食中毒
6月になった。この季節は食中毒が多発する時期である。
今回は、新聞に載っていた食中毒関連の記事から内容をかいつまんで紹介します。
なぜ自分が食中毒に興味があるのか、と不思議に思われる方もおられるかもしれませんが、大学で医学生相手に講義をしている関係で新しい知識を仕入れておかないとダメだからです。
引用した記事の日付が分からなくなったので記載できませんが、5月30日から6月3日の間の毎日新聞の記事です。
牛肉由来の食中毒が激減した
2012年から焼肉屋で「牛の生レバー」の提供が禁止された。実は、あれ以来、全国統計で牛肉由来の食中毒が激減したそうだ。
この結果からレバーの生刺しはとても危険であったことが改めて証明された。
もともと肝臓は、横隔膜より下にありお腹の中の内臓なので、腸管などから菌が侵入していてもおかしくないのである。
一方、筋肉は食肉の処理過程を無菌的に行えば微生物は存在しない(例外もあるが、稀だ)。
食中毒全般では、かっては鶏卵によるサルモネラ菌の食中毒も多かったのだが、鶏に接種するワクチンの普及などで昨年は10年前の6分の1である24件までに減ったそうだ。
自分も以前の勤務先で、鶏卵の生食による食中毒例を何例も見ていたので、件数が減ったことに驚いている。
これらは、我が国では行政の食中毒対策が効を奏しているのがよく理解できるようなエピソードである。
カンピロバクターによる食中毒
現在、食中毒はノロウイルスとカンピロバクターの2つで全体の3分の2を占めている。ノロ対策はまだまだ時間がかかりそうだが、カンピロバクターについては新たな進展があるようだ。
カンピロバクターは、長年、一定数の食中毒が発生しているが、最近、専門家が調査した結果、鶏肉を冷凍するとカンピロバクターが死滅しやすい性質を持っていることがわかった。
それで、鶏肉を処理後に急速冷凍すると感染リスクが減る可能性が高いことから、食中毒対策の一つにならないかという事が検討されている。
しかし、急速冷凍する設備を持っている施設が限られており、実現には時間がかかるらしい。
記事はこれで終わっている。
自分はそれに加えて次の事実を紹介するのだが、読者の参考になれば幸いである。
なぜ鶏肉なのか
さて、カンピロバクターは牛や馬、豚などにも内臓に常在菌として存在しているのであり、何故鶏肉だけが食中毒の原因となるのだろう。
それは、鶏の処理加工の過程に原因があるそうだ。
上述の牛を含めて大型の家畜を処理する過程では、機械的に内臓が混入しないように無菌的に処理して筋肉を分離できる。
ところが、鶏肉は手作業で処理するため、どうしても筋肉に内臓由来のカンピロバクターが汚染してしまうそうだ。
だから、スーパーで買うことができるパック詰めの鶏肉は、見た目はきれいだけど、カンピロバクター菌に汚染されているものとして取り扱う事が大事なのだ。
具体的に注意するべき点は「まな板」である。
貴方は鶏のささ身や胸肉をまな板の上でカットした後、野菜を切ったりしていないだろうか。
肉に付着していた細菌が、まな板の傷に付着し、さらにまな板の上でカットする野菜に付着してしまう、すなわち「まな板の上で交差感染」が起こるのである。
そして、カンピロバクター菌が付着した野菜サラダを食べることによって、食後5日から1週間くらい経って(カンピロバクターの場合、潜伏期間がやたらと長いのが特徴である)、突然下痢をしてひどい腹痛に悩まされることになる。
これを読んで身に覚えがあると思った方、まな板を片面ずつ「肉」と「野菜」に分けよう。
そして肉は野菜などをカットした後、最後に切ろう。心配な場合、まな板にお湯をかけよう。それで菌は死滅する。さらに、記事にあるように、「鶏肉を買って来たら冷凍し、解凍して調理する」事で菌は激減しているから、食中毒になるリスクはさらに低くなるのだ。
続いて、前回の作家の作品を立ち読みした話を書きます。
冬の旅
昨日、散髪屋に行った時、予約の時間より少し早かったので久しぶりに書店に立ち寄ってみた。
ブラブラしていると、前回のブログに書いた本の事を想い出して辻原登氏の本をさがした。すると、文庫本の「冬の旅」が置いてあったので手に取ってみた。
パラパラと本をめくって活字を目で追ったのだが、すざまじい内容に慄然とした。
圧倒されながらも、ページをめくる手は止まらない。
あまりにもリアルな内容の話が出てくので、取材量も並大抵ではなかったのだろう。まるで誰かの日記のように主人公の行動だけが次々と出てきて話が展開していくのだ。
本を買おうと思ったのだが、今の自分は数学の本が最優先なので、時間が出来たら買うことにした。
しかし、もし自分がきっちり読んだとすれば人生でも忘れられない一冊になるだろう。
ひたすら、主人公がどう行動して、それがどうなって、それからどうなったとばかり行動記録が出てくるだけだが、その中味が濃くて深いのだ。
その一方で、主人公の心の葛藤とか喜びなどの心の描写が全く出てこない。
読みながら、読者は主人公の異常性に辟易しながらも、もし自分だったらと想像しながら感情移入して読み続けてしまう。
自分は、数学の専門書を読んでいるようなものだと思った。
数学の専門家が読む本は、無味乾燥な定理と証明が並んでいるだけで、行間にその意義を自分で見つけ出すのだ。
定理がなぜ重要で、証明ではなぜそうなって、それがどう大事なのかなんて解説は出てこない。
定理と証明を頭の中で再構築しながら、その理論が持つ概念をマスターしていく。
この小説も主人公の行動から人間のドロドロした面、さらに人生の残酷な面を学習して内面の行動原理のようなものを感じ取っていくのだと思う。言ってみれば、心の世界の定理を解明する方程式のような小説なのではないだろうか。
数学の本は数学の世界に迷い込んだ人以外には読めないように、この小説も読み手を選ぶのかもしれない。作家の力量に驚くばかりだった。
最後に、新聞社の書評より、この小説についての専門家のご意見を引用しておきます。
ブックアサヒ、書評 冬の旅 [評者]小野正嗣(作家・明治学院大学准教授)
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2013032400012.html
一部のみ引用
克明な資料調査を行うか、実際に足を運ばなければとても書けないような描写の数々。そして我々を震撼(しんかん)させた、90年代から現在にかけて起こった事件が、作品世界にも暗い影を投げかける。
奔放な想像力は厳密で批評的な観察力に支えられている。
『冬の旅』は単なる小説ではない。あらゆる優れた小説がそうであるように、我々の〈現実〉に対する真摯(しんし)な問いかけの書でもあるのだ
引用終わり