岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

幻の涸沢紀行

北穂高岳、止むなく撤退


涙もなければ、希望もなく、それは単なる「止むない撤退」だった。決断にためらいはなかった。前進を諦めた僕らには往路の逆戻りしか残っていなかった。坂道の上り降りが急にできなくなった同行者の左足の怪我。それは本格的な登攀前の、言わばウォームアップ段階での、呆気ないものだった。しかし、その怪我の発生が時間的に少しずれて、もし北穂登攀中に起きていたら、僕らは救助隊を要請せずにはいられなかっただろう。月並みながら、不幸中の幸いだったと僕らは何度も自分に言い聞かせた。

帰路、梓川の岸辺で、同行者のMは晴れ上がっていく空に峻嶮な峰を見せ始めた明神岳を仰ぎながら、「悔しいなあ」と独り言のように言った。僕は僕で顎を上げて高嶺に輝く明るい赤の点在を見上げながら、果たせなかった野望を見送った。あの雲の向こう側で稠密な等高線を駆け上っているのはもう一人の僕だった。ここに何も得ずに突っ立っているのは誰なのか。僕は僕を名付けえぬままただ非情の気が漲る峰や岩肌を見上げていた。僕はそこに何かを失ったから突っ立っていたのではない。〈何も失わずに〉、きのうと同じ平板な気分のまま、ただ天運に恵まれなかった自分たち自身を味わっていただけだった。

人生が短いのではない。幸福な時間が短いのだ。(「山際俗歌集」より)

横尾大橋で後退を決断した時から僕らの心に纏わり付き、僕らの心を包囲していたのは確かに不運な落とし穴付きの時間とも言うべきものだった。そして、それとは別に、少なくとも僕の内部には、今回の涸沢行きが決まった瞬間から或る慕わしい恩愛の時間が流れていた。これら二つの時間の流れが、ふと気付くと、重層的に僕の内部で鬩ぎ合っていた。

結果としては僕らは何の成就感も得ることなく、山に背を向けて空しく後退した。しかしながら、一方では、他のものでは埋め合わせできない僕の内部の空無感が、久し振りにこの山行によって埋められつつあったことも事実だった。

梓川の東側の砂礫地に張った狭いテントの中に横たわり、僕は腕時計を見た。絶え間のない瀬音。無風。午後1時過ぎだった。薄黄色のテントの外は強くない雨。僕は翌日の夜明けまでの退屈な時間の長さを思った。小型ラジオの電源を入れたが、ジージーと鳴るばかりでなぜか放送は入らない。携帯電話も圏外表示のままだ。たった一つの酔える音楽も心に蘇らなかった。こういう枠に嵌められていない、言わば純粋な時間の中に沈潜することを、自分は長い間待っていたのではないか。と、僕は自分に問うた。待っていた状況とはかなり違うが、しかし、確かに僕は自分が他人に拘束されない、有り余るような自由な時間の到来を待っていたことには間違いない。問いに対しては肯うしかない。と同時に、その待っていた体験を実際に味わう段になってみると、当ての外れた僕は戸惑いを味わわざるを得なかった。こんな味気ない、面白味のない時間の連続を、自分は待っていたのだろうか。テントの外面では雨粒が音を立てて躍っていた。狭苦しい空間で、僕は前夜宿泊した平湯温泉の湯の暖かさを思い出したり、広々とした10畳の部屋を独占して食べた美味しい料理を反芻したりした。同じテントの中には、左足を痛めたMが横たわり、僕の顔の方に足を向けていた。安静にしているしかないMの傍らにいると、僕の口数はおのずと少なくなっていった。

僕は出発日の1週間前から腰を痛めていた。腰にはコルセットが巻き付いていた。僕は腰を気にしながら横尾山荘管理下のキャンプサイトでテントを張っていた。その日、2010年10月9日土曜日、僕らの計画はMの突然の怪我で頓挫した。北穂を目指して登攀中に滑落するという最悪の危険については考えないこともなかったが、それはありふれた、抽象的な事故予見のパターンの一つに過ぎなかった。具体的な、偶発性に満ちた事故を予め読める者などいないだろう。何が起きるか、何が起きやすいかは列挙できても、時間的空間的に、かつ、内容的にも限定して予見できる者などどこにもいない。同行者のMが、まさか横尾大橋を渡った所で、言わばハイヒールでも歩けるようなハイキングコースで足を痛め、僕らの計画を頓挫させることになるとはまったく予想外の出来事だった。

僕らは10月9日土曜日、午前5時半平湯バスターミナル出発のバスに乗って上高地入りをする予定だった。僕は前夜から平湯温泉に泊まっていた。旅館「愛宝館」の女将は、「この時期の土曜日はアカンダナ駐車場から上高地行きのバスが出ることになっています」と教えてくれた。僕は午前4時半に起床し、フロントに置いてあったお握りの包みをザックに詰め込み、旅館からアカンダナ駐車場へ向かった。小雨が降っていた。暗かった。無人のゲートを通過した。駐車している車も登山客も多いと感じた。5時半のバスは登山客で満員になった。多くの乗客が大きなザックを胸に抱えて乗っていた。濃飛バスの係員が、「満員なので平湯バスターミナルに寄らずに上高地へ直行します」と乗客に告知した。前列2番目に座っていた僕はすかさず、「平湯ターミナルで連れの者が乗ることになっているんです」と言った。係員は平湯ターミナルに寄ることを請け合ってくれた。

東京から夜行バスで駆けつけていたMは、しかし、平湯バスターミナル発の別の5時半のバスに乗って出発していた。結果として5時半のバスは1本ではなかったわけだ。時刻表記載の「平湯バスターミナル発の午前5時半のバス」とは、文字通りのバスとアカンダナ発の午前5時半のバスとの少なくとも2本のバスを意味していた。そんなことまでをバス時刻表から読み取れる者はいないだろう。推測だが、濃飛バス側ではハイシーズンの週末には常に臨時便用の運転者と車両とを用意しているのだろう。

上高地バスターミナルは混雑していた。地面にザックを置いて装備の整理をする者、朝食のお握りを食べる者、トイレの前に並ぶ者、仲間と談笑する者、切りそろえた前髪が一際目を引く可愛い女の子、そして、そういう人々の間でMの姿を探す僕。トイレの前の長い列、登山届を記入する人々、前髪を切りそろえたクールな顔立ちの女の子、あちこちで装備を確認している者、そして、そういう人々の間でMの姿を幾度も探す僕。焦っている時は、何と早く時間が流れるのだろう。ここでも携帯電話は圏外を表示していた。役に立たない。微かな焦燥感が段々と固まり始め、僕の胸の中で徐々に砂嵐を巻き起こし始めた。僕は仕方なく6番乗り場の柱の前で動かずにじっと待つことにした。しばらくすると、たまたま電波が繋がったのか、携帯の音が鳴った。電話を左耳にあてながら前方を見ると、Mの顔が人々の間に浮かんでいた。ようやく出会えた。今後待ち合わせ場所はもっと限定的に、たとえば「ナナちゃん人形の右足から5歩以内」と取り決めるべきだ。(名古屋文化圏以外の人には通じないか)僕は自分にそう言い聞かせた。

10月9日午前7時前、上高地バスターミナルの売店で一包み400円のお握りを昼食用に買って出発した。カッパを着ていた僕らはカッパ橋にも立ち寄らず、12キロ超の重いザックを担いで涸沢に向かって歩き出した。両肩にザックの重みが食い込む。柔い肩だ。辛かった。日頃の鍛錬不足が悔やまれる。雨は小雨だが、僕の心を濡らした。心の中に降り込んで来た。僕は気の小さな、度胸のない、女々しい男だ。山際を歩きながら僕は僕の正体を見付けた。もっと自信を漲らせて堂々と歩けないものか。僕は僕を責めるともなく責めながら歩いた。紅葉の季節の三連休なので大勢の登山客が列をなして歩いていた。明神、徳沢、横尾と予定よりは少し早めに踏破することができた。順調だった。25,000分の1の地形図を見れば分かることだが、この辺りは遊歩道のようなものだ。雨がひどくならない限り涸沢までは何とか無事に行けそうな雰囲気だった。

僕らは「横尾山荘」前の横尾大橋を渡った。僕は前を歩いていた。Mの足音が聞こえない。振り返ると、Mが橋の階段下で片足を曲げ、顔をしかめている。
「どうした?転んだのか?」
Mは否定した。足を捻ったわけでもなく、転倒もしていないと言う。どうなったのか。僕は何度も心の中で問うた。
「歩いていたら急に左足の膝の辺りが痛くなった。曲げると痛い」 嘘のような話が僕の耳に入ってきた。こんな事が起きるのか。僕はゴアテックスなのに雨が染み込んできていた自分のジャケットを意識していた。Mは平坦な道なら歩けるが、坂道の上り下りは痛くて出来ないと言う。僕らは登攀計画を断念せざるを得なかった。即断だった。ゆっくりと横尾大橋の階段を逆戻りして、「横尾山荘」の受付に急遽キャンプの申し込みをし、雨の中テントサイトにテントを張った。支持ロープはすべて近くに置いてあった大きめの石に括りつけた。テントの中に入り、濡れた雨具と登山靴を脱ぎ、ビニル袋に入れて始末した。テントの中は狭いが、雨は防げた。銀色のシートの上に座り込んで、僕は少しだけ心の平安を取り戻した。腕時計を見た。正午だった。僕らは水を飲み、昼食を取ることにした。僕は酒を飲みたかったが、酒を飲むと頻尿になる。雨の中トイレに行くとなると、その都度カッパを着て登山靴を履き、戻って来たら、また濡れたカッパと登山靴の始末をつけなければならない。面倒くさい。僕は酒を諦めた。

昼食後、僕らは横になった。僕は腕時計をみた。梓川の瀬音が耳に響く。午後1時過ぎだった。明日の朝までの気が遠くなるほどの時間が僕らの前に横たわっていた。僕は時の流れを追わないようにした。雨粒がテントの外皮を打ち続けるのを僕は聞いていた。一つの雨粒の落下の次には同じような雨粒が音を立てて落下し、同じように薄い外皮の表面で崩れていった。僕は湿った大地と暗い天との間の狭苦しい世界で雨粒を数えるほかには何も出来なかった。寒くはなかった。瞑目しても、ただ現在という一刻が次の現在という一刻につながるだけだった。何もしなければ、何も産まない時間が流れるだけだ。灰色でもなければ、薔薇色でもない。瞼の裏側の薄黄色い世界が続くだけだ。Mも居眠りをしているようだった。見張っていると、秒針の歩みはいらつくほどのろい。耐えられない時間を、きのうまでの自分は優雅な時間と見なして憧れていたことになる。どんな時間でも実際に自ら体験しなければその真の味は分からない。

 僕は思う、起承転結が明確な、物語のための物語は要らない。破綻や不調和、天への呪い、そういう否定的なものの間から真の味を抉り出すことこそ重要だ、と。僕らは北穂高岳にはいずれまた挑むだろう。どんな決意であろうと、それが自分にとって決意である以上、それは一つの征服すべき頂だ。

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