岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

西表島紀行

           西表島紀行 

                           山際 うりう

 夏になると、何が物足りなくて、違う土地へ、知らない土地へと旅に出掛けたくなるのか。去年、僕は宮古島へ行った。今夏、なぜ僕は再びそこへ行かないのか。行きたくないのではない。赤岳などは何度も登るだろう。ただ、今回は、再訪したい気持ち以上に強い気持ちが、心の叫びのようなものが、去年とは違う場所を目指すことを僕に圧倒的に促したのだ。「何をするという目的もなく出掛けること」、これが言わば僕の今回の旅の主目的だった。
 僕の旅は2007年9月17日、午前5時に始まった。多治見の自宅をホンダのCRVで出発。せと品野ICから大府までは東海環状自動車道、大府から大府西までは国道302号、大府西から半田中央JCTまでは知多半島道路、半田中央JCTから常滑ICまでは知多横断道路を利用。その常滑ICから予約しておいたL駐車場まではすぐだった。自宅からの所要時間は約1時間20分。セントレア空港には午前6時45分到着。8時の離陸までたっぷりと時間があった。空港内でビールを飲んでゆっくりと過ごした。
 那覇到着午前9時45分。着陸の数分前、我々の機体はかなり上下に揺れた。操縦の上手下手の問題ではなく、乱気流の影響だっただろう。少々恐怖感を味わった。僕は飛行機嫌いだ。周囲を見回すと、揺れを気にせずに同行者と談笑したり、新聞を平然と読んだりしている人ばかりだった。僕は着陸時ばかりでなく、離陸前からずっと気がかりで、結局機内では、広げたプルーストの1行も読めずに終わった。もし他の乗客が皆僕と同じような表情をしていたら、僕はこらえきれずに離陸する前に飛行機から降りていただろう。
 那覇空港から石垣へ。乗り継ぎまでに時間があった。免税店で高級腕時計やバッグを眺めた。買うお金もなかったが、欲しいという気持ちがまったく湧いてこなかった。漂うように空間を浮遊した。空港内の店でソーキそばを食べた後、11時50分、那覇発石垣空港行に搭乗。欠航にはならなかった。ただ、上空での飲み物のサーヴィスは、揺れの恐れがあったので取り止めになった。口には出さなかったが、100円返金して欲しかった。貧乏人根性は雲の上でも雲散しなかった。13時7分、石垣着陸。着陸前に機長は「滑走路が短いので急ブレーキをかけます。今一度シートベルトを確認してください」とアナウンスした。確かに滑らかな着陸ではなかった。空港の出口を出るとすぐタクシーで石垣港へ向かった。息をつく暇もなかった。遊ぶのも忙しかった。
 「西表島にはタクシーは5台しかないですよ」
  タクシー運転手の話を聞いて、僕は思わず驚きの声を上げた。
 「じゃ、石垣島には何台あるんですか」
 「350台くらいです。夏休みにはレンタカーが2500台くらい走ります」僕はまた驚く。石垣の人口45,000人。西表2,300人。人口の差は驚きの対象にならない。西表島のタクシーの少なさには驚く。(後でホテルニラカナイの案内嬢から聞いたことだが、島の北部に割り当てられているタクシーは1台だけだそうだ。観光客の間で取り合いになることもあると彼女は笑いながら言った)。
 14時30分、石垣港からサザンイーグル号に乗船。目的地は西表島。台風の影響のため石垣港発上原港行は欠航。やむを得ず、急遽大原港行に乗る。こちらの航路は比較的波がまだ穏やかという話だった。船は波の上を飛ぶようにして走った。まさしく快速だった。頬に当たる海風が気持ち良かった。大原港からはバスで宿泊地ニラカナイへ。船賃とバス賃を合わせてちょうど2,000円だった。バスの乗客は10人ほどだった。バスの運転手は観光スポットに近づくたびに短い説明をしてくれた。山猫の絵と「イリオモテヤマネコに注意」という文字が書かれた看板が、道路の曲がり角ごとに立ててあった。と、言えば、言い過ぎか。いずれにしろ、やたらと目に付く看板だった。実際に道路を横断している動物に出会ったが、それは山猫ではなかった。一頭の子ヤギだった。昼間からイリオモテヤマネコは出ないだろう。
 少しだけ時間を遡る。石垣港の待合室でサザンイーグル号を待っていると、前列左前の席に座って昼間から缶ビールを飲んでいたおじさんから話しかけられた。おじさんは上半身だけ右後ろに捻り、右に缶ビールを持ったままだった。身なりや態度から受けた第一印象は良くなかった。しかし、僕も朝からビールを飲んでいた男だ。だらしなさにかけても人後に落ちない。要するに、似たり寄ったりだ。どの程度の情報を得られるか。僕は色々と尋ねることにした。台風のこと、第2石垣空港建設問題のこと、ビールのこと、塩のこと、島の人口態様のことなどを。会話の中で、おじさんは僕のことを「にいさん」と呼んだ。やりとりを全部書くと長くなるので、本の一部だけ書くことにする。
「・・・今の滑走路が短いということですか」
「うんそうだ。東京の運動家連中が一坪地主になって反対している。」
「未来の石垣市長としては、見通しはどうですか」
「ハハハ。私が市長ならにいさんは助役だ。ハハハ。実現は難しいよ」
おじさんが笑った。前歯は3本しかなかった。
「ビールはうまいですか」
「うまい。ビールはキリンが一番うまいが、オリオンの方が安いからこれを飲んでるよ」
  僕はバッグからキリンの一番絞りを取り出し、おじさんに「どうぞ、飲んでください。キリンだから」と渡した。おじさんは一度遠慮したが、受け取った。
 「にいさんはいい人だ。ちょっと話をしただけでくれるなんて」
 「いい人」ではなく、実は、悪い人なんですとも言えないから、僕は黙っていた。出航の時刻が迫ってきた。
 「にいさんはいい人だ。せめて名前だけでも聞かせてください」
 問われて名乗るも、また、名乗らぬもおこがましかったので、僕は素直に「山際です」とゆっくりと発音した。その日は敬老の日だった。おじさんは、一人でいることの憂さを忘れるために、石垣港の船や人の出入りを眺めながら一杯飲むことにしたのだろうか。缶ビールを渡す時、僕は「冷やして飲んで」と言った。おじさんは、しかし、船が出航すると、すぐプシュッと缶を開けたような気がする。誰にでも、待てば海路の日和があるとは限らない。
 西表島のホテルニラカナイに到着したのは16時5分。自宅を出てからホテルの窓際で南の島の水平線を眺めながらオリオンビールを飲むまでの所要時間は11時間。遠いようで近かった。旅の疲れはまったくなかった。
 台風12号接近のため外は強風だ。灰色の厚い雲。翌日の暴風雨は必至だったので、何とか歩けそうなうちに近くの星砂ビーチまで散歩することにした。周りの畑にはサトウキビとかパイナップルとかが雑然と植えられていた。黄金色に輝く稲穂を見慣れた僕の目には寂しい風景だった。所々に黒い岩のような牛がじっと動かずにいる。食べられるだけの運命が待ち構えているのか。牛の体に付きまとう虫を食べるのだろう、牛の傍には白い鳥が5、6羽、持ちつ持たれつの関係を築いているようだった。片道30分程で星砂ビーチに着いた。下の方から引き揚げてくる一組のカップルとビーチの入り口で擦れ違った。彼らも塞いだ顔をしていた。ビーチは殺風景だった。他には誰もいなかった。海の色も空の色も灰色だった。戯れに砂浜に足跡を付けても、気分は少しも浮き立たなかった。仕方なく同じ道を引き返した。ヤエヤマヤシの並木だけが僕に僕の居場所を何度も告げていた。散在する民家の人たちは、窓に角材を縦に隙間なく並べたり、家の前の作物用の支柱を紐で固定させたりして台風に備える作業をしていた。落ち着いて手馴れた、あまりにも静かな作業風景だった。
 ホテルの近くに、キッチンイナバというレストランがあった。窓ガラス越しに白くて高い帽子を被っている二人の料理人の姿が見えた。本格的なレストランの雰囲気だった。滞在中に一度は入る積もりだったが、台風被害による臨時休業のため結局は入れずじまいだった。中では2本の煙突のような帽子が時々交錯するような動きを見せていた。ディナーの準備をしている様子だった。
 朝も昼も碌に食べていなかったため飢えていた。その日のホテルの夕食は、バイキング形式を選んだ。食卓は様々な客で埋まっていた。世の中には、確かに暇な人が大勢いる。満腹になるまで食べた。「さんぴん茶」という名の地元産の茶とお粥がおいしかった。
 9月18日火曜日、ニラカナイのホテルは台風の真ん中にあった。一歩も外に出られない。三階の僕の部屋の外は吹き曝しの通路だった。食事のため部屋の外に出るたびに、強風に吹き飛ばされそうになった。部屋の中から眼下の海を眺めると、波の色は泥の色だった。南の島で台風を眺めるのも一つのいい体験だ。そう思って注意深く眺めていると、屏風のように押し寄せる荒波の動きに飽き飽きすることもなかった。
 9月19日水曜日、台風は去ったが、被害は時間とともに増えていくばかりだった。僕はただもう外に飛び出したい気持ちで一杯だった。ホテルのレンタカーを借りて、行ける所まで行くことにした。
西表島の幹線道路は一本だけだ。僕は南下した。あちこちで倒木が道を狭くしていた。橋の上の出水。横転している自動車。垂れ下がった電線。コンクリート製の電柱までが無残にも折れていた。根元部分から折れているものが多く、折れ口から中の太い鉄筋が何十本も見えていた。走行しながら、倒壊している電柱を数えると、約30本。道路を塞いで通行の妨げになっているものもあった。電力会社の職員が十数名、早くも現場で復旧作業をしていた。僕は倒壊した電柱と工事用重機との狭い間を通り抜けて走った。最も電柱被害の大きい場所に地元テレビ局の取材班がいた。暫く僕は取材の様子を見ていた。(その夕刻、ホテルでテレビを見ていたら、偶然、その時の取材班のニュースが流れた。残念ながら僕の顔は映っていなかった。残念ながら?・・・もし映っていたら、僕は愚かにも、多少の喜びを感じたのだろうか、他人の被害の中で)。その先の西表島温泉も由布島も閉鎖されていた。仕方なく僕は同じ道を引き返した。
 ホテルに戻ると、すべてのツアーが中止になっていた。自室でテレビをつけると、ニュースは停電、断水を告げていた。(ホテルには自家発電装置があった)。ホテルのパソコンを使おうと思って1階ロビーに降りて行ったら、ネットも使えなくなっていた。(その後、21日金曜日のことだが、小浜島の居酒屋の主人から聞いた話では、携帯電話も使えなくなったそうだ)。部屋の窓から眺めると、海の色は、しかし、泥の色から蓬色に変化していた。だんだん青くなっていくのか。
 
続く

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