ポルタと自然魔術
ジャンバティスタ・デラ・ポルタは、フィチーノやカンパネラ、ピーコといった他のルネサンス期の自然魔術師たちと異なり、宇宙の体系化や抽象的な議論よりも、より具体的な技術について語ることを好んだ。
ポルタの代表的な著書「自然魔術」、「手相術」、「人間の人相術」、「天界の観相術」は、いずれも実用的な技術について語ったものばかりである。
自然哲学を実践に応用することに、一番の関心を持っていたわけで、もっとも魔術師的といえるかもしれない。
ポルタの著書で最も有名なものは、やはり「自然魔術」であろう。
この本を読んでみると、現代人なら理科の教科書を思いつくのではないだろうか? レンズと光の屈折についての記述や磁石のS極とN極に関する記述などは、科学史家からも高く評価されるところである。
他にも薬草や鉱石に関する記述もあり、胎教を思わせる子供の産み分け法、金や宝石の偽造方法から、果物の保存方法まで、多岐に渡る。
もっとも、これらの記述には、確かに現在の科学の常識から見れば、おかしなものも多い。だが、この当時としては、その観察と実験を重視したポルタの方法に、近代科学の芽のようなものを感じ取った方もおられるだろう。事実、ポルタも、実験の重要性を唱え、書物の記述や先人の教えを鵜呑みにするのではなく、実験によって効果を実証することの必要性を説いている。
実際、ポルタは、最も近代科学に近づいた自然魔術師であったとも言えるだろう。
しかし、ポルタが奉じていた体系は、やはり科学ではなく魔術であった。
自然魔術は、「自然」に対する考え方が全く違う。
ガリレイに代表される「近代」科学は「自然」を、無機的な数学的法則に基づいて動く機械と考える。それに対して、自然魔術は「自然」を巨大な有機的な「生き物」と考えるところが違う。
(これについて、ここで正確に詳しく述べるのは、私の能力を越えている。だから、はしょりまくって、大雑把に解説することを許していただきたい。)
さて、ここで重要になってくるのが、「スピリト」と言う考え方だ。ポルタの理論によると、万物は、「四大元素のもつ特質」と、これによって構成される「質料」があり、これに「形相(性質を与える力)」が働きかけ、「質料」は「形相」の影響を受けて初めて、「物」として完成する。
例えば、「四大元素の特質」として「土」があったとする。「土」の持つ特質は「乾燥」や「冷たい」や「固い」である。この特質が、形を持ったものが「質料」である。これに、「光り輝く」、「正多面体の結晶を作る」という「形相」が働きかけ、それを「質量」が受け止めて活性化した時、「宝石」という現象が生じるのである。
この時、スピリトと呼ばれるものが重要な役割を果たす。スピリトは、この「形相」が「質料」に伝達される時の媒体の役割を果たすのである。
つまり、このスピリトは、全宇宙に充満している。そして、音叉の振動が空気を媒体にして他の音叉に伝わってそれを振動させるように、スピリトは「形相」という振動を様々な物に伝えているのである。
ちょうど人間の身体の中に血液が流れ様々な内臓どうしを関係づけているように、宇宙にはスピリトが循環し森羅万象の万物を関連付けているのだ。
こうした「形相」の総元締めが、「自然界」を制御する「世界魂(アニマ・デル・モンド)」である。
言うまでも無く「形相」は、天上界から発信される。「霊魂」という名の「形相」が天からスピリトを媒体にして発信され、それを「質料」が受け止めて「人間」という現象が起こっているのだ。
「形相」には、夥しい種類があるし、その流れ方も決して一歩通行ではなく、複雑だ。
さらに、あらゆる事物には、隠された固有の意味が存在し、それらには連鎖関係が存在する。
空高くある天体と人間の関係も同様だ。天体と人間は、スピリトを媒体にして共鳴し合っている。占星術が当たるのは、このためである、と考えられた。
こうした考え方は、新プラトン主義で言うところの「流出説」や、ヘルメス哲学で言うところの「宇宙生命の連鎖的秩序」、ピタゴラス学派言うところの「星界の音楽」などの思想が、整理統合されて作り出された考え方である。
これは自然哲学を実用化させようとした自然魔術師達の根幹となる思想であったのだ。
もっと、分かりやすく言うならば、この世にある全ての物は、天体も動物も植物も鉱石も人間も、精霊や天使でさえ、統べてスピリトを媒体にして共鳴しあい、連鎖している。このスピリトを媒体にした連鎖関係は、それこそ絡まりあった網の目のように複雑だ。しかし、この網の目の構造を理解できれば、その人は奇跡のような技を行うことができる。
これが、自然魔術であるのだ、というわけだ。
こうした連鎖の関係は、磁石のように共感することもあれば、反発することもある。
例えば、血に酷似した色を持つ血玉髄という宝石は、血に似てるゆえに人間の循環器と共感関係にあるので、循環器系の病気を癒す力がある。
ブドウはアブラナにだけは巻きつかない(と当時は信じられていた)。これはブドウとアブラナとの間に反発関係があるためである。だから、ブドウ酒の飲みすぎの二日酔いには、アブラナの煎じ汁が効く・・・。
といったこんな具合である。
こうして「自然」をスピリトの循環による「有機的」な生物として捕らえ、この考え方を基にして、観察や実験を行うわけで、そういった意味で、自然魔術は自然科学とは異なるのである。
だが、ポルタは、ことのほか実験による実証を重視していた。
だから、儀式魔術に親しんだ人が、彼の著書を読めば違和感を感じるかもしれない。
まず、彼の著書には、呪文や不思議な図形の類は出てこない。当然だろう。自然界の連鎖反応を知り、その性質を使うだけなのだから、言霊や精霊の助力だのは必要ないのだ。
また、彼は錬金術についても、「賢者の石」だの「不老不死の金の酒」だの、そんなことは夢である、と切って捨てる。では、錬金術は無価値か? そうではない、自然魔術師が行う錬金術とは、金属の連鎖関係を知り、これを活用させる技術である、という。こうした技術を使えば、鉛を金には変えられずとも錫を鉛に変えたり、アンチモンを鉛に変えたり、銀から少量の金を抽出したりすることは出来る。これが、真の錬金術である、と。
ポルタは、自然魔術を、悪霊を呼び出してその力を借りる黒魔術と区別することを、強く主張している。にも関わらず、ポルタは妖術師、黒魔術師と攻撃されることも少なくなかった。
実際、レリファス・レヴィが引用してるような恐ろしい毒物の調合もポルタは記しているが、これとて霊の力を借りるようなものではなく、それ自身は善悪とは無関係な自然の事物を利用した技術にすぎないわけなのだ。
ポルタは、1535年イタリアのナポリで生まれた。一族は海産業を営む裕福な家で、貴族並の高い教育を受けたらしい。
「自然魔術」は1558年に四巻本として出版され、各国語に訳され版を重ねるベストセラーとなった。彼は「怠け者達の会」なる魔術研究の会を作り、多くの知識人や職人たちと交わり知識を集めた。「記憶術」や「人相術」など多くの著を著し、1587年には「自然魔術」に大幅な増補を加え20巻本として出す。
また、劇作家としても名を高め、文学史にも名を残している。
1615に没する。
その名は長らく忘却の中にあったが、哲学史、科学史を研究する人達から、その重要性と巨大さが再発見され、今に至る。