大きなクルマを、今より狭かった表参道に並べていました。

東京オリンピックの開催が決まったことによって、東京は大改造を受けます。
特に、明治神宮の周辺は、大変なことになっていたようです。
オリンピックとはあんまり関係ないと思われる表参道がキディランド側に拡張され、
七五三の記念写真を撮った写真館は立ち退きになってしまいました。
なぜかその時期、地元を離れていく人たちも多かったようです。
どんな理由なのかは知りませんが、我が家もその流れに乗った一派でした。
駒沢に住んでいた親戚も、競技場が造られることで居を移すことになったと聞きます。
東京の、オリンピックに関連する地域は、まさに引っかき回されていました。

東京オリンピックの頃、我が家はまだ白黒テレビでした。
柔道でヘーシンクが勝って、なぜかテレビの前でボロボロと泣いたのを憶えています。
円谷選手が残りわずかのところで抜かれて銅メダルになり、
あまりの悔しさに、ボクはしばらくテレビの前を動けませんでした。
バレーボールとか体操とか重量挙げとかは成績がよかったのですが、
なぜか敗北の方が、鮮明に記憶に残っています。
自分が日本人であるということを初めて実感したのは、
そんなことだったのかもしれません。

かなり歳の離れた、バイクやクルマやプラモデルが大好きないとこが、
プリンス自動車に就職し(その後すぐに日産になってしまったのですが)、
その影響で24インチの子供用自転車に乗るガキのくせにレースが大好きになりました。
R381がいまだに世界一カッコイイと思っているのは、そのいとこのせいです。
自分自身のアンテナや、近所の友達からだけでは絶対に入手不可能な刺激や情報を、
そのいとこは山ほどもたらしてくれました。

東京オリンピックの年に、ホンダ6気筒のことを知っている友達はいませんでした。
回りがゴム動力やゼンマイのプラモデルで遊んでいる時、
そのいとこに連れられてデパートの屋上で開かれるリモコン戦車の大会に出ていました。
普通は、せいぜい兄貴とかちょっと上の先輩からしか得られない刺激や情報を、
もういい歳頃になっていたそのいとこから授かったことで、
ボクはかなり「ませたガキ」になっていったのだと思います。

スロットレーシングカーにはまり、お兄さんや大人達にもまれました。
なぜかアイススケートにはまり、場内でかかっている洋楽ばかり聴いていました。
アポロ11号が月に行ったのは中学の頃です。
とてつもなく大変なことがおこったと感じました。


ミシガン湖の傍で育った、ボクとおない年のリック・スピルマンは、
「あの時デトロイトは、東京に負けたんだ!」と、いまだに悔しそうに言います。
オリンピックの開催地を、お互いの地元が競っていたなんて、知りませんでした。
R381などの日本グランプリ系の話をすると、ヤツはCAN-AMを持ち出します。
機嫌をとるわけではないのですが「やっぱアポロ11号よね!」と持ち上げると、
「ま、あれはロシアには無理だったよね」と、無邪気に胸を張り、
「それよりウッドストックよ、あの年は」と、
ちょっと生意気なガキだったことを臭わせます。

ボクらが「一番思い出に残るオリンピック」で意見が一致したのは、
1972年のミュンヘンでした。
ボクは、男子バレーボールの準決勝でブルガリアを破った試合、
リックは、アメリカがソ連に負けた男子バスケットボールの決勝だと言います。

ボクらは、そんな繭の中で育ってきました。

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