岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

月山紀行

月山紀行
                     山際 うりう


月山は一度登ればいいだろう。リフト、雪渓、夏スキー。そして、頂上の神社での神酒。これが、月山についての僕の粗描だ。頂上と言えば、― どこが頂上か分からなかった。どこが一番高いのだ。頂上に到着したはずなのに、どこにも標識がない。尋ねるしかない。戸を開けて、頂上の山小屋に入った。奥のほうでチラッと女性の顔が見えた。登山客は誰もいない。外は、すぐに、かなり強い雨になってきた。靴を脱ぎたくなかったので、僕は玄関口で着替えることにした。
 前の晩は、姥沢の駐車場で過ごした。星空を見ながら、不安に似た恐怖感、あるいは、恐怖感に似た不安を味わった。人気のない、荒々しい山野で一人で過ごす夜は、やはり心細いものだ。つくづく自分は臆病者だと思う。酒を飲んで現実逃避するところまでは行かなかったが、重苦しく窮屈な時間を過ごしたこと、これだけは紛れもない事実だった。「では、どうして家にいてテニスの試合とか昔の映画とかをビデオで見て過ごさないのか、そのほうが心地よいのでは?」と尋ねる人がいるかもしれない。自分でもよく分からない。そう答えるしかない。大きな冒険はできないけど、小さな冒険ならしてみたい。そんなところが、自分の心だったかもしれない。 前の晩は星空だった。登頂時は、雨だった。雨と言っても、初めは気にならない程度だった。着替えを済ませた後、奥に向かって、「すいません。休憩料を払います」と挨拶をした。最初見た若い女の子が再び顔を出した。毎年驚くことだが、夏の山小屋では、なぜか若くて可愛い女の子が働いている。僕はそういう女の子を見ると、無条件で尊敬してしまう。30年遅かったな、と思う。2007年8月9日午前9時12分、月山頂上小屋。標高1,984m。僕は彼女に、「頂上はどこですか?」と尋ねた。頓馬だった。しかし、本当にどこが頂上か分からなかった。彼女は「神社です。三角点は神社の裏側です」と教えてくれた。僕は、少し体が冷えていたので、壁に張られていた値札を見ながら、「うどんは、今でも出来ますか?昼にしかできませんか?」と聞いた。彼女は「出来ますよ」と言った。僕は「じゃ、後で注文します」と言って、外にでた。小奇麗で、大きな山小屋だった。宿泊する予定はなかったが、快適に泊まれそうな雰囲気だった。しばらくすると、雨が止んだ。
 神社に入った。入るためには、誰でも500円払う必要があった。神官が祈祷してくれた。白装束の神官は全部で少なくとも7人はいた。順路に従い一巡りした。出口付近で、痩せた、頼りなさそうな若い男が「お神酒です。どうぞ」と白い杯に注いでくれた。お神酒と言われた以上、拝辞するわけにはいかない。小さな杯にほんの一杯。それが、しかし、なぜか美味かった。死の山、月山で、僕は蘇った。今まで、僕は酔うために、あるいは、自分の憂さを忘れるために、酒を飲んでいた。この時は、しかし、結果として、蘇った。自分に戻った感じだった。酒は、蘇るためにこそ飲むべきなのか。
 月山は醍醐味が味わえる山ではない。僕はもう二度と登らないだろう。誰でも簡単に登れる。一度は登るといいだろう。僕は、月山そのものよりも、森敦の小説「月山」のほうに惹かれる。機会があれば、雪深い季節に肘折温泉に泊まり、月山周辺を徘徊したいものだ。僕も小説「月山」の主人公のように、この世にはもう行く所も帰る所もない身の上になってしまったから。あるいは、こう言うべきか。まだ行く所も帰る所も見つかっていないから、と。
 注連寺を訪ねたのは、月山に登った後だったろうか。確か8月10日の午後5時頃だった。寺の住職の嫁はんのことを日本語でなんて言うのだったか。ご新造はんか。忘れてしまった。ともかく、その住職の嫁はんが、寺内を案内してくれた。即身成仏のミイラがガラスケースの中にあった。何の感慨も生じない。自分は仏教徒ではない。なりえない。つくづくそう思わせられた。真正の仏教徒ではないが、拝まずにはいられないという場面に出くわすことがあることも事実だ。住職の嫁はんによる一通りの説明が終わった頃だった。彼女が、遠くの山を指差しながら、「ここから月山があの辺りに見えるんですが、今日は残念ながら見えません」と言った。僕は遠くの、見えない山のほうに視線を投げかけた。不運だった。しかし、仕方がない。見たいものは、この世ではなかなか見られないものだ。
 
 

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