居候犬 チャロとマロンとランとロロ

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本能寺の変

2020年05月14日 | 昭和の京都

 

わたしが小学生の頃は西洞院三条と言うところに住んでいました。

仲良しの友達は数軒離れていて小学校が違っていました。

わたしは明倫小学校・・・友達は本能小学校でした。

元々の本能寺があったところです。

 

小学生のわたしがお気に入りの遊び場は

御所や、御池通、六角さん・・・あと単なる生活道路でした

中でも六角通の新町から西洞院迄の坂道が自転車乗りには絶好の場所でした

新町から両手離しで西洞院へ向かって颯爽と走るのです

その頃は車も人通りもほとんどなく安全そのものでしたから・・・。

 

ところで、最近「麒麟がくる」の影響で

本能寺の変が良く取り上げられています

どうして明智光秀が簡単に信長を討てたのか・・・

その一因は坂道にあったとか・・・そうなんです・・・

この自転車乗りの坂道です

まだまだ田舎で家屋もなかった新町からは

手に取るように本能寺が見下ろせていた

 

そして西洞院には川があったらしいのです

わたしの時代には勿論西洞院通りに川はなかったのですが

本能寺の変があったころには川が流れていたそうです

名残りは地下に流れる西洞院川の水・・・

それは染め物には絶好の水らしいです

だから「染物屋」が西洞院通りに多いのです

 

母方の親戚も染物屋さんが数軒あります

ところで有名なのは黒染めの馬場さん・・・

わたしの時代ではまだ無名でしたが・・・

 

番外:(小さな情報)

馬場さんの隣にわたしが通い続けた一文菓子屋(駄菓子屋)さんがあって

向かいには兄たちの贔屓「誉」と言う

(今で言うなら)カフェバーがありました

 

そして宮本武蔵でお馴染みの「吉岡道場」

後に四条西洞院で染物屋として吉岡染、憲法染、憲法小紋で有名です。

(宮本武蔵の時代もすでに染物屋でしたが)

と、話がそれたので元に戻します。

 

と、別に戻すほどの情報でもなく

今やテレビの番組で多くの人が本能寺をご存じなんでしょうが

織田信長が討たれた本能寺は油小路にあったのです

今は京都市役所のそばに変わっていますが・・・

一之舟入に住んでいたころは今の本能寺の中を突っ切って

眼科に通っていました

 (って、なんの情報???まっ、その後縁あって一之舟入に住んだって事!)

 

別段取り上げるほどの情報でも話でもないのですが

良き時代、懐かしき昭和の京都は又暇があれば書きます。

 


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2 コメント

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こんばんは (ゆっきー)
2020-05-16 21:10:47
お寺の移転はほかにもよく聞きますね。いろんな事情があるのでしょうが、
今だと広い郊外に移転などという例も(笑)
昭和の話、続きを待っています。
返信する
おはようさんどす♪ (おちゃこ)
2020-05-18 06:26:43
ゆっきーさん
秀吉さんの時代にはお寺は寺町へ・・・
街中も区画整理で碁盤の目に・・・
この碁盤の目は今も役立ってると思います。
ただ市内が通り名でなく町名に変わったので困ります
ウチらの世代では通り名で言うてもらわへんと
どこかさっぱり分かりません。
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