道東を発見する旅 第3の人生

秋の深まり、無から生まれた誤謬の果てで、論理的間違いの多様性

秋の深まり

10月も終わりに近づいた。以前から秋が深まると、人間は良くも悪くも何かしら精神に変調をきたすのではないかと思っている。

今朝の礼拝のメッセージでは女子職員の一人が修道院に宿泊した体験を話していた。話を聞いていると、その光景が目に浮かぶようであり、実にイメージ豊かに話していたが、ちょっとセンチメンタルになっているのかなとも思った。

しかし、それはまさに詩の世界を体現していたようだった。

前から、クリスチャンの人は、普段から聖書を読んでいるので叙情的な世界を客観的に描写するのに長けているのではないかと思っている。

さて、秋になると詩人により詩集が続々と刊行されるようだ。

自分は詩集を読む習慣はないけど、新聞で見た記事に惹きつけられた。

「新生児」を題材にした詩に自分の心は大いに揺さぶられた。今日はそれを紹介します。

毎日新聞 10月25日付 夕刊 「詩の橋を渡って 和合亮一(詩人)」より引用します

今、生まれ出ずる「君」へ

秋深し。芸術の、読書の……はもちろんのこと、実はたくさんの詩集が刊行される季節でもある。詩人には秋を目指す習性のようなものがあるのかもしれない。数多くの中から高岡修の詩集『胎児』(ジャプラン)を読み耽(ふけ)る。

無から生まれた誤謬(ごびゅう)の果てで、

君はいま、

手の親指をしゃぶっている。

あるいは僕は、

こういうふうにも言ってみたい欲望にかられる。

いくつもの転生の果てで、

君はいま、

大きなあくびをしていると

この世界に新しく誕生する命の一瞬に視線を向けている。簡潔さと深さとが常に言葉にあり、生まれ出(い)ずる「君」に呼びかけるようにして丹念に綴(つづ)られている。

あらゆる想像を張りめぐらせて受胎から出生への時間と向き合う。一つ一つの詩句から、この世に生を受けて生きている誰もが感ずる、神聖さや運命の不思議さが伝わってくる。

たとえば君は、

垂直性に陶酔する一羽の雲雀(ひばり)となって上昇し、

天空の無限の深みに身を隠したまま、

悠揚と声だけを地上に響かせることもできた。

しかし君は、

それらを全て、

断念してきた。

そうして、

ついに、君は、

人である。

読み始めるとすぐに、一つ一つは決して安易な讃歌ではないことが分かるだろう。あらゆるイメージの奔流が、母の胎内で渦を成しているかのようだ。その中心には命への祈りと慈愛に満ちたまなざしが据えられていることが分かる。

比類のない言葉運びの潔さと豊かさが、正に生まれ出たばかりの多数の詩書を圧倒していた。詩と俳句の見事な達成を成しえている詩人の才気によるもの。

遠い誤謬への、

君の、

じつに鮮やかな目配せ。

かくして、

君は、

夕日を呑(の)んでたぎり立つ水平線のような生の狂気を、

生き始めたのである。

引用終わり

感想

この詩人の才能には圧倒される。

解説している詩人が数多くの詩集の中から選んでいるので、詩集としてのレベルは相当に高いのは間違いないのだろう。

生まれたての生命を「無から生まれた誤謬の果て」と呼ぶところに恐れ入ってしまう。

自分は元生命科学者である。人の生命の誕生には受精という過程があるので無から生まれたという訳ではない。しかし、確率論ではほとんど無限分の1に近い確率で生命は誕生するらしいので限りなく無に近いのは間違いではない。

最後の「夕日を呑(の)んでたぎり立つ水平線のような生の狂気を」というフレーズも気に入っている。

詩人はとてつもない時間をかけて言葉を選び、自分の詩を完成させたのだろう。

我々が読者として味わうのも何度も読んで言葉の遊びによる詩の世界を楽しもう。

論理的間違いの多様性

ついでに「誤謬」の意味を確認しておこうとしてグーグル検索したのだが、誤謬は論理学の用語として論理の間違いが細かく分類されているそうだ。どこがおかしいかは、実際に読んでもらったらわかると思う。

日本語では間違いを犯すというだけの意味でしかないが、論理的はすごく奥深い世界が見え隠れしている。

間違い方にも多様性があるということだ。

物事はなんでもマニアックに進んでいく。秋の夜長、誤謬の世界を楽しんでください。

http://mojix.org/2008/05/08/fallacy

ウィキペディアの「誤謬」(ごびゅう)の解説がすばらしい

ウィキペディア - 誤謬

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%A4%E8%AC%AC

<誤謬(ごびゅう、英: Fallacy)とは、論証の過程に論理的または形式的な明らかな瑕疵があり、その論証が全体として妥当でないこと。論証において、誤謬には「形式的」なものと「非形式的」なものがある>。

面白いのは、このページの「非形式的誤謬」のところにある例だ。「非形式的誤謬」とは、大雑把にいえば自然言語(日本語や英語などの、いわゆる言語)による誤謬のこと。ここには、そのいろいろなパターンが集められている。以下、いくつか抜粋。

・例外の撲滅  

例外を無視した一般化を元に論旨を展開すること。「ナイフで人に傷をつけるのは犯罪だ。外科医はナイフで人に傷をつける。従って、外科医は犯罪者だ。」

・早まった一般化

 十分な論拠がない状態で演繹的な一般化を行うこと。「1,2,3,4,5,6はいずれも120の約数だ。よってすべての整数は120の約数である。」

・間違った類推

 類推を大前提として三段論法的な論旨を組み立てること。例えば、「宇宙は時計のように複雑だ。しかしどんな複雑な時計にも設計者がいる。だから、宇宙にも設計者がいるに違いない。」

・偏りのある標本

 母集団から見て偏った例(標本)だけから結論を導くこと。「(日本在住の人が)周囲には黄色人種しかいない。よって世界には黄色人種しかいない。」

引用は終わりますが、まだまだたくさん間違い例が記載されています。奥の深さに気がついてびっくりしています。

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