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tons of knots

からだや頭の凝りをもみほぐして、人との絆や結び目がたくさん出来るといいね。
Innovation To Survive

Post Corona Life コロナ後の世界(その4 国会議員さん、本当に必要なお仕事してますか?)

2020-06-12 16:32:45 | 払暁半刻
僕は行政組織にいたことがありませんので、これから書くことは、僕の企業組織での経験と長年の組織についての研究との比較から見たことです。また、報道される政府、地方自治体の新型コロナ対応を見ていて考えることだから、情報にも限りがあります。その点を割り引いて読んでほしいと思います。

政府の新型コロナ対策で目玉になったのは、10万円の特別定額給付金とアベノマスクの日本国浦々全戸無料配布だろう。いずれも、新型コロナの緊急事態宣言が解除された今も、未だ支給されていない企業、アベノマスクが届いていない世帯が多い。というか、受給できた企業や受け取った世帯の割合は未だ50%に達していないであろう。結果的にはその緊急対策という目的自体が滑稽なほどに達成できていない。(我が家にも未だマスクは届いていないし、数日前にやっと10万円給付金の申請書が市役所から届いた。)

さてこれらは緊急対策として適切・効果的なものであったか。政権政党の有権者へのアピールを意図したものであったとしても、これほど遅延したのではアピールも逆効果ではないかと思ってしまうが、今日考えたいのはこの適切性についてではない。このブログの最後のところで、この適切性の評価の問題も関係してきそうな気はするが、とりあえずこれは棚上げにして始める。

今日の関心事は、なぜこれほどに「遅い」のか?である。思うに、その理由について、幾つか仮説を立てることはできる。(筆者には検証のしようがないので、仮設としか言いようがない)
1.規模が ”全国規模の緊急”対策であって、これまで行政組織が経験したことのないほど、時間と規模の制約があったこと。
2.対策内容の発想を仮に良しとしても、それを行動に移す具体化のフェーズで、そもそも「具体化する意思」に欠けていたのではないか。あるいは、上記1の未曾有の「規模時間制約」を計算に入れる発想の転換もなく、従来通りの具体化で行けると安易に思ったのではないか。(下部組織や地方自治体に卸せばなんとかなるさ)
3.そもそも、現在の中央、地方の各行政組織に、今回のような全国規模一斉一律の「危機」への対処について、相互協力して対処する組織原理や制度的仕組みが備わっていただろうか。
 これらの仮説のうち、
1は、発生した危機の本質的把握力の問題だから、指導者やリーダーの資質に関わる。(ということは、この点は、政府当局者のレベルの問題)
2は、政策当局者の常日頃の問題意識、職務意識の問題。もっとも、1の危機の本質が理解把握できなければ、そもそも無理な問題だから、やはりリーダーの資質の問題か。それでも、1に比べればもっと実務家レベルでのリーダーの資質の問題のようである。(ということは、この点は、官僚のレベルの問題)
3は、組織の組み立てや組織間の連携に関する問題であって、かなりな程度、政府組織を規定・規律している法制度の問題でもある。もちろん、そのような組織法制度の改革を行う前提には、そのような問題意識と改革意識が共有されなけれ、改革の動機すら出てこないが、そのこと自体、一つの大きな問題(立法者の意識改革を求める問題だから)ではなかろうか。

ここまで考えてみて、いくつか疑問が出てくる。
A. 今回の緊急対策は、やらないよりやった方がよかったかもしれないけれど、そもそも政府・自治体の問題解決能力をはるかに超えたものであったのではないか。対策立案の段階で、対策の実施完了までに必要な時間のアセスメントはなされたのか。
B. 逆に時間制約のある中で、効果的な施策には何があるかという検討はされたのだろうか。
家賃や受託ローンの一時的限定的なモラトリアムによって家計や中小業者の緊急的なキャッシュフローネックを解消するという方法など、即効性という意味では有効ではなかったか。
C. 感染防止、疫学検査の徹底といった感染防止対策と、緊急対策との連携について時間軸の中に落とし込んで十分検討されたか。

今回、対応が貧弱だったのは、立法府である。上の3やBなどは、緊急立法措置(短期時限的なもの)によって法的な手当をしないと実現できないものだが、政党も議員も、これらの観点から検討したといった報道は聞こえてこない。予算を適正手続きのもとで適正に使うといったコンプライアンスは常に重要だが、効果的な施策や計画の発案なしにコンプライアンス面の不備だけに着目しても、所詮は「無能な人」による批判に過ぎないことになってしまう(政府当局のコンプライアンスに問題がないわけではない。施策の緊急性に重点を置くとコンプライアンスが手薄になるような組織はそれだけで改善の余地が大いにあるのは当然のことだけれど)。

危機はおそらく今回の新型コロナだけではない。数年以上前から、集中豪雨とその被害は多発している。国土強靭化計画は、実は待ったなしの”喫緊の”課題だ(”喫緊の”という言葉は誰かがよく使っていたなあ)。
国際関係においても戦後70年続いた構造の転換期にある。(だから非武装戦争放棄は無理だというのは簡単だが、では現行憲法を改正すると日本の国際的な環境はそれによって改善するであろうか? むつかしい問題だ。)

さて、今日の問題意識は、なぜ緊急対策がこれほどの遅いのか、ということであった。
最後に誤解のないように申し述べておく。以上は特定の人物やお役人を批判する意図では決してない。 
今回の「受領遅延」は、中央政府と地方行政組織の役割のかみ合わせ、あるいは、期待される機能を現実化した組織の組立て方とその構成員の行動様式の課題といった、行政の仕事そのものの構造的な問題にその原因の根っこがあるのではないかと思う。これを治癒しようとすれば、まず手始めは立法府である国会による創造的な立法しかないのではないのか!(だって官僚は法に従って、法に定めあること以上には行為できないという建前だから)という点を述べたかったに過ぎない。
 法を創るのがお仕事の国会議員さん方、もっと視点の置き場所を未来に向けて、真に強靭な国土(人・組織も含めて)形成のために知恵を出していただきたいと切に願う。


Post Corona Life コロナ後の世界(その3 Return to very basic !)

2020-06-11 13:07:24 | 払暁半刻
Return to very Basic !
 これを日本語に置き換えると、
「基本の基本に帰れ!」となるが、より意訳すると、
「己の基盤とする地点に立ち戻れ!」
あるいは、「より根源的なところから発想しなおしてみよ!」
ということになる。
 (注意書き: 原理主義に帰れ、という意味には決してならないから注意のこと(笑い))

我が国の子は(もしくは「私が子供だった時代は」か?)学校の先生から繰り返し「基本を忘れるな」と言われたものである。 スポーツでも習い事でも、その「基本」は変わらない。なのに、どういうわけか、世の中、大人のビジネスの世界では往々にしてこの「基本を忘れるな」が忘れられている。
 思えば、コロナウイルスがはやり始める前、我々は安定した長期政権下で長期・継続的な経済成長を謳歌していたのだ。オリンピック景気であったのは間違いないが、いつの間にか、経済成長することが当たり前のような気になっていた。そしてそれに伴って、東京一極集中といわれるここ50年以上続く現象も、相変わらず続いてきた。片方では地方再生と言いながら、同時に「やっぱり首都東京の経済がしっかりしてないとなぁ」とか、あるいは皮肉なことに、地方再生そのものが中央官僚の発想に左右されたり。
 昔のやり方、考え方がすべて良いもの、肯定されるべきものでないのは当然のことながら、例えば、生活の暮らしやすさ、心と体の適度なバランスといったものは、そうそうその根本、基本が変わるものでもない。

 フォードがフォードT型を量産し、ジョブズがパソコンやスマホを普及させたのは、どちらも実は、あの広大な北アメリカの国土にあって、人と人の距離を縮めたいというのが発想の根本にあったと言っていい。フォードT型は地理的な距離を、パソコンやスマホは、情報の(格差や伝達時間という)距離を、それぞれ縮めて、世界を一変させたのだ。(フォード「藁のハンドル」を読むと彼の発想がよくわかる。) アメリカでは、自動車の普及でそれまでの時間距離が大幅に縮まった。パソコンによるEメールの普及で、Eメールは男女の仲を取り持つようになり、実用的な時間の中で超遠距離恋愛も可能になった。
 これらを倣った日本でも当然自動車は普及し、パソコンやスマホの普及は言うに及ばずだ。それでも、日本の場合、事情がかの国とは些か異なる。自動車はもっぱらレジャー用途となり、通勤にはあまり用いられない。(交通事情が交通事情だ!) パソコン+インターネットによってEメールが普及し今やごくごく普通の連絡手段になったが、相変わらずオフィスは都心に集中し、会議は顔を合わせてやるのが主流であるというか、少なくともコロナ禍前までは主流であった。(働き方は、今回のコロナ禍によってやむなく始めたリモート勤務によって、少し変化の兆しが出てきた。)

 ここで立ち返って考えてみよう。本来、職と住(職場と住まい)は歩いて通える程度の距離、せいぜい自転車で数十分の距離くらいまでしか離れていなかった。交通機関が貧弱な昔にあっては、そうせざるを得なかった面もある。が同時に、日々の生活の質、心とカラダ、家族のつながりといったことの仕事とのバランスを考えれば、その程度の距離感であるのが理想的ともいえる。ところが、日本の経済の発展は「中心から放射状に」(「丸の内から放射状に」といってもいい)発展してきたものだから、いつの間にか通勤電車で1時間半かかっても、その苦痛を耐えるのが当たり前になってきてしまった。(日本人の性向として、中心がないと心休まらないところがあるようだ)
 コロナウイルス対策で変わったといわれる、首都圏の仕事事情。 
生活と仕事の基本に立ち返ってよくよく考えてみれば、つまり、一人の人間が日中仕事をし、その日のうちに自宅に帰り夕食を家族と一緒に楽しめるという「心地のよい生活」を基本に据えて考えてみれば、IT技術と公共交通門を駆使すれば職場と住まいを「心地のよい距離」に近接させることは十分可能なのだ。(すでに事務所分散などを初めている新興企業もある。)
 メリットは多い。
1)働く者のメンタルによい。ということは家族も暮らしよくなる。 
2)都心の事務所スペースがより小さくて済む(事務所の賃料が不要になるし、いずれは㎡当たりの賃料も低下してゆくかもしれない。反対に、一人当たりの事務スペースをより広くゆったりできるかもしれない。)
3)(音声+画像の)電話会議にすれば、きっと無駄な会議が減るに違いないし、会議にかかる時間も短縮されるかもしれない。会議時間が減った分、会議の準備をより入念にできるし、そもそもリモートオフィスでメンタルが改善されれば、発想が豊かになって、その分会議の議論の質も上がるかもしれない。(会議の質は主宰者と参加者の質に大きく依存しているので、すべての会議で質が上がるは限らないが)
4)家族の事情で地方の埋もれていた才能を、発掘できるかもしれない。もっと言えば、才能さえあれば何も東京に移住する必要はないのかもしれない。

一番のメリットは、事務所と個々の従業員の働く場所を分散することで、新たな人間関係の広がりが生じること。さらに、一般事務費がかなり削減できて本来の製品開発投資に振り向けられること。さらに、一人当たりの労働生産性が上がるから(もちろん、朝家を出てから帰宅までの時間で考えて、だ。通勤時間が劇的に短くなるし、メンタル面の改善もあるのだから。)実質賃金が上昇したのと同じ効果を得られること。

 一方で、残念ながらこういった動きに追随できない企業も出て来よう。例えば、
-1)社長や役員に理解がなく、というか、ITのメリットを実感として分からないから従来型に固執してしまう会社。(年配方の中に遠隔会議だと自分の存在感が薄れるのではないかという危機感を抱く向きもあろう)
-2)従業員の顔が見えないと仕事ぶりがわからないではないか、部下の公正な評価ができないではないか、と疑う向き。(新し試みのデメリットは探せばいくらでも見つかるものだ)
-3)IT投資に資金を避けない企業。
-4)システム部門とは、会計システムのお守り役と同義という企業。(まっ、こういうケースでは、電子会議システムや通信技術は外注すればすむ話ではあるが)
(これらのケースに一番あてはまりそうなのが、一部の地方自治体かもしれない)

 さらに、本社機能の首都圏脱出を考える会社が出てくるかもしれない。その場合も、IT技術と発達した安価な交通網は大いに役立つ。本社機能を、首都圏に必置の機能と、首都圏周縁部においた本社に置けばいい機能とにうまく分類できれば、本社の首都圏脱出も可能になる。
 首都圏に必置の本社機能は、例えば、広報渉外機能、官庁折衝機能。調達部門の調査部隊。
 反対に、首都圏周縁部にあっても十分機能する本社機能は、会計機能、監査機能、総務機能の一部、調査企画部門、システム部門。
 首都圏、周縁部どちらにあってもいいけれど、居所そのものを慎重に選択せざるを得ない機能としては、①社長室、②役員室、③秘書機能。
本社の本質的な意味からいえば、社長(最高意思決定権者)のいるところが「本社」なのだから、部門としての本社機能を周縁部に移転させて本社を移しましたと言ってみても、社長自身が都心から離れず相変わらず都心にオフィスを構えてしまうと、会社の本社機能各部門の自ずとまた都心に戻ってきてしまう。そうなると、本社機構なんて詰まるところ「官僚組織」だから、やれ事務所が狭いだの、不便だのという不平に付き合わざるを得なくなり、元の木阿弥になりかなない。事務所経費の削減は実現できないし、かえって移動時間と交通費が膨らんでコストが上がるし、迅速な意思決定ができず効率は下がるし、ということになりかねない。

今日の締めくくり。
 ウイルス禍自体はあってほしくはない出来事だけれど、この不幸な出来事を貴重な機会ととらえて、Return to very basic ! いま一度、自らの立ち位置や存在意義、機能について根本の根本から考えなおし、見直してみてはどうだろうか。
 筆者もこれを書きながら、自分もそうしなければと意識を強く持った次第。



Post Corona Life コロナ後の世界(その1:情けは人のためならず、だね。)

2020-05-30 06:00:20 | 払暁半刻
  新型コロナウイルスの緊急事態宣言が解除されて数日。飲食店や飲み屋さんの営業はやっと再開できたけれど、コロナが消えたわけでもなし、事実、北海道や北九州では発症者数がまた増えている。(もともと緊急事態宣言はウイルス撲滅を目指したものではなくて、医療崩壊を防ぐためだから、感染者数をできるだけ減らすのが目的。再度増加傾向になってもその数を抑えようというのがもともとの発想。)
だから、今は感染のリスクが多少減った程度で、日常のマスク着用、三密回避はまだまだ続けなくてはいけないことに変わりはない。
  問題はそういう場合の、一人一人の気持ちの持ち様。ことは起こりはウイルスが原因であって、人じゃないから、変な怒りを周囲の人にぶつけてもこの事態は解決しない。ここは一つ、自分の気持ちの強さ、ガッツのあるところを試すつもりで、グッとこらえて周囲の人を気遣うのが一番人間らしくていい。
  古いタイプの人間は、自分は感染していないのだから、人からうつされないようにしようという発想。(自分は悪くない、悪いのは他人だぁ、の発想)。今回の新型コロナはちょっと事情が違う。感染していても発症しない人が大勢いるらしい。であれば発想を転換してみる。自分にうつされないようにするためにも、まずは「自分が人にうつさないようにする」にはどうすればいいかを考える。何もあえて自分を悪者にしろと言っているわけではないけれど、自分にできる範囲のことで今すぐ出来ることは何か?と考えてみる。この発想であれば、マスクを着け、手洗いをし、相手に近づき過ぎないようにするのは自分のためでもあり、友達や家族のためでもある。世のみんながこうしてゆけば、結局は感染が抑制されて、自分が感染する確率も下がる。コロナ後は「友達や家族のために何かすれば、自分もハッピーになれる」という発想からスタートさせる。多分、その方が気持ちも楽だし、人の役に立ってる感もあって、結局、世間全体の効果も大きい。
  何だ!そんなんじゃ何時になったら自分のためになるんだよぉ、俺は一人で生きてるんだ、他人のことなど構ってられるか!! という人もきっといると思うけど、そういう人はこの世の中では行けてゆけない。そんなに一人で生きてると思うんなら、自分が食うものも自分で作って育てて料理して、毎朝自分が出す「くそ」も自分で処理してから、「俺は一人で生きてる」と言ってほしい。(あぁ、こういうときは、どういうわけか言葉が過激になる。ご容赦あれ)   
  とにかく、今回の新型コロナウイルスの騒ぎは、一人一人が、生き方(いろんなことへの行き方でもある)、周囲の人に対する姿勢や、自分に対する気持ちの強さが試されているんだと思う。ここで、へばったり、あきらめたり、恐れたり、自暴自棄になったり、自己チューになったりすると、自分も倒れるし、友達も家族も倒れる。




ブログ、この試みの目論見

2020-05-24 15:39:06 | 払暁半刻
コロナ禍はまだまだ続きそう。
見聞き、考え、感じた様々な世の事、己のことを日々書き重ねてゆけば、そのうち筆者の思いや情熱がどのあたりにあるか自ずとわかって来ようというもの。
これを読む人方がどのような方々であるか皆目見当もつかないけれど、この書き重ねたことに少しでも刺激をうけ、あるいは元気の素を見つけ、あるいはまた反発して怒り発奮されれば、それはそれでこのブログのお役立ちでもあったかと思える。