tons of knots

からだや頭の凝りをもみほぐして、人との絆や結び目がたくさん出来るといいね。
Innovation To Survive

米国中間選挙、結果は終わりの始まりか ー 米国分裂の妄想

2022-11-09 00:08:01 | 払暁半刻
ここ数日来、不安で致し方ない。
米国中間選挙の選挙戦で共和党優勢というか「トランプの一党」の優勢が伝えられてきたからだ。まさに、今米国時間では11月8日投票時間帯である。夜10時のニュースでは共和党優勢との報道であった。

 単に「共和党が優勢」であるだけなら、大統領2年目の中間選挙で野党が優勢なのは通例だから、こんなに憂鬱にはならない。
 問題は、先のバイデン当選の大統領選結果を認めようとぜず、根拠がないにもかかわらず不正があったと言い募るトランプ、さらに問題なのは、そのような「ブラフの主張」を熱狂的に支持する選挙民が多数、それもかなりの多数存在していることだ。
 第二次大戦が終わり冷戦がはじまる時代、米国にマッカーシズムが吹き荒れたことはよく知られている。あの時も、民主主義の危機という捉え方があった。事実、公正な意見、まっとうな意見が「反共」という大衆の熱狂に捻じ曲げられたことは、その後大いに反省され、教訓とされてきた。それでも、米国民主主義の危機ではあっても、米国憲法の危機ではなかった。
 先回大統領選挙以降続く、大統領選挙に不正があったというトランプの執拗な主張は、事実を歪曲し大統領選挙の権威を無視している点で、トランプは、祖国の憲法を歪曲し自己の権力欲の犠牲にしているわけだ。これ自体、大統領候補者にあるまじき卑劣かつ低劣なことであるが、それ以上に懸念されるのは、そのような主張を真に受けてトランプを熱狂的に支持する民衆の、それもかなり数の、正に「トランプの一党」と呼べるほどの勢力が前回選挙後2年も経過しているにもかかわらず、なお存在しているという点だ。民衆の(敢えて、愚かな民衆といいたくなるが)事実と公正さを無視した執拗な熱狂は、米国憲法を自分の都合のいいように解釈するもので、憲法の公正さを全くないがしろにしている。
 そういう視点から見ると、病巣はマッカーシズムの吹き荒れた70年前よりも重症かつ致命的であるかもしれない。
 しかも、そのような支持を背景に、トランプが次期大統領選に出馬する意欲を失っていない。今日の中間選挙の結果で、上下両院で共和党が多数を占めた場合、バイデン政権はその政策を、おそらく悉く実行できないであろう。さらに問題なのは、トランプの次期大統領選出馬も確実なものになろう。今の共和党には、トランプ現象を正常化するだけの見識も人物も無さそうである。

 2025年からトランプが大統領になったなら、こんなことが起こるのではと「妄想」してしまう。
1.米国外交は単独行動主義、自国の目先の国益(ビジネスの国である米国であってみれば、この場合の国益とは対外収支の改善と国内経済の回復であろう)優先の政策になるであろう。
2.そのとき、まだウクライナ紛争が続いていれば、トランプはウクライナを無視してロシアと「新たな勢力圏」の画定に動くであろう。
3.ロシアが占領した4州の「勝手」併合を米国が認めてしまえば、確実に、西側諸国はもとより、発展途上国の米国寄りであった国々に対して、米国は外交的影響力を失うであろう。
4.さらには、これまで米国に批判的であった中東、アフリカ諸国は、さらに中国を頼りにするようになり、自国の目先の利益、もっと厳密にいえば国の支配者層の目先の利益から見て、その時々の情勢次第で、自分に有利な大国の意に沿うようになるであろう。
5.ロシアが、ウクライナ侵攻について米国との和平を得、メンツを失わずに「勝利」した場合、ロシアは国力が衰退するよりは回復する方向に向かうであろうし、中国との連携を深め、中国は中国で「世界支配」をより推進する方向へ躊躇なく進むであろう。
6.さて、それでは、米国である。2期8年トランプが大統領であったとして、その後の米国は彼の言うような「Great America Again」となるであろうか。大国としての外交的指導力を失墜した米国が経済的には繁栄を回復するとはなかなか予想しづらい。むしろ、民主、共和各党支持者の格差と分断の二極化はより深刻になるであろう。
7.場合によっては、その後10年内外で、米国分裂ということになるかもしれない。NY国、テキサス国、カリフォルニア国、中西部国といった国に分裂するかもしれない。

 米国は、大西洋と太平洋に挟まれた両洋国家でありその地理的有利さを世界支配のてこに利用してきたが、同時に、歴史的に大西洋岸と太平洋岸がそれぞれ国を二分する方向へ動こうとしてきた国でもある。南北戦争以降は東西への分裂を如何に阻止するか、いかに統一された国家を維持するかは、米国政治の隠れた大きな課題であり続けた。
 党派的な分裂、分断が、国民の信条、考え方(Mindset)にまで影響を及ぼしている現在、それが本当の国の分裂に至らないという保証は何もない。移民問題、中絶問題、銃規制問題、いずれをとっても、沿岸諸州と内陸諸州では、相対立する様相を深めてきた。トランプは、前回の大統領選挙の結果を認めていない。では、トランプの対立候補が敗北しその選挙が不正で認められないと主張したときに、トランプはその選挙結果を認めさせる正統性のある論理を持っているだろうか。こう考えたときに、その先にある論理的な帰結は、各々自らの陣営が認める大統領を持つ、ということになる。すなわち、これは国民が自ら「国を割る」ということである。
 2つあるいは3つに分裂した各々の国々が、米国であったときのようなパワーを保持できるとは到底思えない。ということは、日本の安全と平和が依って立つ大前提が崩れるということ、さらには専制的中国の影響を相殺する勢力がいなくなるということ、つまりは、様々な自由が享受しづらくなる、ということに繫がっているように思う。
 ここ数日の不安の正体は、これなのだ。





対独戦勝記念日とプーチンの演説を聞いて

2022-05-09 20:02:00 | 払暁半刻
2020-5-9

テレビでプーチンの演説を聞いた。このウクライナ戦争がなかったら、ロシアの戦勝記念日のセレモニーが日本で放送されることはまずないだろうから、今年プーチンの演説を聞くということはとても稀な経験なのだと改めて思った。

 プーチンの演説は歯切れの悪いものだった、というのが第一の印象である。ゲレンスキー政権が首都キーウを持ちこたえて以降、ウクライナ戦争の推移とともに、プーチンが今回の戦争の成果を対独戦勝日の目玉にするべく軍事進攻を進めるであろうという予想を多くの人がしていたため、我々の注目も、演説の中で語られるプーチンのウクライナ戦争の今後の見通しとその戦略に集まった。
 が、当初のプーチンの目標が削がれつつある現状では、彼は戦争の現状を評価したり成果を誇示することはできなかった。とはいえ、まだ、政治的に自分の政権が危機に直面しているというほど切迫もしていない、というのも確かであろう。これらが積み重なって、今日の歯切れの悪い演説になったのであろう。
 対独戦勝とは、ナチスドイツに対する戦勝を意味するのであって、すでに現在のドイツは1945年5月8日までの「ビスマルクからヒトラーまでのドイツ」ではない。ドイツ国民はこの77年をかけて自らの国の在り方とそれを支える自らの政治思想を鍛えてきた。それは思想と社会の進歩というべきだと思う。第一次大戦で帝政が崩壊し、ワイマールを経てナチドイツの終焉までの歴史を振り返り振り返りして、東西ドイツ国民そして東西統一後のドイツ国民は、彼らの”民主主義”を学び消化し、そして日々の行動と考え方にその学んだ成果を具現化してきた。ドイツにとって、この77年はそういう進歩の時間であったと思う。(日本も、問題を抱えながらも、やはり民主主義を学んできたと思う。)

 さて、今日は大戦争に勝利した記念日であるので、普通に考えれば、戦勝国の指導者の演説は、まず初めに今の我々を有らしめてくれた戦争中の戦没者への追悼に始まり、戦争の原因と結果を振り返ったうえで、未来に向かってこの国をどのような国にしてゆくべきか、そのために今後生き残った国民は何を目指して、何を努力しなくてはならないかを国民とともに考え、そのために大統領としての自らの志を示し、国民には協力と努力を求めて平和の実現と維持を語り掛けるものかと思う。当然、過去の苦難と英雄的行為や反省、さらには未来への展望を聞けば、聴衆は胸に込み上げてくるものがあるはずだ。
 が、プーチンの今日の演説からはそのような感情の高揚感や感動は感じられなかった。様々言い並べても、言い訳に終始していたようで、次元の低い内容であった。テレビ画面に映し出された将軍たちや聴衆の顔も、あたかも能面のごとく、彼ら一人一人の対独”戦勝”の喜びが顔の表情に表れることはなかった。ましてや、未来への希望や高揚感など少しも感じられなかった、というのが正直な感想である。

 思い返すに、ロシアは、二つのことを”反省”しなくてはならないし、その反省を未来の明るい国家建設に生かすべく、決意を新たにしなくてはならない。今日の演説にはこれらが欠落していた。
 一つは、第二次大戦の始まりにおいて、ソ連はナチス・ドイツとほぼ同時に、ポーランドに攻め込みこの国を分割してしまったこと。同時に旧ソ連はフィンランドにも攻め入ったこと。つまり、その後ヒトラーが(愚かにも)ソ連に攻め込むまで、旧ソ連はドイツとの相互不可侵条約を梃にして、周辺国へ侵略をしていたのであって、その点ではナチと何ら変わりない行動をしていたのだ。その後、ソ連にとっては「幸いにも」ナチがソ連侵攻を始めたものだから、「ナチの被害者」として第二次大戦が終わった時には連合軍の一員として「対ナチ戦勝」を祝うことができたのだが、他国を侵略したことにナチと異なるところはない。旧ソ連は終始一貫して、”反ナチ”であったわけではないし、第二次大戦中ポーランドはソ連とナチに占領されていた。この事実を見ると、もしヒトラーがソ連侵攻をしなかったならば、ソ連は「連合国」という名乗りを上げることはできなかったであろう。(プーチンがウクライナがネオナチだと主張するとき、旧ソ連がナチと相互不可侵条約を結んでポーランド分割をしたことについて、あるはフィンランドに攻め込んだことについて、プーチンはどのように自己評価するのか? ナチでなければ、他国を武力占領してもいいと思っているのか。(ロシアの人たちの理解はおそらくそうであろう。だから、ウクライナはロシアの一部だと主張して武力侵攻することを問題視していない。)

 二つ目。プーチンはロシアの領土的な安全保障を主張し、それはロシア国民の安全のためと主張している。では、旧ソ連時代スターリンが行った粛清とそのために(確か)6百万人に及ぶ犠牲者が出たことについては、「国民の安全」の観点からどのように評価し、再発しないように国内の政治体制をどのように再編・改良したのであろうか。大規模な世論操作やプロパガンダ。政権批判をする独立系新聞への締め付けと発刊停止。ジャーナリストを暗殺したとされる報道の自由へのテロ的弾圧は、ロシアではどうも「国民の安全」のための手段であるらしい。
 賢明な権力者は自らの政権が時に過ちを犯すことを知っており、健全なる批判者は権力者にとってはより大きな過ちを防いでくれる恩人であると考える。「我々自由社会の人間」からみれば、世論操作やプロパガンダは「粛清」「弾圧」に至る道程の一部であるとみなすが、どうもロシアではそうではないらしい。

 今日のプーチンの演説が、ロシア国民への最後の演説となって、後日ウクライナ戦争が終結したときに「ああ、あの対独戦勝記念日はプーチンの終わりの始まりの日であったなぁ」と、私はそう回顧できることを切に願っている。
 さらに、これからでも遅くない。ロシアの民衆が、今のドイツ国民が過去から学んで進歩してきたように、ロシアなりの国民の自由と民主主義を(試行錯誤しながらでも)学んで、進歩していくことができるように、本当に願っている。
 そして、そうやって獲得する自由や民主主義は、プーチンのいうような米国によるお仕着せでも強制でもなく、国際社会の多くの国の民衆一人一人が誰でも自らの意思と思考で獲得するものであるということを、ロシア国民も学んで欲しい。そうすれば、ミサイルをウクライナに打ち込んでロシアの安全保障が確保させるなどと考えなくても、ロシア国民の安全は世界の人々が保証する。友となった者に誰が危害を加えようか。




ロシアのウクライナ侵攻は、ウクライナ祖国防衛戦争である。ロシアの歴史を顧みれば、プーチン・ロシアはこの戦争に勝てない・・・(であろう)・・・・

2022-04-06 18:44:37 | 払暁半刻
今回のプーチン・ロシアによるウクライナ侵攻は、侵攻後ウクライナが頑強な抵抗を継続していること、さらに一部では反攻に出ていることを見ると、すでにロシアによる単なる「侵攻」という呼び方は適切ではないように思う。旧ソ連がナチス・ドイツに対する戦争を「祖国防衛戦争」と呼んでいるように、今回の戦争はすでに「ウクライナによる祖国防衛戦争」と見るのが適切であると思う。
 2月24日のプーチン・ロシアによる侵攻以降のウクライナの人々の犠牲と苦難は、テレビ報道の画像を見ているだけでも涙が出てきそうになるが、それでもウクライナの皆さんの直面する苦痛をどれほど感じることができるか、甚だ心もとない限りだ。さらにウクライナの人々がその祖国と肉親を思うその気高い郷土愛と同じものを、我々日本人が今後持てるだろうかと考えた時、中々確信が持てない。それほど、この21世紀の20年代において稀有のものだと思う。

 ロシアは、旧ソ連時代、さらにその前の帝政ロシア時代でも、筆者の知る限り、その領土の外で戦った戦争で勝ったためしがない。第二次大戦で旧ソ連は連合国の一員として戦勝国となったが、ソ連軍がドイツ第三帝国に勝利したのは、有名なレニングラード攻防戦を含めそのほとんどがソ連国内での戦いであった。フランス革命後ナポレオン軍がモスクワを攻めた時も、ロシア帝国はこれを撃退したが、このときも冬将軍に負うところが大きいとはよく言われることだ。日露戦争では日本海海戦で惨敗を喫したが、これもロシア帝国の領土の外であった。旧ソ連はアフガンにも侵攻したがここでも戦闘は長引き泥沼化し結局は撤退した。一方で、ロシア国内に他国が攻め込んできたときは「祖国防衛戦争」として膨大な犠牲を払いつつも、ロシアの人々は強靭な忍耐力をもって勝ち、他国の侵略を跳ね返してきた。ロシアは、強力強大な軍事力を維持しているが、歴史を見ると、守るに強く、攻めるに弱い国のようである。(いくつか要因を考えることができるが、それはまた別の機会に。)
 今回のウクライナ「戦争」では、プーチンは「ロシア帝国」内での軍事作成と考えているふしがあるが、ソ連崩壊後は国際法上明らかにウクライナは独立国となったのであり、さらにウクライナ人の自己認識でもウクライナは明らかにロシアの一部でないようだ。(このウクライナ人の意識は、8年前のロシアによるクリミア併合後より強固に自覚されてきたようだ。)つまり、プーチンの自己認識はどうであれ、プーチン・ロシアは「他国」に攻め入ったのである。
 さらに誠に皮肉なことに、今回のプーチンの戦争はロシアの安全保障を求めて侵攻したものの、ウクライナというロシアの領土外に攻め込んだもので、上に概観した歴史が繰り返すとするなら、結局ロシアは自国領土外でのこの戦争に勝てない可能性が高い。
 衝撃的な2月24日の軍事侵攻後の戦況を現在(4月6日)まで見てきて、やっとこのように、ある確信をもって「ロシアは負ける、あるいは勝てない」と思えるようになった。ウクライナの人々の苦痛を苦悩はこれからもしばらく続くであろうし、それはそれでとても言葉で連帯を叫んだだけでは足りるものではないが、そろそろ、ウクライナの人々のためのことも含めて、「戦後」の姿を考え、さらに「戦域外」に住む庶民の一人として、その「戦後」に何が出来るか、また、何をしてはいけないか、を考えてみるべき時期に至ったように思う。    (2020年4月6日記)


東京大空襲の命日に、ウクライナの人々を思For struggling Ukurainian People, what now we can do.

2022-03-11 22:38:59 | 払暁半刻
以下は、昨日3月10日東京大空襲の77年目を期して、私の友人にあてたメールです。

「 今日は、東京大空襲の犠牲者の77回目の命日です。
また、ロシアがウクライナに軍事攻撃を開始して2週間が過ぎました。これまでの経緯を新聞報道などで見聞きしていると、いくつかはっきりしてきた点があるようです。
1. 今回の軍事侵攻はロシア国民を情報統制に置いたままで行われている、ロシア(という国)による戦争というよりも、「プーチンの戦争」であること。この点は、同じ情報統制が効いていた戦前の日本やドイツ第三帝国の国民感情とはいささか異なるように思います。開戦の正否は別として、当時の日本やドイツの国民には戦争致し方なし、あるいは開戦を歓迎するムードが(少なくとも開戦から1年以上の期間)ありましたが、今回の侵攻でロシア国民はプーチン統制下のニュースを一方的に与えられているだけです。

2. プーチンはウクライナへのの要求を、戦況が長引くにつれ、軍事攻撃の開始当初よりもむしろ、より妥協困難なものにしています。自らハードルを上げているといっていいでしょう。
 当初予想していた制空権奪取ができればウクライナは”降参”するだろうという予想に反して、戦況が、ウクライナ国民が頑強な抵抗を維持して、国民全体が不屈の意思を示しているほど善戦している状況になるにつれて、プーチンの要求はより高くしてきています。この点は、注目するべき点です。私は、これはプーチンのコアな支持者(旧KGBを中心としたプーチン政権を取り巻く利益共同体の支持者を納得、結束させるためのものだと見ています。
 また、このため、プーチンは軍事行動を自ら終結させることが益々困難になっています。

3.対する西ヨーロッパ諸国、米国とNATO(以下「西側」)ですが、西側は明らかに、この戦争をロシア対NATO(米国込み)の戦争にしたくないという意思のようです。これには二つくらい理由がありそうです。(1)一つは、戦域をウクライナとその東側に限定し、現NATO諸国の国内にまで拡大させたくないという(おそらく潜在的なヨーロッパ諸国民の願い)もの。(2)二つ目は、ロシア対NATOの戦いになった場合、核兵器使用のリスクが大幅に高まること。(すでにプーチンは核兵器使用の準備を整えるようロシア軍に指示しています。) たとえ最初に核兵器使用をしたのがNATOではなくロシアであったとしても、ロシアに核兵器を使用させた直接の要因がNATOの判断と行動にあったという非難を受けたくないこと。

4.今回、プーチンは大国の禁じ手である「核の脅し」を見せつけているのは明らかです。例えば、ウクライナの原発周辺への攻撃は、例え核兵器を使わなくても原発を爆破すれば核兵器の代わりになるのだぞという暗黙の脅しではないかと私は見ています。つまり、プーチンは核攻撃(の相互抑止力n論理を逆手にとって、これを人質として、米国やNATOの軍事介入の楯にしています。これは、明らかに核保有国の「道義的責任」の放棄、禁じ手です。これに対して米国もNATOも有効な軍事的な解決策を持っていません。同時に、プーチンの軍事行動が何らかの形で収束を見た後でも、プーチンがその政権に留まる限り、ロシアはまともな(信用できる)貿易相手国、国際政治のパートナーとは見做されないでしょう。

 以上のような結果、例え今後ウクライナ(の一部かもしれない)がロシアの要求どおりその属国になるか併合されるかしてロシアの軍事的・政治的なテリトリーになったとしても、ウクライナとその周辺地域はかなりの長期にわたって政治的にも軍事的にもかなり不安定な状態(準内戦状態)にとどまる可能性があると思われます。
 全世界の国々に対して実際に核攻撃の脅しをかけた権力者が、「さあこれからは平和の時代です、なかよく貿易を致しましょう。LNGはお望みの量供給しますよ。」とニコニコしても、さて、誰がその笑顔を本物の友好の証と信用するでしょうか。
 プーチンの頭の中は分かりませんが、ロシアの安全保障について西側の保証を「軍事的に」勝ち取ろうとする、あるいはロシア単独で自分が安全保障だと思う状況を作り出そうとして発動した今回のウクライナ侵攻は、その根本のところで自己矛盾をきたしていたように思います。核攻撃の脅しをかけ、大国であれば余計に順守に厳格であるべき国際法を破り、ウクライナ国民を締め上げ、ロシアのエネルギー供給に依存していた西側ヨーロッパをその意の沿わせようとしたプーチンは、その根本のところで、道(安全保障の戦略)を誤っていたとしか思えません。
 
さて、とはいえ、今後西側はどのような対抗手段、方策があるでしょうか。特効薬は全て第三次世界大戦というリスクがあり過ぎて選択できそうにありません。ウクライナを今後長期にわたって支援すること、またそのために、西側は西側だけで自己完結的に経済活動ができる「自立経済」を目指すしかなさそうに思えます。
 特に「エネルギー供給の自立」を確保することは重要です。エネルギーの面で自立して初めて、今回の軍事行動が終結した後も長く続くであろう、ロシアの”脅威”と”要求”を抑止あるいはコントロールできると思います。それは単にロシアの主要な外貨獲得源を無に帰すだけではありません。また、軍備はその観点から言えば、どちらかと言えば、兵器の高度化よりは、より戦闘能力が長期にわたって持続可能となるように、備蓄とロジスティックスの確立に重きを置く軍備の充実に力点を置くべきだと思います。華々しく最新兵器を装備しても、その数と供給力が見劣りするようでは、床の間のお飾りとなってしまいますし、相手方により軍拡の動機を与えてしまいます。(戦前の日本を教訓にするべきです。超大型戦艦はかっこよかったけれど、肝心の燃料が無くてはどうしようもない。結局無謀な賭けに出ざるを得ませんでした。)
 20年くらい前の話でかなり前の話で恐縮ですが、自衛隊の燃料備蓄は1週間程度、と聞きました。1週間軍事行動するとパタリと行き足が止まってしまう、というのです。
 今回のプーチンに対して日本が自分で出来る喫緊の対策は残念ながらほとんどありませんが、上記のような長期的不安定さに対処するために、今後日本はエネルギー供給の自立に向けて地道な努力をしてゆくべきです。幸い、日本海があって地理的には明確な〝境界”があり、民族的にも明確な違いがありますので、ロシアとの人的、地理的境界は明確です。その利点を最大限生かすためにも、ゆめゆめ、エネルギー面で脅しをかけられるべきではありません。国立公園内の地熱開発を解禁する、日本近海に埋蔵される豊富なメタンハイドレイトの実用化を推進する、海岸線にそった風力発電開発を推進する、各家庭でも可能な風力・太陽光発電を普及させる等々、効率と価格を多少犠牲にすることは覚悟して、国内産エネルギーの開発・増加に努力するべきです。(その点、原発は電力会社の怠慢で、その安全性確保が未だ完全ではなく、稼働基数がほんのわずかというのは情けない限りです。)(ちなみに、国内産エネルギー開発のための技術投資や設備投資は経済活動の活性化に直結していますし、国内産エネルギーを開発・利用促進してその分石油などの輸入エネルギーへの依存を減らすことは国際収支の面からも効果絶大です。炭素排出量も抑制することになります。) 日本は数十年前には石炭から石油へ大胆なエネルギー転換を実行できたのですから、今こそ海外産エネルギーから国内産エネルギー重視、増加に大いに舵を切るべきです。

 プーチンは、この20年、暗殺や逮捕拘禁などのかなり強引・暴力的な手を使って国内財閥のトップを旧KGB人脈に入れ替え、批判的なジャーナリストもパージし、政権基盤を固めた上で、憲法改正を行ってきました。いま思えば「皇帝」になるための布石を着々と打ってきたわけです。さらにその体制の本質的な行動原理は日本の組織暴力団と大差のない「脅しと独善」の体質」であることが今回はっきりしました。彼や旧KGBの”エリート”がいくら偉大なロシア帝国も復活を夢見ても、また、仮に今後「強い」ロシアが実現できたにしても、それは、ピョートル大帝が思い描いた「偉大なロシア」とは似ても似つかない国です。第一、プーチン一党は他のどこの国からも信用されない状況を自ら作りだしてしまいました。経済的にも人々の交流の面からも国際的な相互依存が進展してきた21世紀に、唯我独尊で大嘘を平気で公言する”強大な”国と仲良く付き合いたいと希望する者が大勢現れるでしょうか。

 中国は、ひょっとすると今回のロシア・ウクライナ紛争をのプーチンを観察していて、今後よりスマートに立ち回るようになるかもしれない。あるいはここ10年取ってきた戦狼外交は「正しい」方法であったと再認識しより強力にこれを推し進めるかもしれない。

 日本の外交も軍事的努力も、今後全く新しいフェーズに突入するように思います。それは単なる従来型の軍事力強化ではない「軍事力強化」、もっといえば、外交とか軍事とかの境目なしにより巨視的、長期的に我々日本人の安全保障観を総合的に進化させるものでなくてはならない。金ばっかり喰って、結局米国などの高価な兵器を輸入して装備予算の多くを外国に吸収されてしまったり、出来あがった兵器体系が日本の安全保障の実情に合わない張り子の虎であったりすることがあってはなりません。そのためには、領土を守ることに固執するあまり外交が縛られてします安全保障から、日本人と日本文化、日本的なるものの安全と持続を日本の実情に合った形で保障する安全保障への進化も必要であると思います。
 ウクライナの人々の”平和”の真の回復には、ひょっとすると今後10年、20年かかるかもしれない。それでも、天は自ら助けるものを助ける、という格言にそって、例え限られたことであっても自分でできることを少しでも手助けしてあげる、そんな日本であってほしいと思っています。政治的にも開かれた自由な体制を強固に作り上げること、さらにエネルギー自立を基礎に、国際関係を重視した公正な貿易と行動で世界各国からリスペクトされること、これらが全てロシアのようなならず者国家に対して効果的な言動をすることができる基礎です。そして、ウクライナの人々のためにもロシアにモノ申せる、というものです。

(こうして書いて来て、これらは、なんといまの無力感の裏返しであろうかとも思います。しかし、第三次世界大戦を見ないための子や孫のための長く地道な努力の始まりにしなくてはいけません。)


「参加することに意義がある」五輪精神再考

2021-07-08 22:23:08 | 払暁半刻
以下は、独り言である。主体的に関わっていない以上何を言っても無責任な言い様になりそうで、その点が気掛かりなのだ。だから、独り言ということでご容赦いただきたい。

 五輪はとうとう無観客開催となるようだ。
 クーベルタンの言葉かどうかは詳しく知らないけれど、子供のときから「参加することに意義がある」というのがオリンピック精神だと教わってきたし、運動音痴な僕はそのことにいつも少し安堵感と居場所を感じてきたものだ。
この「参加する」とは、選手が大会に参加することだけではなくて、オリンピックの会場に見に行く人、テレビで見る人、仕事をしながらレースの結果を気にかける人、そんな選手ではない観客側の人も等しくオリンピックに関心を持ち気持ちの上だけでも「参加する」という、その気持ちが大切なんだということなのだと、僕は勝手に理解している。
 オリンピックはだからみんなが参加する「祝祭」なのだ。盆踊りの列に飛び入り参加するときのあの高揚感と一体感を感じたいと切実に思う人恋しさ。そんな気持ち。オリンピックは祝祭なのだ。金メダルだけではない。レースで敗れた選手であっても、全力であったか、自分の限界に挑戦したか、とただそれだけを見たいがためにオリンピック競技を見ている人は案外多いのではないか、と思う。

 かつて、オリンピックを国威発揚の場にすり替えた「不届き者」が第二次大戦前のドイツにいた。その後、オリンピックは多くの国の指導者や官僚にとっては国威発揚、スポーツ関係者もその勢いに乗って「メダルの数が全て」みたいになってしまったけれど、それだけじゃない。
 戦後、悲惨な戦災からの復興と平和の象徴になって、しかもテレビ中継でみんなが試合を見られるオリンピックが戻ってきたとき、オリンピック精神は祝祭として再定義されたのだ。日頃生活が大変で望んでも中々手に入らぬ平安と安らぎと幸福感をオリンピックの開催中だけは味わえる、そんな祝祭の一瞬。

 しかし、今回はいささか様相が異なる。飲食店や音楽関係などは緊急事態宣言で耐えるに耐えるしかない。若者だってワクチン接種を後回しにされて、とても「みんなで一瞬でも祝祭で夢見よう!」というわけにはいかない。 主催者側で働く人の多くも、見通しの立たず状況が急変する中、目の前の難題をちぎっては投げ、ちぎっては投げ、残業残業の毎日かもしれない。 出場する選手だって、最高のパフォーマンスをと意気込んでも、観客がいないゲームでモチベーションを上げなくてはならないし、そもそも、このコロナ禍とコロコロ変わる事態さえ無かったら、自分が代表になれていたかもしれないと(もちろん基本的に他人のせいにはしたくなくても)忸怩たる思いの選手も多いのではないかと思う。

 そんなこんなで、今回は、みんなで祝祭に参加しようという熱気の失われたオリンピックになる可能性大である。これはコロナが去ったら自然に元に戻るかな? おそらく今後、IOCはオリンピック開催の存在意義を再考せざるを得ないと思う。ただでさえ、商業主義だ、お金がかかり過ぎだ、開催候補都市が少なくなってきた、といわれる中、このコロナ禍中の東京大会はオリンピック運動の大きな転機になるように思う。
 原点に帰れ! 髭のクーベルタン男爵はそう言うのではないか。もちろん、先見性に富み祝祭空間をよく理解していた彼なら、オリンピックファミリーと言われる特権的なグループにも「時代が違うだろう。21世紀はすでに貴族の時代でもないし、これを機に少しは考え直したらどうだ」とも言うに違いない。

 それにしても、昨年の延期決定から1年。この1年は貴重な1年だった。「延期」だから時間との勝負であることは最初から明らかだった。昨年から今年の7月をターゲットに時間を逆算して、ワクチンの準備に先手を打ちつつ、人とものと金と時間の無理無駄をなくして機能させ、計画的活動閉鎖をしていたら、と悔やまれる。そのためには、国会は与野党あげて法を臨時的に期限付きで改正して制度的手当をし(なにせ五輪は国家イベントなのだから。もっと言えば新型コロナは文字通り掛値なしで全国民すべてが関わらざるを得ない事態だから)、官僚は頭を柔らかくして、直面する新事態に発想の大転換して国会議員の先生方のご注進する必要があったかもしれない。

 新型コロナだけだろうか。線状降雨帯にミイラレタラ、大洪水になる可能性は日本中どこの町でも十分にありそうだし、60年以上関東には大地震が起こってないけど地震だけは洪水の時期には待ってくれるという保証はどこにもないわけだし。東シナ海をはさんでお隣の国々では、戦後70年以上(世代にして2世代)も経ったのに何等の民族的進歩もないように考え方は先祖帰りしてしまったようで、「強国だ」「強国だ」と、現代における真に強い世界帝国とはどのようなものであるかも分からずに、19世紀的アナクロな「富国強兵」を主張しているし。

 菅さん、この秋の総裁選や衆議院選挙の戦術に頭と時間を使うより、そんなことはさっぱり断捨離して、これらの難題の解決方法に正面から取り組んで政治の真剣勝負をした方が、選挙の得票率は多分確実に上がりますよ。そんな捨て身になれるかな。    (2021・7・8)