運転は安全かつスムーズに目的地まで走る事が目的です。
ハンドルの回し方や、アクセル、ブレーキの操作は安全かつスムーズに走る為の手段となります。
運転指導者が陥りやすいのが、うっかり目的を見失った手段に拘る事です。
ちゃんと曲がれているのに、ハンドルの操作方法が悪いとか、そこでアクセルを踏むのはダメだとか、ブレーキが違うと指導したりするのです。
本来、もし安全かつスムーズに曲がれたのなら、その方法は目的を達成している訳ですので、間違いとは言えないのではないでしょうか。
少なくとも、与えられた条件を充たす為の方法であった事は間違いありません。
別の事に例えてみると解りやすいのですが、野球はヒットやホームランを打つことが目的ですが、もし、ある選手が変で個性的な打法でホームランを打てば、目的を達成したのですから、手段は変に見えても正しかったという事になります。
ただ、問題は一年を通していろんな投手に対してもホームランを打ち続ければという事になります。
でなければ、たんなるまぐれとなります。
運転で言うなら、どんなシチュエーションでも対応できるのであれば、その方法は手段として間違いないとなるのです。
しかし、教習所やペーパードライバーのスクールで見かける練習では、目的を見失って手段について論じる姿なのです。
目的を達成できなかった理由として手段が論じられるべきなのに、手段の形式が独り歩きしているのです。
よく見かける、きれいなハンドル操作でふらつく方なのですが、私は、きれいに回そうとするからですよ、とアドバイスしています。
目的は、ハンドルをきれいに回す事ではなく、きれいなライン取りで車が曲がる事なのですから。
免許を取得するときの教習所の練習は、まさに形式的な手段の集合体だった訳なのです。
これを、目的を意識した手段にしないと、本来の運転とはならないのです。
日本には、古来からの形式美というものが存在しますが、それは目的が達成された後の話なのです。
車が安全かつスムーズに動くための操作が確立されても、それに満足することなく形式的な美しさまで求める事にその意味があるのではないでしょうか。
形式美の前に合理的な操作方法を身に付けたい時にはフジドライビングスクール東京で