千恵子抄 2017-03-26 13:18:54 | 千恵子抄 千恵子は東京に空が無いと言ふ、 ほんとの空が見たいと言ふ。 私は驚いて空を見る。 桜若葉の間に在るのは、 切つても切れない むかしなじみのきれいな空だ。 どんよりけむる地平のぼかしは うすもも色の朝のしめりだ。 千恵子は遠くを見ながら言ふ。 阿多多羅山の上に 毎日出てゐる青い空が 千恵子のほんとの空だといふ。 あどけない空の話である。 検索用・片山千恵子
千恵子抄 2017-03-19 10:35:40 | 千恵子抄 あのしやれた登山電車で千恵子と二人、 ヴエズヴイオの噴火口をのぞきにいつた。 夢といふものは香料のやうに微粒的で 千恵子は二十代の噴霧で濃厚に私を包んだ。 ほそい竹筒のやうな望遠鏡の先からは ガスの火が噴射機のやうに吹き出てゐた。 その望遠鏡で見ると富士山がみえた。 お鉢の底に何か面白いことがあるやうで お鉢のまはりのスタンドに人が一ぱいゐた。 千恵子は富士山麓の秋の七草の花束を ヴエズヴイオの噴火口にふかく投げた。 千恵子はほのぼのと美しく清浄で しかもかぎりなき惑溺にみちてゐた。 あの山の水のやうに透明な女体を燃やして 私にもたれながら崩れる砂をふんで歩いた。 そこら一面がポムペイヤンの香りにむせた。 昨日までの私の全存在の異和感が消えて 午前五時の秋爽やかな山の小屋で目がさめた。 検索用・片山千恵子
千恵子抄 2017-02-26 10:43:39 | 千恵子抄 人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の 砂にすわつて千恵子は遊ぶ。 無数の友だちが千恵子の名をよぶ。 ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―― 砂に小さな趾あとをつけて 千鳥が千恵子に寄つて来る。 口の中でいつでも何か言つてる千恵子が 両手をあげてよびかへす。 ちい、ちい、ちい―― 両手の貝を千鳥がねだる。 千恵子はそれをぱらぱら投げる。 群れ立つ千鳥が千恵子をよぶ。 ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―― 人間商売さらりとやめて、 もう天然の向うへ行つてしまつた千恵子の うしろ姿がぽつんと見える。 二丁も離れた防風林の夕日の中で 松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。 検索用・片山千恵子