道東を発見する旅 第3の人生

愛のない信仰

先週、牧師さんのメッセージで、「愛のない信仰」の話があった。とても興味深くて刺激的な内容であった。考えようによれば人間の生き方の根源にかかわるような話である。

我が病院は、クリスチャンの人とそうでない人が働いているが、病院の職員に神の愛について説明できるなんて、流石にキリスト教本位の病院である。そして、医療に愛が必要であることを知っておくべきだ。

今日は、信仰者であっても愛のない人が存在すること、そして神の愛は、蜂蜜のように甘い何でも許す愛ではなく、真理に基づく塩っぱい厳しいものであるという話を紹介する。

「愛と信仰」参考サイトから内容を編集して引用します。http://www.dr-luke.org/Topics/love_faith.html

パウロは言います:「・・・山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。・・・愛がないなら、何の役にも立たない。・・・こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(1コリント13章)。

これを聞いて、多くのクリスチャンは、「愛こそすべて」として、何でも許し、何でも受け入れ、つねに笑顔で、つねに柔和で・・・という取り繕いに落ちてしまいます。

「愛こそすべて」がキリスト教会の"水戸黄門の印篭"になっています。このキャッチコピーの裏において、多くの暗闇の仕業が光を当てられることなく、恥部として隠されたままになっております。ここで指摘しておくべきは、この"愛"とはギリシャ語の"アガペ"であって、神に由来する愛なのです。決して人間的なフィレオの愛でもなく、もちろん男女間のエロスの愛でもありません。それは神の愛です!
引用終わり

自分の意見

これを読むと教会の中でも人間どうしのいさかい等色んな出来事が起こっているのが分かる。それは当然であるが、「水戸黄門の印籠」のような「愛がすべて」を信じ込んでいるところにが原因があるとは、思い切った発言だと思う。

再び引用

実はここが日本人の最も弱いところです。愛をとんでもなく誤解しているために、何でも許し、何でも受け入れ、何でも笑顔で・・・というクリスチャン的偽善がまかり通るのです。

私の師のColin Urquhartは、「神の愛はセンチメントではなく、ストロングである」とよく言っています。悪を暴き、問題を指摘し、対決すべきときには対決し、言うべきことは言う、これが神の愛です。

特に真理(御言葉)は人の魂と霊を切り離しますし、肉にとっては痛みを覚えるのです。しかし愛は真理を喜びます。真理は対決的なのです。日本人の思い描く"愛のイメージ"は、母親的な人をスポイルする愛です。

砂糖まぶしの愛と言えます。イエスは過激とも思える言動によって偽善を暴き、そのことのゆえに、また私たちの罪のゆえに自ら十字架につけられました。これが神の愛です。

中略

パウロは言っています:「信仰によらないものはすべて罪である。」(ローマ14:23)。この言葉と上の第1コリント書の言葉は真っ向から対立するように見えます。信仰と愛と、どちらが神の前で重要なのでしょうか。

パウロは明確な解答を用意しています:「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ5:6)。

愛(アガペ)によって働く信仰です。信仰によって働く愛ではなく、愛によって働く信仰です。しかるに信仰、希望、愛のうちもっともすぐれているものは愛です(第1コリント13:13)。

引用終わり

自分の感想

実に味わい深い内容である。まかり通るクリスチャン的偽善ではなく、神の愛でないといけない。何でも許してしまう蜂蜜のように甘い愛ではダメである。若い頃から最近まで自分が誤解していた点でもある。

愛は真理を喜ぶ。真理は対決姿勢であり残酷な一面を持つ。だが、人は真理に近づいた生き方をしてこそ、真の愛、神の愛に近づくことが出来る。

うちの牧師さんは、真の愛とは、あなたが苦しんでいる心の葛藤にあると言っていた。

抽象的すぎて理解しにくいが、苦しい思いをしている人はきっと神の愛に満ち溢れている人なのだという意味なのだろう。

よく分からないので、これで終わります。今週も暑いけど頑張りましょう。
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