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選挙の公平さについて  Post Cocona World (12)

2020-11-02 16:49:03 | 払暁半刻
「選挙」の公平さについて、米国大統領選と大阪の都構想をめぐる住民投票を考える。

明日は、米国大統領の選挙日です。他国のことではあるけれど、4年に一度だから筆者も生きている間に後こういう機会が8回来るかどうかわからないし、日米安保もあれば、太平洋戦争でこっぴどく負けた後に仲良くなった国だという因縁浅からぬ国のことでもあるので、こういう機会に考えてみてもいいと思います。
米国大統領選挙。
前回までは世界で最も民主的かつ公平な方法によって実施されていると思ってきた米国の大統領選挙でしたが、今年の選挙はまるで19世紀の選挙ではないかと思うほどひどい選挙になりました。現職大統領が選挙の実施前から郵送による期日前投票の「不公平さ」をあげつらったり、相対立する有権者が相互に感情的な敵意を抱いたり、投票所では暴力的な威嚇や、投票後のテロ行為の可能性さえ出てきました。ここ最近、民主主義の劣化が指摘されていますが、現職大統領の言う「公平さ」や「公正さ」は、よく聞いていると、つまり「自陣営に有利であるような」公平、公正さなのだということらしい。こんな現職大統領が21世紀に出現したことに驚きを覚える。さらに、これに対して岩盤支持層が存在するという。米国の有権者の間に潜在的に燻ってきた「民主主義」そのものについての深い闇についても、一種の恐怖を覚えます。

次は、大阪都構想の住民投票について。
 日本では一昨日(10月31日)の日曜日、大阪都構想についての住民投票がありました。賛成、反対ともほぼ半数づつであった中、票数で反対票がわずかに上回って、「大阪都構想」は否決されました。
 民主主義の基本は、過半数を制した方が勝つということ。これは、ことが政治ごとである限り絶対原則です。このルールを崩してはいけないことは誰でも分かります。(因みに、だから、特に民主主義の定着していない国では、この過半数を超えようとして、有権者数や有効投票の総数そのものを操作しようとする輩が出てくる。太平洋の向こうにある国の大統領も、今回の大統領選挙でそのようにしたいという意図が見えます。)
 さて、政治ごとでは「過半数原則」は絶対であるけれど、ここからは「改革」の話、あるいは「競争力」の話。
 企業体質や経営を改革しようとする際のある種の常識は、
①何事につけ改革には反対派や旧守派が存在するもの、
②だから改革賛成派が4割も存在するならば、将来の発展を見据えれば停滞よりは改革を選択するべし。
というもの。なぜなら、改革反対派の意図は現状維持であるのに対し、改革派は将来のあるべき姿を見据えて改革を唱えているわけであって、そもそも立ち位置というか見ている視点が違うということ。これが意味することは、現状を維持して改革が実行されない限り、その後は時間の経過とともに徐々に他の競争者に対して遅れをとってゆく、ということ。
 大阪は、長い間、東京に対して劣勢であったと大阪の人は見ていると思う。大阪の競争相手は東京や他の大都市であるわけです。劣勢の理由は日本の首都ではないからでもあるけれど、どうもそれだけではなさそう。役所の労働組合の裏専従問題などが報道されるたびに、筆者は、大阪という自治体の体質そのものに何かしら旧態依然とした意識があるのではないか、とこれは想像の域を出ないものだけれども、そう感じてします。大阪のいい面はもちろん人情。これは間違いない。でも一般論として、人情が濃すぎてこれが自治体質にまで及ぶと、縁故主義や既得権益保護に繋がってしまう。自治体で縁故主義や既得権益保護が蔓延ったら、それは自治体の一種の私物化、権力の濫用、住民への背信となります。大阪は、例外でしょうか。
 また、大阪都構想が実現したら、そのような体質も自ずから改善されていくでしょうか。筆者には確証はないけれど、今の現状が変化するだけでも数年くらいは変化があると思う。また新たな利益構造が作られて行く可能性はあるけれど、変化しないことには体質が改善されるチャンスさえも生まれない、ということもまた確か。
 ということで、筆者の目から見ると、今回大阪都構想が否決されたことで、大阪に住む人が誇りにできることは、米国と違って、住民投票が公正に行われたこと、かつ票数のカウントも賛成派、反対派、双方が信頼のおけるものであったということだけに終わる可能性があるなあ、と。折角の改革のチャンスを、東京に勝つチャンスを失った可能性はあるなぁと。そういう意味で、いささかの残念さも感じる次第。