私は最近ホームページを立ち上げまして、その中で神奈川県西地方の民話を紹介しています。今日も町の図書館へ行って民話の情報を集めてきました。その一つに「左地蔵さん」の話がありました。合掌している地蔵さんも多いのですが、普通の地蔵さんは左手に宝珠(ほうじゅ-たま)、右手に錫杖(しゃくじょう-杖)を持っています。しかし、山北町の山市場(やまいちば)にある地蔵さんはそれらを左右逆に持っていたのです。
昔、このことから山市場村の人たちは「縁起が悪いのでは?」「作り間違えだろう」「よその人からバカにされる」など迷惑がっていた。更には「村が栄えないのは、この地蔵さんのせいじゃないのか?」とまで非難を浴びせていました。そこで村人たちは、この地蔵さんを川に捨ててしまったのです。ところがそれ以降、地蔵堂以外の村の全ての家が全焼したり、疫病が流行ったりして何人も亡くなってしまった。そこで村人たちは「これは地蔵さんのたたりだ」と悟り、川から地蔵さんを引き上げて念仏を唱えて許しを乞うた。それ以降は火事も疫病もなくなった・・・というお話です。
地蔵さんに限らず、魂の入った仏像や宝物や彫り物などの人工物から、大木など自然界でも際だった物に至るまで、それらを意味無く壊したり、無造作に扱ったりすれば災いが降りかかってくると言う話は多数あります。現代では、「物を大切にしましょう」という昔の教えから生まれたおとぎ話と言う方も、非科学的と言う方もいらっしゃるかと思います。
私は「丹精して作ったり育てた物を大切にしない」という人には、いつかその報いが来るという教えに共感します。また、うわさ話に翻弄されたり、簡単に物事の責任を他人に転嫁したりするという心の狭さや汚れが、いつしか仇(あだ)となって我が身に降りかかる時が来るのも自然の摂理だと思います。こんな事を言うと宗教じみていますが、私のとらえ方はそんな「宗教」なんて言う狭いものではなく、もっと広い「人の心の奥深さ」を感じるのです。また時代も関係ありません。人の心の弱さはどの時代も同じです。
特に人が汗水流して作った物や、育て上げた物にはその人の知恵や愛情等が詰まっています。そういう物を大事に感謝して使わせて頂く、食べさせて頂く気持ちが人として大事だろうと思っています。私はまだまだそういう心の持ち主になるには遙かに遠い人間ですが、少しでも近付きたいと思います。
一つの民話をじっくり読んで、改めて自己を振り返ることが出来たと思う次第です。
昔、このことから山市場村の人たちは「縁起が悪いのでは?」「作り間違えだろう」「よその人からバカにされる」など迷惑がっていた。更には「村が栄えないのは、この地蔵さんのせいじゃないのか?」とまで非難を浴びせていました。そこで村人たちは、この地蔵さんを川に捨ててしまったのです。ところがそれ以降、地蔵堂以外の村の全ての家が全焼したり、疫病が流行ったりして何人も亡くなってしまった。そこで村人たちは「これは地蔵さんのたたりだ」と悟り、川から地蔵さんを引き上げて念仏を唱えて許しを乞うた。それ以降は火事も疫病もなくなった・・・というお話です。
地蔵さんに限らず、魂の入った仏像や宝物や彫り物などの人工物から、大木など自然界でも際だった物に至るまで、それらを意味無く壊したり、無造作に扱ったりすれば災いが降りかかってくると言う話は多数あります。現代では、「物を大切にしましょう」という昔の教えから生まれたおとぎ話と言う方も、非科学的と言う方もいらっしゃるかと思います。
私は「丹精して作ったり育てた物を大切にしない」という人には、いつかその報いが来るという教えに共感します。また、うわさ話に翻弄されたり、簡単に物事の責任を他人に転嫁したりするという心の狭さや汚れが、いつしか仇(あだ)となって我が身に降りかかる時が来るのも自然の摂理だと思います。こんな事を言うと宗教じみていますが、私のとらえ方はそんな「宗教」なんて言う狭いものではなく、もっと広い「人の心の奥深さ」を感じるのです。また時代も関係ありません。人の心の弱さはどの時代も同じです。
特に人が汗水流して作った物や、育て上げた物にはその人の知恵や愛情等が詰まっています。そういう物を大事に感謝して使わせて頂く、食べさせて頂く気持ちが人として大事だろうと思っています。私はまだまだそういう心の持ち主になるには遙かに遠い人間ですが、少しでも近付きたいと思います。
一つの民話をじっくり読んで、改めて自己を振り返ることが出来たと思う次第です。