冬が大好きな私は雪が降ると基本的に尻尾を振って喜びます。やはり雪はいつまでたっても新鮮です。つまり、それは私がまだ道民になりきれていない証拠です。別にいいじゃないですか。どうせ私は故郷を持たない、いわば放浪の士。どこへ行ってもそこに何年すんでも新鮮なものは新鮮です。
では、そもそも土地に馴染むとはどういうことなのでしょうか?道を覚えること?友達関係が広がること?住んでいて違和感を感じなくなること?
一般的には総合的でしょうが、やはり違和感がなくなるということではないでしょうか。引っ越したりした直後は道も分からないし、近所に知り合いもいません。落ち着かないというわけではありませんが、やはり今までに比べれば違和感バリバリです。まあ当然のことですが。そうして時間をかけていくうちに、いつの間にかその生活が当たり前になり、気づけば馴染んでいるわけです。
私も今まで何度も引越しをしていますが、そこでの自分の居場所を見つけることが馴染むことだと思っています。
違和感を感じるのは、まだそこでの自分の居場所が見えず、不安になっているからです。人間は一人では生きていけない生き物です。周りとの関係、その中にある自分の位置。そういったものを実感して初めて安心できるのです。ただ、普段はそれに気づかず、知らず知らずのうちに自分なりの居場所を見つけ、そして馴染んでゆくのです。そういった意味では、私はもう立派に今の暮らしに馴染んでいます。
私は一人の人間「十六夜」として学校の仲間たちや街の一員として確かに自分の居場所を自覚しています。それは誇れることだと思っています。人間誰しも知らないうちに自覚はしています。ただ、このように考えたりすることがないだけです。考える必要もありませんが、これは大事なことだと思います。
では、最初に言った道民になりきれていないということはどういうことなのでしょうか?
これは単に私の表現が間違っているというか、北海道の方に対して失礼な表現です。北海道に住んでいる以上、嫌でも道民です。なりきれていないというのは、逆に言えば私が北海道の人に対して何らかの偏見的な考えを持っているということです。雪にはもう慣れていて、むしろうっとうしく思うとかいったことが一般的には思われがちですかね。しかし、道民の中にも雪を新鮮に思う人もいるでしょうし、道の条例で道民とはこうあるべきだと示されているわけではありません。
われわれは常に偏見で物事を考えます。アインシュタインの言葉ではありませんが、やはり常識とは偏見のかたまりです。それは決してよいことではありません。が、一定のルールを築く上では仕方ありません。皮肉にも偏見はよくないといいつつ、われわれは偏見によって安定した生活を送っているのです。
道民はどうこうなどと考えている時点で私は既に偏見を持っているわけです。そのうちに慣れて、そのような考えは浮かばなくなるといいのですが。
話は戻りますが、長く住まないと馴染まない人もいれば、一年くらいで馴染んでしまう人もいます。それはやはり人それぞれとしかいえません。
人間関係の中では確かに自分の居場所を見つけても、まだ街の中のことが分からないので馴染めてないと言う人もいますが、それは街中に慣れていないだけであって、何度の行き来すれば慣れます。
街中を歩き、見知った顔を見かけては声をかける。なんとも幸せではないですか。そんな当然の行為が馴染むということなのです。
~本日の名言~
友情は瞬間が咲かせる花であり、そして時間が実らせる果実である。(コッツェブー)
では、そもそも土地に馴染むとはどういうことなのでしょうか?道を覚えること?友達関係が広がること?住んでいて違和感を感じなくなること?
一般的には総合的でしょうが、やはり違和感がなくなるということではないでしょうか。引っ越したりした直後は道も分からないし、近所に知り合いもいません。落ち着かないというわけではありませんが、やはり今までに比べれば違和感バリバリです。まあ当然のことですが。そうして時間をかけていくうちに、いつの間にかその生活が当たり前になり、気づけば馴染んでいるわけです。
私も今まで何度も引越しをしていますが、そこでの自分の居場所を見つけることが馴染むことだと思っています。
違和感を感じるのは、まだそこでの自分の居場所が見えず、不安になっているからです。人間は一人では生きていけない生き物です。周りとの関係、その中にある自分の位置。そういったものを実感して初めて安心できるのです。ただ、普段はそれに気づかず、知らず知らずのうちに自分なりの居場所を見つけ、そして馴染んでゆくのです。そういった意味では、私はもう立派に今の暮らしに馴染んでいます。
私は一人の人間「十六夜」として学校の仲間たちや街の一員として確かに自分の居場所を自覚しています。それは誇れることだと思っています。人間誰しも知らないうちに自覚はしています。ただ、このように考えたりすることがないだけです。考える必要もありませんが、これは大事なことだと思います。
では、最初に言った道民になりきれていないということはどういうことなのでしょうか?
これは単に私の表現が間違っているというか、北海道の方に対して失礼な表現です。北海道に住んでいる以上、嫌でも道民です。なりきれていないというのは、逆に言えば私が北海道の人に対して何らかの偏見的な考えを持っているということです。雪にはもう慣れていて、むしろうっとうしく思うとかいったことが一般的には思われがちですかね。しかし、道民の中にも雪を新鮮に思う人もいるでしょうし、道の条例で道民とはこうあるべきだと示されているわけではありません。
われわれは常に偏見で物事を考えます。アインシュタインの言葉ではありませんが、やはり常識とは偏見のかたまりです。それは決してよいことではありません。が、一定のルールを築く上では仕方ありません。皮肉にも偏見はよくないといいつつ、われわれは偏見によって安定した生活を送っているのです。
道民はどうこうなどと考えている時点で私は既に偏見を持っているわけです。そのうちに慣れて、そのような考えは浮かばなくなるといいのですが。
話は戻りますが、長く住まないと馴染まない人もいれば、一年くらいで馴染んでしまう人もいます。それはやはり人それぞれとしかいえません。
人間関係の中では確かに自分の居場所を見つけても、まだ街の中のことが分からないので馴染めてないと言う人もいますが、それは街中に慣れていないだけであって、何度の行き来すれば慣れます。
街中を歩き、見知った顔を見かけては声をかける。なんとも幸せではないですか。そんな当然の行為が馴染むということなのです。
~本日の名言~
友情は瞬間が咲かせる花であり、そして時間が実らせる果実である。(コッツェブー)