++ それでも夢をみていたい。++

平成18年8月28日
ママは安らかに息を引き取りました。
癌で余命3ヶ月宣告。
  その闘病記録と、終わり。

癌と告知すること。ママとガン告知。その2。

2006年03月17日 | ● ガン告知/ 過去日記 ☆
長くなったので分けてみました。

☆1月28日☆
それでも朝からパパと話し合う。
答えは出ないと分かりながら。

先にママ抜きで主治医と面談。
先生は告知した方がいいと言った。
前向きに生きるためには
病気を知った上での本人が前向きな頑張る気持ちを持つこと。
治療に対する信頼と協力。
病は気からというけれど、本当にそうだとおっしゃった。
協力する気がない人は治らないし
頑張って治ろうとする人にはそれが顕著に表れるらしい。
本当のことを言わないのは
不安にさせるし、信頼関係も築けない。

そして一番の理由は『気がついている』
そのうえで探りを入れてくること。
うちはおばあちゃんも癌で亡くなっていて
肺に水がたまってなんども抜くという最後だった。
その話を看護師さんみんなにしているらしい。
『本当のことが知りたい』
誰だってそうだよね。良いにしろ悪いにしろ答えが渡されないのは辛い。
それだったら告知した方がいい。
と、言うことになった。
パパも納得せざる得ない理由。

○ 告知 ○
ママは悔しいってなんども言った。ずっとずっと。
押し殺して泣きながら、なんども呟いた。
壊れもせず、ヒステリックにもならず受け入れていた。
そうでなければ良いいのにって思いながら
入院してきたんだと言っていた。
覚悟しての検査入院。癌であるかそうでないか
ふたつにひとつの答えを待っていた。
そのあとはパパと弟(下)の心配をして、あたしによろしくって。
『強いな』
本当にお母さんって自分より家族が先に来ちゃうんだね。
分かるけど、やっぱりすごい。
あたしたちの中でガン告知されたママよりも
パパの方が明らかに壊れそうだったから。
気持ちを立て直しちゃったのかも知れない。
女の人ってみんなこうなのかも。
その優しさと懐の深さに杞憂は杞憂で終わり
あたしたちは少しほっとしたけどね。

これからが始まりなのだけど
区切りがついた。
区切りがつくとやっと息が出来る気がした。

ガン告知して良かったと思う。
とても重い現実だけど、
戦うのであれば相手が見えていないと戦えない。
それが治る病気でも治らない病気でも
見えていないと、分からないと、もっと怖くてもっと不安だから。

癌と告知すること。ママとガン告知。

2006年03月17日 | ● ガン告知/ 過去日記 ☆
*** イレッサ服用 44日目 ***

本日も実家には行っていないので
昨日の続きを。

☆1月27日☆
そんな感じで伝えてもらわないうちに
告知をするかどうかの期限が来た。
明日になれば主治医からの説明がある。
今となれば悩む期間が短くてあたしには良かったんだと思う。
結構うじうじ悩み続けるタイプだから。
それでも弟(上)なんかも来て話し合った。
話せば話すほど分からなくなるんだけどね。

はじめはあたしもパパも告知しない派。
理由はママが耐えられないんじゃないかって言う杞憂。
弟(上)は余命がないなら
毎日でも会いに来たいし、子供も見せたい
いろいろしてあげたいというので告知する派。
弟(下)はママが辛い思いしないなら
家族の意見に任せるって言ってて
どうするか本当に悩んだ。

◎メリット
言わなければ絶望しない
幸せのままで居られる
症状が楽になれば癌だと伝える必要はないのでは
●デメリット
疑心暗鬼になる
ジレンマ
どうして教えてくれなかったのかという後悔

『告知しない』
はじめはそう思ってたんだけど
ネットで調べたり考えたりして出た結論は
『告知した方がいいんじゃないか』
知っていて知らないふりをしていたパパと弟(下)は
本人たちが気がついていない若干の違和感があるし。
なによりも嘘のない夫婦関係を作っていたふたりが
大切にしていた信頼を失ってしまうのでは?
一緒に生きてきたこと
たとえ短くてもこの先も一緒に生きること
一緒にいることで大切なのは信頼。
必要なのは後悔させないことじゃないのか。
言ったことで責められるよりも
最後になって言わなかったことを責められたら取り返しがつかない。
死に行く者も出来なかったことを悔いて後悔するかも知れない。
残された者もどうしてあの時言わなかったのかと後悔してしまう。
ひとつの大きな嘘はいつかボロが出る
信頼の家族関係を築くためには告知するべきでは?

それでも言ったあとのママのことを考えると
パパは決心が付かないみたいだった。
明日先生の話を聞いてみて
告知するかどうするかを決めることにした。

癌と宣告されること。ママとガン告知。

2006年03月16日 | ● ガン告知/ 過去日記 ☆
*** イレッサ服用 43日目 ***

ガン告知されたときのことを思い出していた。
なので今日はそのころのことを。

パパの職場に連絡があって
パパと弟(下)がふたりではじめの告知を聞いた。
正確には1月16日のこと。
悪いことを言われるかも知れない。
でもガン告知をされるとは思っていなかったと思う。
しばらくはあたしに言えなかった。らしい。
自分の落胆ぶりから考えると娘も
酷く落胆して壊れてしまうんじゃないかと思ったらしい。

癌という病気のことと、余命。
あたしがそれを聞いたのはその10日後のこと。

☆ 1月26日 ☆
その数日前に心臓の膜の水を抜いて
死にそうな姿を見ていたから
あたしは癌なんだとは思っていたんだけど。
余命が3ヶ月というのはものすごい衝撃だった・・・・・・
聞いたときは。やっぱり。
やっぱりそうなんだ。
そればかり思っていた。
パパと弟は聞いた場合の心配をして
わざわざ自宅に伝えに来てくれた。
女ってのは男が思うほど弱い生き物じゃないんだと思う。
目の前にいる人が崩れ落ちそうなくらい
壊れかかっているなら特に。弱ってなんか居られない。
支えなくてはいけないと思うサガ。
あたしは見栄っ張りで、強がりだからね(-_-;)

最愛の人を亡くす。
身体の半分をもぎ取られる
そう言うことだと思うから。

弾丸のようにこの先のこと
ママに告知するかどうかを3人で話し合った。
そのうち話はそれて、死んだあとのこととか話し出す。
そうして現実をただ見ているのは一番楽だから。
先のことを考えているのはある意味現実逃避で
目の前の手の届くことは放棄している。
現実になるだろう非現実に逃げ込んでほっとしている。
ママの死は存在しない。
その時点であたしたちがママを喪失している
ということはまるきり勘定に入っていないから。

話を終えてふたりが帰ったあと
ダーリンが帰ってくるまでひとりぼっちになって
その時間が本当に辛かった。
アタマの中を廻ったのは、
あたしのたったひとりのママなのに
それを永遠に失ってしまう。
手を伸ばしても届かなくなる。
そのことだけぐるぐると意味なく考えてた。

感情と思考が心について行けてなくて
どのくらいそうして惚けて泣いていたのか分からない。
でも理由のない悲しみと飲み込みきれない涙。
なのに感情の伴わなかった慟哭に
理性的に理由を付けて状況を整理し出す。
理性をかなぐり捨てて悲しみに暮れているのは
すごく簡単で、無意味で卑怯で無駄な時間だ。
あたしはそれを良しとしない。美しいとは思えないから。
ムリしてでも笑って、やせ我慢していたい。
考えるべきことは他にあって、それはあたしがしなくちゃいけない。
痛みは自分の痛みで、どうせそんな簡単にいなくなったりもしないのだ。

死とは今世に生まれてすべきことを終えたものに訪れる安息。
天寿を全うした。ただそれだけ。

と、そうやって人が死に逝くことを理解していても
亡くす痛みが無くなる訳じゃない。
それは理解とは別のはなしだ。

大切に出来る大切なものだけを掌で温めて生きてる。
後悔したくないから、大切なものを大切にしていたいから。
掌に収まるくらいの人しか大切に出来ない。
ちっちゃい人間なんです。

してあげられなかったことなんてない。
してあげたかったことは全部してきた。
出来なかったことは所詮出来なかったことに過ぎない。
だからこそ悲しい。
後悔していてもしていなくても、愛しているからこそ悲しい。
そのことがとても悲しい。

癌に至るまでの経緯。

2006年03月11日 | ● ガン告知/ 過去日記 ☆
めぐさん。

義父さま心配ですね。
検査結果がまだという事ですので
さぞかし悶々となさって、
眠れない日々を送ってらっしゃるのではないかと思います。
うちのママの場合ですが
入院に至る簡単な流れをUPしてみました。

お役に立つか分かりませんが
参考になればと思います。


*** はじまり ***

カラオケ大好きのママが
歌っていると咳が出る。的な事を
言っていたのはいつだったんだろう。
そのことをあたしのちっぽけな脳みそは記憶していない。
歌いすぎ?喉で歌ってるから?それともカラオケ屋のタバコ?
自分に置き換えて出てくる答えはそんな感じ。

『風邪みたい』

そう言ったのが9月とか10月。
病院に行って、薬も2ヶ月ぐらい飲んだり飲まなかったり。

『良くなったと思ったら、またカラオケに行くから治らないんだよ』

本人も家族も2ヶ月間ずっとそう思ってた。

ママは季節の変わり目は具合が良くない人で。
毎年何回かそんな感じで寝込んでたし、
心配するどころか、ああ季節の変わり目だからまた。
って、思ってた。

あまりに治りが遅いから
病院を変えて診察しても『風邪』
けど、寒くなるにつれ咳がひどく。
咽るようなこともふえた。

風邪だと思っていたら『喘息』
そう言われる人が結構居るってひとに聞いて
12月のはじめ。市民病院にも行った。
レントゲンも撮った。
様子を見るからと薬を渡された。
2週間後。
良くならないから今度は別の薬を飲んで様子を見るように言われた。
処方される大量の薬で気持ちが悪くなる事も多かった。
とにかく咳が酷くなる一方だから、
もらった薬の中から咳に効く薬だけ飲んだりしてた。

あたしは一緒に住んでいないし
月に1回程度実家に行くぐらい。
12月に入ってからは咳が酷く寝込む日も。
わき腹が痛くて寝ているのも辛いと聞いた。
電話で話しだけ聞いて、『喘息による筋肉痛か』
短絡思考で申し訳ないけれど、勝手にそう思ってた。
浅はか過ぎて思い出しても凹むんだけど。

でもこんな状態なのに
酷い病気だとは一度も疑わなかった。
異常だとも一度も思わなかった。
健康だと思い込んでいた。
んだよ。本当に・・・・

こんなに治らないなんておかしい。
一番初めにそう思ったのはママ本人。
人には、家族にでも怖くてそんな事いえななかったそうです。が。
より強く危機感を感じたのは12月も終わりに差し迫った頃。
けど、運悪く、年末。お正月。
ママの状態は悪化の一途です。
終わらなく続く悪夢のような酷い咳。
1月4日とうとう絶えられなくなり
救急で呼吸器の病院に運んでもらい
翌5日。緊急入院しました。

それでも間抜けなあたし達家族は
本当に情けないけど
だれひとり癌を疑ってすらいなかった。
ただひとり。ママ本人を除いて。

今はどうしてそんな風に思っていられたのか
不思議でなりませんが。

書いてみて思ったけど。
これが他人だったと仮定したら
「すぐ病院行って来い」と言えたのに。な。

後悔するのは嫌いなのでしませんが
基本夢見がちだから仕方がありません。
家族の人は死なないと思っているとしか
考えられません。

風邪っぽいと本人の自覚症状が出てから3.4ヶ月でした。

出た症状。
咳。空咳。
タンは出ないのに喉が絡む。
犬のように咽る。

うちのママの場合は病巣が肺だったから
そのまま肋骨の辺りに転移して
痛みが発生しました。

この3.4ヶ月の時の流れは
本当に不確かです。
記憶も、記録もしていないほど
なんでもない日々だと思っていたからに他ならないのですが・・・・

なのでめぐさんには参考にならなかったらごめんなさい。

ちょうどいい機会だったので
過去日記としてUPする事が出来ました。

ただ、本当にバカ家族だって事も
再認識しちゃいましたが・・・・・ハァ。

過去日記②

2006年02月16日 | ● ガン告知/ 過去日記 ☆
*** 過去日記 ② ***

1月23日

パパとおとうとと3人で
処置の説明を受ける。
心臓を覆う膜、心膜。
通常から水が心臓を支えているらしいのですが
その量の2倍とも3倍とも思われる水量が
そこに溜まっていて、心臓を圧迫し
肺を圧迫していると
そう言う説明。
全部は抜ききれないし
今後も増える可能性があるから
出来れば水が出る出口を作りたいという話に。
処置自体には心臓に傷が付くことはほとんどないと考えられ
危険も少ないと聞いた。

予定時刻よりずいぶん遅れて
処置が始まった。

処置自体の時間は1時間程度と
予定通りの感じ。
処置が終わり呼ばれたあたしたち。
担当の先生から見せられた水の量はハンパなかった。
500ペット一本分はある感じ。
さらにまだあるとも・・・・・・
水とは言っても身体の中の体液だから
赤くて、不謹慎にも綺麗だった。
汚いものには思えなかった。
もっと赤黒くてどろどろしたものかと思ってたから・・・・・・
あたしの目にはサラサラして見えたけど
塊もあると言うことで
そのままカテーテルを残して水の出口を作ることは
雑菌の温床となり危険との判断で
水を抜く穴はふさがれた。
けれどそのあと、なかなかママが出てこない
処置が終わるのは早かったけど
そのあとが長かった。

後日知ったんだけど
水を抜いたあと
心臓が止まって意識がなくなるアクシデントがあったらしい。
本人もなんとなく覚えてて
からっと話していたらしいけど
いくばかりだったのかと思う。本当に切ない。

病室に戻る途中も
戻ってからもママは吐きっぱなし。
苦しい咳と、咽せるように吐き続ける。
執刀してくださった先生。
担当の先生を含む3人と
たくさんの看護婦さんがママを取り囲んでいた。
非道い咳き込みであばらのあたりが痛いと言い出す。
あたしの名前を呼んで
湿布薬を希望した。
あのときのあたしの名前を呼ぶ声。

本当に泣きそうになった。

怖くて切なかった。

このまま死んでしまうんじゃないか。

怖かった。

本当に見ているのが辛くて辛くて
とにかく辛くて仕方がない。
怖かった。
怖くて見ていたくなかった。
それなのにすぐ近くで
椅子に座って
ただ見ていた。

死ぬのかもしれない。
やっぱり癌なんだ。

そう思った。

点滴をしているため
裸に近い状態だったから寒がって震えて
看護婦さんに言ってパジャマを着せてもらった。
電気毛布にくるまれて
お布団かけて
すごく疲れたんだろうな
そのうち眠ってしまった。。。。。
 
なんで電気毛布って思ったけど
心臓止まったから寒かったんだなって
すごくすごく寒かったんだろうなって
後日理解したけど。

パパは何度もママに触れて
心配そうにのぞき込んで
落ち着かずに
うろうろとしていた

おとうとは黙って隅の方にいた。

ママが眠ったあとも
あたしたちはたぶんただ黙って
ただ見つめていたと思う。

何か祈るような気持ちで。

過去日記①

2006年02月16日 | ● ガン告知/ 過去日記 ☆
ブログを始めたのが今月のあたま。
たったの16日前。

それまでのいきさつを
後々書いていこうと思ってたんだけど
なんだか今更過去日記を書くのもなぁ・・・・・・
と、思って今日まで微妙な感じで
書いてない(^_^;)

一部書いてたんだけど・・・・・・

先月20日の日記のあとに
書こうと思っていたものをちょこちょこっと
メモ的に書こうと思ってます。

*** 過去日記① ***

心臓の周りに必要以上の水が溜まっていて
それが肺を圧迫していて
咳が出たり苦しかったりする。
そうあたしに説明したのはパパだった。

溜まった水を抜く処置をする。

そのとき初めて
あたしはママが癌なんじゃないかと思った。
水が溜まる。
あたしのなかでは

身体の中に水が溜まる = 癌

この構図があったからね。

ママ方のおばあちゃんがなくなったとき
最後は何度水を抜いただろうか?
そのことが頭の中を巡っていた。

『癌じゃないの?』

パパに聞くことも誰かに言うこともなかったけど
だって、怖いじゃん。
言えないよね。
怖くて。
確認したくないもん。
『じゃないの?』って杞憂であって欲しいじゃん。

なのにもう
検査じゃない気がして怖かった。

あたしは感じなかったけど
お見舞いに来ただーりんは、おとうとが
妙にママに甘えてて変だったって言ってた。

いろんな違和感があった。

立ち会わなかったら後悔すると思った。