道東を発見する旅 第3の人生

腰痛、爆弾処理兵の休暇、自分の考えに隷属している、私の元に来なさい、くびき(軛)

腰痛

10数年ぶりに腰の違和感に襲われている。今日で3日目、あまり動かないようにしているので楽になってきたが、どこかに何か問題があるのだろう。

島を離れて以来、毎日、緊張感が無いまま時間が過ぎていっている。腰に違和感を覚えながらも、危機意識を持たないまま重たいダンベルを振り回し、フリークライミングのジムで固い身体を無理に伸ばしたりしたのが良くなかったのかもしれない。

島にいる2年半の間は、いつ何が起きても対応できるよう緊張感でピンと張りつめたような毎日をおくっていた。もちろん、身体の不調には敏感に対応するようにしていた。風邪をひいてもすぐ治っていたし、腰痛には無縁の毎日だった。それが、今では、家でも職場でも緊張することがないまま、だらだらと暮らしている。

離島勤務と戦場

離島勤務と戦場は、緊張がゆるんだら致命的になるという点で共通している。今の自分は、帰還兵のようなもので、元の生活に戻り、退屈な時間が過ぎるのを待っているような感じだ。

爆弾処理兵の休暇

ハートロッカーという映画がある。イラクで爆弾処理にあたっている「命知らずの兵士」の物語だ。ちょっと間違えれば爆死するのが日常である業務をこなしている主人公が、休暇で家族の元に帰る。

休暇の間、退屈を持て余すシーンが出てくる。子供の相手をしながらも退屈そうにしていたり、奥さんの買い物につきあっていても、スーパーの片隅でずらっと並んだシリアル(コーンフレークなど)の前でため息をついていたりする場面が出てくる。そして休暇が終わると、ようやく出番がきたとばかり活き活きとして、死と隣り合わせのイラクに戻っていくシーンで終わるのだ。

自分も、離島では急患が発生すると全身の血管がアドレナリンで充満してドキドキしながら対応する事がよくあったし、その前に勤務先である大学病院でも、集団感染が発生したりすれば、責任者として対応していた。だから、今の自分は、ぬるま湯のような毎日に退屈しきっているのかな、と思う。

問題の核心

まだ新しい環境になじめておらず、自分で自分の行動を枠にはめて考えてしまっている。過去の自分にとって、常に決断を迫られる状態が、仕事だと思ってしまっているが、回りの人が働いていても、1人部屋でじっとしているのも仕事なのだ。

この病院は、神様が支配しているのだから、もっと気楽に考えて周りを見ずに、自分の出来ることを続けていればいい。現状を肯定し、自分の狭い考え方の重荷をおろして、なにものにもとらわれず、自由に行動しよう。

昨日の朝、病院の朝礼で牧師さんが朗読してくれた聖書の一説を紹介します。そこでくびき(軛)という言葉が、今の自分にとって重要なキーワードであることに気がついた。軛が意味している事、それは、自分が自分の考え方に隷属状態になっている事であり、それが問題の核心だろうと思っている。

私のもとに来なさい  マタイによる福音書 新約聖書20から21ページ

疲れたもの、重荷を背負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

わたしは柔和で謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛(くびき)は負いやすく、私の荷は軽いからである。

軛(くびき)とはhttp://www.nskk.org/hokkaido/seijuji/2008-7-6.htmlより引用   マタイ11:25~30

軛とは、牛などの動物に車を引かせたりするために用いられる木の道具です。重い車などを動物が引っ張る有様から、しばしば、隷属状態を表すために用いられます。なるほど、わたしたちは常に、何らかの形で軛を負っていると言えます。それは家庭であったり、職場であったり、国家であったりと様々な様相を呈しています。

わたしたちが自由であると思っていても、目に見えない形で、何らかのものに所属させられているのです。それらの軛と、イエスの持つ軛、一体何が違うのでしょうか。

わたしたちが負う軛、それはしばしば私たちを圧迫します。自分の思うとおりに振舞うことができない時、その軛はわたしたちの上に重くのしかかります。しかし、イエスの元に来たとしても、新たなイエスの軛を負うことになるわけですから、軛がある状態に変わりはないことになります。それでも、イエスの軛が負いやすく、その荷が軽いのはどういうことでしょう

イエスの持つ軛、それは神との関係です。キリスト者は昔から、自らと神との関係を好んで奴隷と主人との関係になぞらえていました。テモテへの手紙1・6:1~2にも、その用い方がはっきりと示されています。神の御わざに対しての人のあるべき態度・状態。これがイエスの軛である。

そして、イエスはその軛を決して僕に一人で負わせたりはしない。軛は2頭で一つ背負うものであり、軛の反対側には、常にイエスがおり、共に歩まれるのです。(1頭用の軛には、別の単語が用いられる)そして、神と人との関係は、決して自らの能力・実績・力のみで正しい方向に向けられるものではありません。一人では負いきれない軛です。

イエスに学び、共にその軛を負う時、わたしたちは真に生きています。神は私たちのすべてに絶えず呼びかけています。その呼びかけに応え、その軛を負いましょう。神の思いを知る、イエスと共に。
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