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東京オリンピックを観ていた小学生の自分には、
そこにどんな政治的な背景や影響があったかなど想像もできませんでしたが、
中学生になっていた1972年のミュンヘンオリンピックの時点では、
世界には西側と東側があって、というか西側と東側にスッパリ分かれていて、
それがなにかと、というかあらゆる場面で敵対していることは理解出来ていました。
子供ながらに胸躍らせた宇宙開発競争は、まさにアメリカとソ連の直接対決でしたし、
毎日のように報道されるベトナム戦争は、南と北のベトナムの戦争でありながら、
実は西側と東側が戦っている戦争であることに、すでに気がついていました。
もちろん難しい話はまったく分かっていないのですが、
単純に「世界には二つのグループがあって、仲が悪い」という認識を持っていました。
なぜ「西側と東側」と言うのかも、良く分かっていませんでした。
世界地図を見るとソ連は西側にありアメリカは東側にあるじゃありませんか。
いろんな遊びを教わったいとこに聞くと、
それはヨーロッパでの位置関係を示していること、
なぜそのようなことになっているのかなどを、子供にも分かる範囲で説明してくれました。
ついでに、そのいとこは海外で売られている世界地図を見せてくれました。
日本が真ん中にある地図を見慣れていた自分には、その地図はちょっとショックでした。
それを見ると「西側と東側」ということが一目瞭然に理解出来ましたし、
日本がなぜ「極東」と呼ばれるのかも分かりました。日本は世界の端っこにありました。
よく聴いていたFENというラジオの名称の意味も、やっと理解できました。
その本質などはまったく理解していないのだけれど、
「西側と東側」は、単純に「善と悪」という構図になって刷り込まれていました。
ボクらは自然に、ソ連や東側を、悪だと思わされていました。
オリンピックなども、まさにその二つのグループの対決の場に感じていました。
ボクらが子供時代を過ごした1960~70年代とは、まさにそんな時代でした。
1972年の男子バレーボールは、
まさに東側に包囲された日本が最後まで頑張り抜いた壮絶なドラマでした。
対ブルガリア戦に勝った空前絶後の感動的な試合内容はもちろんなのですが、
優勝-日本、2位-東ドイツ、3位-ソ連、
4位-ブルガリア、5位-ルーマニア、6位-チェコスロバキア、これは痛快でした。
リック・スピルマンは、そのミュンヘンでの男子バスケットボール決勝を、
「ボクの人生で最大のショックのひとつ」と言います。
終了間際に逆転のシュートを決められ1点差でソ連に負けた瞬間、
リックたちアメリカの少年は、テレビの前で完全に凍ったのだそうです。
バスケットボールでアメリカがソ連に負ける。それは、決定的な絶望でした。
その落胆は、日本柔道が白人に負けた瞬間より、何倍も大きかったのでしょう。
1969年に月面着陸を果たして完全にソ連を突き放したと思っていた彼らは、
まさに地獄の底に突き落とされたのです。
スポーツにはハッキリと、そういう効果がありました。
72年ミュンヘンのバレーボールやバスケットボールは、それを如実に表していました。
ボクらの世代は、そういう時代の中で少年期から思春期を過ごしていました。
東京オリンピックを観ていた小学生の自分には、
そこにどんな政治的な背景や影響があったかなど想像もできませんでしたが、
中学生になっていた1972年のミュンヘンオリンピックの時点では、
世界には西側と東側があって、というか西側と東側にスッパリ分かれていて、
それがなにかと、というかあらゆる場面で敵対していることは理解出来ていました。
子供ながらに胸躍らせた宇宙開発競争は、まさにアメリカとソ連の直接対決でしたし、
毎日のように報道されるベトナム戦争は、南と北のベトナムの戦争でありながら、
実は西側と東側が戦っている戦争であることに、すでに気がついていました。
もちろん難しい話はまったく分かっていないのですが、
単純に「世界には二つのグループがあって、仲が悪い」という認識を持っていました。
なぜ「西側と東側」と言うのかも、良く分かっていませんでした。
世界地図を見るとソ連は西側にありアメリカは東側にあるじゃありませんか。
いろんな遊びを教わったいとこに聞くと、
それはヨーロッパでの位置関係を示していること、
なぜそのようなことになっているのかなどを、子供にも分かる範囲で説明してくれました。
ついでに、そのいとこは海外で売られている世界地図を見せてくれました。
日本が真ん中にある地図を見慣れていた自分には、その地図はちょっとショックでした。
それを見ると「西側と東側」ということが一目瞭然に理解出来ましたし、
日本がなぜ「極東」と呼ばれるのかも分かりました。日本は世界の端っこにありました。
よく聴いていたFENというラジオの名称の意味も、やっと理解できました。
その本質などはまったく理解していないのだけれど、
「西側と東側」は、単純に「善と悪」という構図になって刷り込まれていました。
ボクらは自然に、ソ連や東側を、悪だと思わされていました。
オリンピックなども、まさにその二つのグループの対決の場に感じていました。
ボクらが子供時代を過ごした1960~70年代とは、まさにそんな時代でした。
1972年の男子バレーボールは、
まさに東側に包囲された日本が最後まで頑張り抜いた壮絶なドラマでした。
対ブルガリア戦に勝った空前絶後の感動的な試合内容はもちろんなのですが、
優勝-日本、2位-東ドイツ、3位-ソ連、
4位-ブルガリア、5位-ルーマニア、6位-チェコスロバキア、これは痛快でした。
リック・スピルマンは、そのミュンヘンでの男子バスケットボール決勝を、
「ボクの人生で最大のショックのひとつ」と言います。
終了間際に逆転のシュートを決められ1点差でソ連に負けた瞬間、
リックたちアメリカの少年は、テレビの前で完全に凍ったのだそうです。
バスケットボールでアメリカがソ連に負ける。それは、決定的な絶望でした。
その落胆は、日本柔道が白人に負けた瞬間より、何倍も大きかったのでしょう。
1969年に月面着陸を果たして完全にソ連を突き放したと思っていた彼らは、
まさに地獄の底に突き落とされたのです。
スポーツにはハッキリと、そういう効果がありました。
72年ミュンヘンのバレーボールやバスケットボールは、それを如実に表していました。
ボクらの世代は、そういう時代の中で少年期から思春期を過ごしていました。
しかし 当時昭和39年代の東京とわしの生まれ育った津軽じゃ文明化が 全く違いますね、自動車は、片手で数えるほど 道もまだ僅かしか舗装されてなく 輸送手段は、馬車車がまだ主流 馬糞集めて農家の畑に持ってての駄賃稼ぎ、田んぼの用水でん泥鰌取り此れは、バケツ一杯で 200~250円位 そして赤金(銅)拾い 此れは、1000円以上位集めた時に(今は、産廃業社)ゴミ集めにウキウキで持ち込み、遊びは、春夏秋は、チャリの三角乗りで出かけて釣りか川泳ぎ、冬は、古いお下がりのスキーでのスキー遊び。こんな感じ。
東京オリンピックの事あまり記憶無いんだな~、100のハインズと女子体操のチャフラフスカの重そうなヘアースタイルとやはり円谷のマラソン(アーッ)あと僅かなのにテッ、何せ『ワラシ』(童)は、8時に寝るの時代でしたから、『三菱のハヤブサで掃除中です』のプロレスは、放送時間忘れたけど それでもしっかり見てたな?
あとオリンピックで 印象にあるのは、1972年ミュンヘン、パレスチナの人によるテロ攻撃、1980年のモスクワオリンピックのボイコット、平和の祭典て 言うけど 如何しても国対国の政治介入が、裏に働いていて 悲しくなりましたネ。
又 70年代のベトナム戦争のテレビ画像見ては、スカイレーダーによるナパーム弾爆撃 下には 人が居るのにて そして日本国内の米軍の出撃映像 当時『ワラシ』でしたから私も 飛行機、戦車は、好きなんだけど 子供心にもベトナム現地の映像は、なんか胸が寒々とした感覚で見てました。
長文に なり すみませんでした。
そのとき はっきりまだ白だの赤(運動会意識高揚のため)だの 言う人々が 居るだと 実感しましたワ。
この時代 世界は、NATO諸国とワルシャワ条約機構諸国で 真っ二つでしたね。
とりあえず世界が二つに割れていて、
ボクらのようなガキの日常にも、
それはいろいろな面で影響があって、
でもそれを誰も不思議に思っていなかった…みたいな。
不謹慎だと怒られそうですが、
それはそれで面白い時代ではあったと、ボクは思っています。