どうも、飛べない豚です。
少ない時間を利用して、就活に関して徒然なるままに書いていきたいと思います。
今回は上のようなテーマで。
就活デモに関連してよく聞く批判というものがあります。
「就活を批判するなら、就活するな」或いは、「就活するなら、就活を批判するな」
というものです。
確かに、就活の当事者としての学生(自分もそうでした)からすれば、就活に何がしかの問題点を感じつつも就活に対して批判的な物言いをした瞬間、人生の全てから遠ざかってしまうような感覚を抱くことはありうることです。
まして、就活“くたばれ”なんて言ったら最期、その人は自分の人生を諦めたのも同様に思えることでしょう。
しかし、私たちが批判したいものの一つは、まさに上のような就活を所与のものとする価値観なのです。
もし就活というものが、本当に抗うことの出来ない自然力・制度であるならば、私たちは沈黙しなければならないでしょう。
しかし、本当にそうでしょうか?
最近、政府はじめ、企業、マスコミ等でも現行の就活システムを変えようという動き、議論が少しづつですが出てきました。
どうやら、就活に関して何らかの問題があると思っているのは私たちだけではないようです。
そういう意味では以前よりも少しは進展したかと思っています。
しかしそれだけでは足りないとも思っています。
なぜなら、議論しているのはいつも大人達だからです。
就活の一番の当事者である学生の生の声抜きに、腹に一物抱えた大人たちの議論のみで根本の問題の解決になるのでしょうか。
学生はただ受身で、選ばれるだけの道具的な存在ではありません。
人格をもち、自分で決めた人生を歩む権利をもった存在です。
就活の構造的な問題に異議申し立てをする権利は学生の側にあってしかるべきです。
就活では学生は常に「主体性」や「一歩前に踏み出す力」を要請されます。
しかし、大学生のある一時期に横並びのスタートを切って、その時期に内定を逃したら即失業者として社会に放り出される、
そんな就活制度の下で、首に輪っかを付けられた状態で、学生が本来の主体性を発揮することなどできるのでしょうか。
半ば強制的な仕方で自分の未来を人質に取られて、一歩前に踏み出す勇気を持っている学生はどれだけいるでしょうか。
社会に問題関心をもって、深く考えている学生ほど、今自分が置かれてある就活という状況に疑問を持たざるをえない状況です。
そんな中、批判的な意見すら言えない状況は端的に社会として不健全といわざるをえません。
今こそ就活の当事者である学生が、就活そのものを批判的に議論する場が必要なのではないでしょうか。
デモはそのきっかけに過ぎないと考えています。
正直に言います。
私たちはもはや“くたばれ”に拘泥しません。
なぜなら、“くたばれ”といってくたばるほど就活は単純なものではないし、現実はもっと多様だからです。
これからは就活に関わるあらゆる立場、意見をもつ人との議論を通して、共通の問題意識を模索し、
学生の側からのより建設的な訴えをしていくことを目指しています。
しかし一方で、やはり私たちは素直な感情として叫ばずにもいられないのです。
「就活くたばれ!」
と。
それは当事者の生の感情として、私たちの出発点として大切にしていきたいものなのです。