5月になってから
連休が終わって、ようやく先の見通しを考えられるようになった。相変わらず、楽な毎日を過ごしているけど、夕方に会議が入るようになったし再来週にはHBVの再活性化についてのレクチャーを頼まれている。それ以外にも、7月に導入される分析機器のセミナーが金曜日に行われるので、それも楽しみだ。
病院の感染制御に、あまり係わらなくていいことになった。上層部も、期待していたようのだけど、感染制御の専門医の資格を返上したのが理由だ。去年の正月、離島にいるとき、書類はそろっていて提出するだけで良かったのに、もう必要ないと思い、破って捨ててしまったのだ。
その結果、感染対策委員会に出て意見を言うだけになってしまった。それでも今は、検査の方が大事だし、データ分析の方法論の完成度をあげたいのが今の希望なので、有り難く思うべきだろう。
ただ、感染対策の専門医申請は、それほど難しくはないと思うので、来年までに何とかしたいと思っている。
自分が感知しない(他人本位の)時間が流れ過ぎていく
前回、静寂が大事だという逸話を引用した。あの話から自分が何を感じたのか。
大阪に戻ってから、以前のように普通に出勤し、職場に自分の居場所を見つけ、そこで1日過ごし、帰りはトレーニングして、家に帰ると家族と楽しく会話し眠くなったらベッドにいく毎日だった。
これが普通の生活で、自分は元に戻ったのだと信じたかった。それが、何となく後ろめたい気分のままなのである。ただ、時間だけが過ぎていき、大事な何かを忘れているような気がしていた。
いつの間にか、周りの視線、人との会話、他人とのつながり感などが、自分の心で大きな部分を占めてしまって心の重荷になっていた。いいかえると他人本位の時間が流れていったのだ。
波打つ水は、心のざわめき
あの逸話では、波打つ水が静まらない限り、自分の姿が見えないままであるという結論だった。波打つ水は、自分の漠然とした心のざわめきの象徴であり、回りに影響されてしまっていると自分の姿が見えないままであると考えている。
大阪に戻ってから、いつも、バタバタして回りを見ながら生きていると、自分の姿(自分の本心)が見えないまま時間が過ぎていく。
そのために、自ら求めて静かな場所に行き、沈黙を守らなければならないのだ。
話しをしないこと(修道院へようこそから引用します:77ページから)
修道院のシスター達は、かなりの我慢強さで沈黙に励んでいる。午後8時の最後のお祈りの後、それぞれ1人で部屋(僧房)に行き、それから「大沈黙の時間」が始まる。それは翌日まで続く。朝、シスター達は顔をあわせても互いに挨拶をしないのだ。朝食後に会話をするが、昼食時にはまた新たな沈黙の時間が始まっている。
中略
それがいかに良い会話であっても、やめるべきだという。沈黙はあなたが、学び、みずからを成長させ、貴重な経験をするチャンスを切り開くものだ。
沈黙はゆとりを作り出す(修道院へようこそ:82ページから引用)
話す人は忙しいが、沈黙する人は自分も他人も煩わせない。
話す人は対話の中にいる。つまり他者の生と直面させられている。そこには重要なこともあるが、重要でないこともある。話す人は注意を外に向けているが、沈黙する人はそれを内に向けている。
話す人は俗生の、自分が暮らす共同体の一部である。一方、沈黙する人は共同の営みから心を離し、世俗に距離を置いている。その人は、「神が定めた時間」に日常の行いを中断して、信仰に関わる「何か」を気にかけることができる。
沈黙とは、暇をもてあましたときに楽しむ贅沢ではなく、節度と中庸という原則にしたがったバランスのとれた生活にとって、必要不可欠な行為なのである。
感覚が目覚める
想像してみよう。まず貴方は話すことをやめる。するとほかの感覚器官が活発に動き出すことがわかるはずだ。音、光、におい、空気の感触。いままで感じなかった外部からの情報をあなたは感知する。
私たちが常に他の人とおしゃべりし、自分の外側にある物事と向き合ってばかりいると、自己を正しく知ることは出来ない。
今の自分にとって、大事な大沈黙の時間
先日まで、家での夜は、大沈黙の時間なのに、子供と一緒にテレビを見て笑い、雑談をして楽しんでいた。昨日から、食事の後、寝室にひきあげ、そこで時間を過ごしている。
朝早く目が覚めたら、誰もいないリビングで、自分1人の時間を楽しんでいる。これで、ようやく、自分を取り戻せそうだ。
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