三日坊主の備忘録

書いてみてわかる自分の気持ちにびっくり

ファイテンガール 〜Miss Lee〜

2022年09月27日 | 日記



ファイテンガール、本日最終回。
やっぱり 備忘録しておきたくて
再び書くことにした。

私は保育士だった。
家族の心配をよそに市役所の正職員を寿退社して実家を離れて新天地に赴いた。
自分の子は自分で育てたいから、専業主婦を選択した事に後悔は無い。
子どもに親にしてもらい、子どもといっぱい遊んだ。
やがて手が離れて、保育園幼稚園のパート勤めを始めた。
お給料も仕事内容も勿論老後の備えも雲泥の差である。
6年ほどして、新規の障がい者施設の職員に応募してみてはと薦めてもらい、正規職員となった。
保育士は障がい者施設勤務する者も多く、私も保育園と障がい者施設実習で学ばせて頂いた。
「障がい者が働く」
今からおよそ38年前、その概念はまだ珍しく、多くは作業所と呼ばれ家族会の手弁当や病院のリハビリの一環として運営されていた。

このドラマ ファイテンガールを見ていて当時のことが沢山思い出された。

地元の企業のご理解と援助を頂き、作業所は協力工場の一つとなった。
ドラマのような大企業のエゴイズムは無い。障がいを持って働くみんなのペースを掴み、出来る範疇の仕事量を請負う事が許された。

施設では利用者をメンバーと呼び、メンバーは自分の働く場が出来たと口に出して喜んだ、
生活の場としての施設とは違い、自宅から通い、ここはメンバーの会社






この日の乾杯の音頭に最高齢の彼女が指名された。戸惑う。


どうしよう、ええい‼️

これは、演技だけど、私はこの笑顔を作業所でたくさん見た❣️
作業所では若い人から高齢者まで
それぞれができる仕事をした、補い合えた。
任される、自分のやるべき事がある事の素晴らしさを教えてもらった。


協力工場の誇りとして、不良品を出さない、納期を守る。
初めは無理の無い仕事量を選択していたから、慣れてくると直ぐに仕事が無くなる。
次の納期まで、趣味やお楽しみ行事を楽しみましょうと職員として誘うが、どの面々も、元気がない、覇気がない。
会社に掛け合って何とか仕事がもらえ、私は軽トラで部品を取りに行く。
そんな私を、いや、そのトラックをメンバーは待ち構え、作業所に到着するなり走り寄って積荷を協力して下ろしてくれる。
まさに、この写真のようにメンバーは嬉々として集まった。






そして、真剣に、でも朗らかにまた作業が始まる。

いろんな事があった。
町のイベントに参加した。メンバーが手作り品を販売し、地元の婦人会や青年会議所、ライオンズクラブやロータリークラブが支援してくれて、その機会も増えた。そしてだんだん顔馴染みとなり、メンバーがその縁で就職したりすることもあった。

一方で不良品が出た時、
メンバーが、体調を崩した時、
ドラマでは無いけれど、もうだめかもしれないと思うこともあった。
ドラマではダメ社長のように演出されていたけれど、私には重みがあった。

「洞窟かと思ったらトンネル、それが人生だ」と。
「トンネルは幾つもある。」

「もうダメだと思った」

「でも俺も会社も死ななかった」

実際はそんなに簡単では無いけど、
この粘りと頑張りが大切だと。
私には足りなかった。

大企業の上司が若い社員に

「私のように妥協したり」

「退いてはいけない」

「最後まで屈することなく耐えろ」

グサリときてしまった。



そしてこれも、良い言葉だった

「気に入った人とだけ働けない」

「必要な人と働くのが会社だよ」


ドラマの中での言葉一つ一つが当時の思い出と重なり胸に沁みた。

母親が一生懸命に働くと
どうしても家庭に歪みが生じる


この女性のように、私も子どもたちに淋しい思いや不便をかけたけど、
ありがたいことに、一生懸命に働いた後ろ姿は伝わってくれていた。
ドラマの社員さん達の家族とのショットが嬉しい。




その時には分からないけど、伝わるもんだな。



当時、保健所が管轄していた事から専門家は保健師。私はすることなす事、素人だからと叱られた。
当時国家資格が創設され一回だけ受験資格を得たが、不合格。再度挑戦するには大学卒業資格が必要だった。保育士の専門学校では不可。
夫の転勤を口実に逃げるようにその職場を去った。






それから、転勤地においてその時の悔しさを晴らすべく大学の通信教育を受けさらに数年後専門職の資格を取得した。
丁度、このブログを始めた頃で、当時ブログで知り合った方達に励ましていただいた。

時代は変わり作業所は現在支援施設となり、その支援も多岐にわたる。
私は、作業所勤務より公的機関での勤務が多くなり、さらに沢山の経験を積ませて頂いた。しかし、根本はこの最初の作業所経験からメンバーさんから多くを学んだ。
私にとって、その時のメンバーさんとの思い出が、元気の素であった。

今ではテレビの力もあってその無理解は減ったものの、やはり障がいがある故に孤立し困難を抱えている問題はあり、またご家族の苦しみもある。
障がいがあっても無くても、人は尊重されると自信が持てる。
前の備忘録にも書いたけれど、このドラマはそれを訴えてくれた。



『諦めずに頑張ったかいがあったわ』

残念。私にはそれが言えない。


付録



小手先で、状況を打破しようとする彼女に対して
『今からでも遅く無い、生き方を変えなきゃ』と。
正直、私はこのタイプのような気がする。










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