岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

宮古島、池間島、大神島、伊良部島 (2012年)

宮古島、池間島、大神島、伊良部島 (2012年)

2012(平成24)年、9月23日日曜日、多治見の自宅を車で出発。セントレアの駐車場は予約済み。5日後自分が駐車したビルの階、場所に迷うことなく戻れるか。その場所を風景とともに頭に刻みつけようとする。記憶のための記憶は薄れる。メモに残すべきだったと後悔したのは4日後だった。台風の影響のため、旅程を1日切り上げることになった。出発から帰宅までの間、頭の片隅にはいつも「台風」のことが引っ掛かっていた。

那覇空港から一旦出た所に、沖縄料理店がある。古女房が下調べをしておいた。ソーキ蕎麦を食べる。来る度に一度は食べたい沖縄の味。支払い時、レジの前で頭を上げると、小泉元首相が来店した時の写真が飾ってある。これで2度目だ。数ヵ月前、長浜市の蕎麦屋へ入った時も、この元首相が店主と並んでいる写真が飾ってあった。どうでもよい事だが、この種の事は記憶に残りやすい。那覇から宮古島へ飛ぶ。宮古空港へ到着すると、宿舎「ニーラ」の係員が出迎えに来てくれていた。色の黒い、ずんぐりとした体型の男だった。前回と同じ宿舎を選んだのは何もかもが素敵なホテルだからだ。と言っただけでは、まだ足りない。世界中で一番素敵なホテル、そこまで言わなければ気が済まない。赤の他人の私にそこまで褒め称えさせる理由については、後でまた気が向けば語りたい。出迎え男は私の大きな荷物を二つとも一度に車まで運ぼうとしてくれた。「重いですから、一つでいいですよ」と私が言うと、男は「大丈夫です。まだこれくらいの荷物は持てますから」と答えた。高級車だった。車内には品のいいジャズが静かに流れていた。宮古島を北上し、池間大橋を渡り、池間島に入った。ここかしこで見覚えのある風景を見ると、懐かしさが滲む。車中で世間話をしているうちに、その運転手が経営者本人であることが分かった。海が好きで、世界中ですでに500本のダイヴィングをしたと語る社長は、気さくで謙虚で、外貌は、しかし、どこにでもいるおじさん風だった。仕事の面では二足の草鞋を履く者で、京都では内装の仕事をしているということだった。左前方から見覚えのある「ニーラ」の看板が飛び込んできた時、再訪者としての懐かしさが一挙に噴き上がった。

受付を済ませると、社長はリピーターへの贈り物としてグラスを2個くれた。予期せぬ贈り物ほど嬉しいものはない。

客室は各室別棟になっている。客はそれぞれ一軒の家に泊まる感じだ。どの客室の外壁も、ざらざらした表面の上に、甘さの漂うような白い色がたっぷりと塗られていた。私たちの部屋の前の植え込みには、ハイビスカスとプルメリアの花が一つずつ咲いていた。緑の中のハイビスカスの赤い情熱。プルメリアの品のいい白に縁どられた黄色。夢の時間はすでに始まるともなく始まっていた。運動がてら、玄関に置いてあった自転車に乗って、「雪塩」で有名な製塩会社へ行くことにした。塩入りのソフトクリームを注文して食べたが、特に美味しいとは思わなかった。古女房の肩越しに、回りでソフトクリームを舐めている若い女の子たちを舐めるように眺めているほうが私の目には美味しかった。

その夜は、ニーラの食卓を囲んだ。一人6000円。大蔵大臣は居酒屋で安く済ませる腹だったが、私は泊ったホテルで一度もディナーを食べずに帰ることなど考えられないことだった。しかし、美味しかったはずの料理の数々の中の一皿さえ私の記憶には残っていない。不味かったのならば、或いは、何か問題があったのなら、記憶に残る。何も記憶に残っていないということは、それほど綺麗に美味しく食べ尽くしたということだろう。何気ない日々の幸せは、年数が経過すれば、何も印象を残さない。そう整理すべきなのか。それとも、単に私の記憶力が弱いだけなのか。

9月24日月曜日、池間島ニーラで起床。午前8時、海を眺めながらの朝食。社員のH氏に9時発で宮古島のレンタカー屋まで送ってもらうことになっていた。H氏は背の高い青年で、言葉遣いは丁寧だった。女房は車中で顔見知りのH氏とよく喋った。手続きを済ませ、レンタカーに乗り込むと、熱帯植物園へ向かった。入園口ははっきりしていたが、中に入ると、広く、外界との境界線が曖昧で、今自分が園内にいるのか、園外に出てしまったのか、判断できないことが度々あった。1時間以上散策しただろう。入口にあった喫茶店でマンゴジュースを飲んだ後、車に戻った。昼食のために海辺のカフェに入った。一番乗りだった。小さなプールの脇の東屋風の席に陣取り、右手に海を見ながらカレーを食べた。左手にはバナナの木にバナナの緑色の房がぶら下がっていた。地元民には何でもない風景が、旅人の心には一つの衝撃として記憶に刻まれる。バナナの木の傍で憩っている私、夢のような図だ。

その夜は、レンタカーを走らせて、「きょうわ」という一晩二組限定の居酒屋に行った。施設は貧弱、料理も家庭料理程度だったが、客に対する主人の挨拶、態度は並大抵ではなかった。たった二人でも一つの部屋に通された。料理が終わる頃になると、主人が直々に部屋の入口に顔を見せ、文字通り平身低頭して謝意を述べた。短髪で、がっしりした体格の持ち主だった。この主人も海が好きで、素潜り10mは出来ると言った。私が「どうしてダイヴィングの装備をして潜らないんですか?そのほうが長く潜っていられるから、沢山魚介類を取ることができるじゃないですか?」と尋ねると、「必要以上に沢山取らないためです」と答えた。

9月25日火曜日、午前8時、池間島ニーラで起床。海を眺めながらの2回目の朝食。前方の崖っぷちでは社長が短パンと丸首シャツ一枚の姿で釣竿をしゃくっていた。朝食後、ニーラビーチ(歩いて20秒)で少しだけシュノーケリングをする。部屋の中から海が見える。浴槽の中からも海が見える。風呂場には、柔らかな芝生が張ってある庭に面している側にも出入り口があり、そこから海に行くことが出来る。いや、逆方向から話した方が良い。岩地に囲まれた、宿泊客以外はほとんど来ない海で遊ぶ。綺麗な砂浜で寝そべる。一遊びしたら、数十メートル戻り、ホテルの敷地に入る。プールサイドにシャワーがある。砂や塩水をざっと洗い流す。数メートル部屋の方向へ戻り、プールと自分の部屋の庭との間にある小さな門を通り抜ける。そこでまたシャワーを浴びる。小さな階段を昇り、芝生の庭に立ち入る。庭にはマリーングッズを洗う水槽が備えられている。マリーンシューズに入っている砂などもここで綺麗に洗い流せる。そのすぐ後ろに、風呂場に繋がる出入り口があり、そのドアを開けて入ると、すぐ温かい湯がたっぷり入った浴槽に飛び込むことが出来る。体が塩水で濡れていようと、砂だらけになっていようと、海から出て部屋の中に入るまでの間に何の支障も、煩わしさもない。実に快適に動ける。湯に浸かりながら紺碧の海を眺めることができる。それでいて人の目からは左右の白い壁が守ってくれている。憎いばかりの完璧な設計だ。ある時、社長は「私も国内外を問わず、色々な所へダイヴィングに行きましたけど、その経験を踏まえて、お客さん目線で作りました」と言った。細部にまで気配りされたホテル。気に入らない点は一つもなかった。私は「ここにいると、夢のような世界にいる気分になります」と社長に言った。青い水平線と白い壁に囲まれた私だけの誰にも邪魔されない時間。海の見える自分だけの庭の椅子に寛ぎながら、私はその時間の一滴一滴が甘美に膨れては流れ去ってゆくのを愛惜せずにはいられなかった。

ニーラに別れを告げる朝だった。社長とH氏が見送りに道端まで出て来てくれた。別れ際に、社長に客室前の白と黄色の花の名を問うたが、意外にも社長もH氏も知らなかった。H氏が奥さんに聞きに戻った。奥さんとは前回の訪問時に出会っていたが、今回のほうが一層若々しく見えた。皆と一緒に花の傍まで出て来た奥さんは「プルメリアです」と答えた。私は、完璧な社長にも花の名を知らないという弱点があることが分かり、なぜかほっとした。奥さんは花粉症のため、京都には住まずにずっと池間島に住んでいる人だった。

ニーラからレンタカーで島尻港に行った。大神島へ行くためだ。船着き場で宮古島旅倶楽部の社員と落ち合い、ガイド料込みの乗船券を買った。まだ若く、四角い顔に眼鏡を掛けていた。台風接近の心配があった。ただその北上速度は遅いという情報を得ていた。社員は「船は予定通りで出ます。帰りは、しかし、どうなるか分かりません」と言った。私は「えー、…」と絶句する。すると、社員は私の肩を軽く叩きながら、「山際さん、その時は、大神島にそのまま住み着いてください」と言って、笑った。陽気な青年だった。初対面なのに、ギャグを一発かますとは。参った。あまりに意外だったので、私には返すアドリブも思い浮かばなかった。
「大神島には何人住んでいるんですか?」
「26名くらいです」
「どういう仕事をされているんですか?」
「年寄りばかりです。みんな年金生活者です。では、私はここで失礼します。大神島に着いたら、島袋というおじいさんが待っていますから、案内してもらってください」
予定通り午前11時出航。乗客は出発間際に釣竿を持って乗り込んだ二人の青年を合わせて8人ほどだった。私の左横にいたおばあさんはビニール袋に魚の切り身を入れて持っていた。宮古島の店で買い物をしてきたのだろうか。11時15分、大神島到着。浜で私たち乗船客の方を向いて立っているおじいさんが島袋さんだということは、すぐに分かった。背は低く、色は黒かった。

廃校になった宮古島市立大神中学校の前に立った。校名が横二段に白く彫られた校門だけが残っていた。門の外で校舎跡の空き地を眺めていた間、文字通り門外漢の私は、それでも、何か言葉にはならないもの、言葉にしてしまっては逃してしまいそうなものを感じ取っていた。島袋さんが標準語で、まるで外国語を操るように、ゆっくりと、たどたどしく、「最後は生徒一人だけになった。宮古島へ転校していったよ」と語った。私は想像した。島袋さんが子供の頃の教室内の一風景を。その教室内では方言禁止だった。島袋少年は、しかし、ついつい大神島の方言で喋ってしまう。先生に見つかる度に、「方言板」で頭を叩かれた。……大神島の特異な方言については、京都大学の教授を始め外国の言語学者たちも現地調査を行っている。島民の極端な排他性を突き破り、方言調査に対して協力を得ることは並大抵のことではなかった。大勢の学者が調査を断念し撤退した。ほんの一握りの熱心な学者だけが許されて協力を得ることができた。この大神島の方言について、私が最も驚いたことは、子音の繋がりだけの単語があるということだった。例えば、座るは「pww」、作るは「kff」。この音韻は標準語ではありえない。某言語学者によると、地球上を探しても、2つしかないという。希少性がある。私の心は悲しくなる、この特異な言語を話す島人がこの地上から消え果てるのも焦眉の問題という現実に思いを馳せれば。仮に私が移住して大神島の言語と文化の継承に努力するとしたならば、それには自ら意味と価値を付与せねばならない、他の誰かが何と言おうとも。

大神島の頂点(約74m)までは木製の急な階段が取り付けられていた。島袋さんは80歳を超えていたが、一度休憩しただけで登頂を果たした。ガイドの仕事が多い日は、一日に3度上り下りすることもあるよ。頂上から見下ろす360度の展望。宮古島、池間大橋、池間島を眺めながら、島袋さんの話を聞いた。「若い頃、鰹漁の仕事をしていた頃、池間島で映画を見た夜、定期船がもうないので、大神島まで泳いで帰ってきた。引き潮の時は、早く帰れたよ」私は脈絡もなく思いつくままに次から次へと質問し、島袋さんは丁寧に答えてくれた。もう話の全容は忘れたが、昔話の中で一つだけ忘れられない箇所がある。ある危機的状況の中で、住民は皆一つの洞穴の中に逃げ込んだが、ある兄妹だけが別の場所に隠れた。そして、その兄妹は夫婦になり、子供を産んだ。その夫婦の家は「その下に見える緑色の屋根の家だ」と島袋さんが指を指した。見下ろすと、確かに緑色の屋根が見える。他に緑色の屋根などない。なぜあの家の屋根だけ緑色に塗られているのだろう。ガイドが説明するということは、今はもう誰も住んでいないのだろうか。大神島には島の女しか立ち入ることができない聖域がある。島袋さんは、展望台からの帰り道に、その方向だけは教えてくれた。謎に満ちた「物語」が現実世界の一角に息づいている。そんな印象を受けずにはいられなかった。右手に小さな畑があった。「これはアズキマメです。女たちの収入源です」島袋さんが手に取った豆を見た。普通のアズキよりも小さな豆だった。こんなふうに、所々で分かりやすい説明もあった。が、接近すればするほど、聞けば聞くほど謎の深まっていく島だという印象は深く残った。私は島袋さんや定期船の船長に尋ねた。「大神島のおばあさんが息子や娘に方言で手紙を書くことがあると思うんですが、どうやって書くんですか?やっぱり漢字やひらがなを使って書くんですか?」私の耳は難聴だったのだろうか。「書けない」という返事だった。正書法が確立されていない方言。私が前の段落で表記したように、大神島の言語には、アルファベット表記で辛うじて文字にすることができるものがある。この特異性は、言語以外の島の文化の諸相に染み込んでいるだろう。言わば、「ら」に濁音符「゛」を付けた文字の類を随所に用いなければ描けない世界、そういうものが大神島にはあるに違いない。
海の高さまで下りて来た。洞穴があった。神聖な場所の一つだった。広さは四畳半ほどだった。島袋さんが、「ここでもうすぐ男たちが集まって酒盛りをするよ」と言った。祭祀の一種だろう。レストランでの宴会とは違う。大地、洞穴、風、潮の香り、人と人との強い紐帯。その集まりに対して、私は何か憧憬の念を抱かざるを得なかった。
港に向かって歩いていると、左手の海の、岩に囲まれた狭い場所でカップルがシュノーケリングをしていた。「あそこなら、海が荒れても安心だね」女房が言った。

大神島の外周道路工事は完成していない。私たちは行き止まりまで歩いて行った。島袋さんの話を聞いた。オバアと呼ばれる女性が聖域に道路を通すことに反対した。耳を傾けなかった工事関係者たちは病死した。工事は現在も中断したままだ。一旦掘り起こされた聖域は原状に戻された。私たちは島袋さんが指差した石垣のような聖域を見た。何も知らない者が見たら、何も感じないような、何の変哲もない場所だった。私は自分の目がその岩や蔓草の向こう側になぜか多くの水子供養の幻影を見ているのを意識した。仮にも公共工事だ。祟りで中断されることなど、あり得るのか。「物語」の中ではなく、「現実」の中に〈ある〉のだから、絶句する。それとも、私もガイドの島袋さんも知らない真相が隠されているのか。

9月25日火曜日、午後1時少し前、宮古島に戻るため大神島の港に戻った。島袋さんも一緒だった。定期船「スマヌかりゆす号」の出航時刻まで船着き場のベンチでしばらく待っていた。そこには、一人のおじさんが座っていて、小型ラジオを聴いていた。住民は年寄りばかりと聞いていたが、この年寄りはちょっと若いな、と思った。何もすることがなくて、こうして船着き場で、行く人来る人を見ながら時間を潰しているのだろうか。寂しい話だ。そう思いながら、少し話しかけてみることにした。
「風があると、涼しいですね。この船はまだ新しいですね」
「去年、出来たばかりだよ」
おじさんは私とは標準語で喋り、島袋さんとは方言で喋った。
「いい男って、方言でどういうんですか?」
少し考えてから、おじさんが答えた。
「yokapiktum」、私の耳にはそう聞こえた。
私がおじさんに指を向けて、「yokapiktum」と言ったら、綺麗な白い歯を出して笑った。
実際、おじさんの顔立ちは整っていた。それから色々と喋っているうちに、そのおじさんが定期船「スマヌかりゆす号」の船長だと分かった。「かりゆす」とはどういう意味かと尋ねると、船長は「何事もうまくいきますようにという意味で、この島では大事な言葉だ」と教えてくれた。「スマヌ」は「島の」という意味だ、と島袋さんも付け加えた。多分、標準語には完全には訳せない意味合いがあるのだろう。私は目の前の船体に書かれた「かりゆす」という文字を見ながら思った。

私は島袋さんに方言で「ありがとう」を言いたくて、船長に「ありがとうって、方言ではどう言うんですか?」と尋ねた。教えられた通りに方言でありがとうと島袋さんに言うと、島袋さんは笑顔を見せた。私も笑った。こういう笑顔の交換こそが旅の醍醐味でなくて、何だろう。どこへ旅立とうと、美食の楽しみは私の中では2番目に過ぎない。午後1時、出航時刻になった。船長はテーブルの上の小型ラジオを付けっぱなしにしたまま席を立った。女房が「ラジオがついたままですけど、いいですか?」と指摘すると、船長は「勝手に喋らせておけばいい」と言った。意外な返答だった。私たちは一瞬呆気に取られた後、笑った。船に乗り込むと、船長の顔は緩んだ顔から注意深い「勤務中」の顔に変貌した。誰にも聴かれることのないラジオ。ニュースであろうと、音楽であろうと、誰の耳にも入らず、砂浜に沈みこむだけ。風の中に散らばるだけ。船に乗り込んでからも、私の心には、船着き場で勝手に喋っているラジオの音だけが響いていた。

宮古島の島尻港に戻り、14時頃レンタカーを返却した。その社長とも大神島の方言について語り合った。社長は、大神島の言葉には濁音がないと教えてくれた。「上げろ」という場合でも、「開けろ」と同じく「あけろ」と発音する。そういうことだった。社長はまた、宮古島の地図を示しながら、「この隣り合っている三つの地区でも、言葉が全然違います。それぞれ違う離島から集団移住されてきたからです」と言った。社長は平良港まで送ってくれた。道中、社長は台風の心配をしてくれて、私たちに日程を切り上げて帰ることを勧めてくれた。私たちは平良港から伊良部島へ船で渡った。船着き場にはその夜の宿舎「ソラニワ」の若主人が迎えに来てくれていた。

伊良部島の「ホテル&カフェ ソラニワ」の屋上にはジャクジーがある。大胆な発想だ。海と空を眺めながら、ブクブクと音を立てる湯の中に身を沈めた。灰色の雲が西へ飛んでいた。条件さえ整えば、浴槽に浸かりながら、夕焼けや星空を眺められる。海外放浪が趣味の若主人の冒険譚を聞き出すのも面白いだろう。

9月26日水曜日、午前8時、ソラニワで朝食。9時「サンレンタカー」が迎えに来る。事務所で契約。レンタカーで中の島ビーチへ。若い女性二人が岩陰で水着になる。見ているだけで心が躍る。ツアー客が7、8名到着。海の方を見ると、ダイヴィング客を乗せた船が錨を下ろす。暫く潜っていたら、可愛いニモの家が見つかった。スコールが襲来。早めに引き上げる。昼、港近くの食堂「アギャー」へ。煮魚の量が多かった。

伊良部島と橋でつながっている下地島のカフェ「ポータ」で休憩。この海際の小さな店は、調理室にだけ壁、屋根、ドアがあり、客の座る場所は部屋になっていなかった。強い日差しをまともに浴びてカップルがビールを飲んでいた。

午後5時、レンタカーを返却。社長に宿舎ソラニワまで送ってもらう。海はだんだん荒れてきた。ソラニワの若主人が外に出ていた。社長と若主人とが台風がらみの話をした。若主人は港に出向き、定期船関係の知り合いから内部情報を得ていた。今夜、船をロープで縛らない。すなわち、明日27日朝の定期船は出るということだった。船会社に電話で問い合わせても公式には得られない価値ある情報だった。26日のソラニワの夕食は、食べ残した。それもメインディッシュのアグーだ。原因は運動不足と食べ過ぎだった。

9月27日木曜日、午前8時、ソラニワで朝食。一人旅の女性が2名、それぞれの食卓で朝食を食べていた。大人の女の一人旅。私は彼女たちの心の断面を勝手に想像してみた。一夜明けても、依然として食欲はなかった。マンゴジュース、ヨーグルト、果物、コーヒーのみ頼んだ。午前9時5分、若主人に港まで送ってもらう。欠航でなくて一安心。宮古島の平良港からはタクシーで宮古空港へ。そこから那覇へ、セントレアへ。結局、予定よりは1日早く戻ってきた。セントレアの駐車場では右往左往。自分が駐車した場所が思い出せなかった。だらしないことだが、家に帰る道も間違えた。午後7時40分、何とか無事帰宅。その日は、昼飯も晩飯も結局食べる気にならなかった。夜中、少し体が火照っていた。

9月28日金曜日、朝、体調ほぼ回復。使い残りの1日の休暇を消化するため、中山道へ向かった。

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