アオの国から~徒然日記~

TRPG&ゲーム感想・日々の感想・映画&アニメ&漫画感想・歴史(主に長宗我部関係)等、私的趣味の気の向くままに。

県立図書館再び!!

2010-07-14 22:17:38 | 戦国
 今日の休みは雨も降るので、少しドライブしてから大人しく箱物めぐりになりました。ちょうど県立文学館という県立図書館の隣の建物で『土佐の国主-長宗我部氏と山内氏の三百年-』という特別展示会(会期:7/9~9/30)が開催されていましたので、それを見に行きたかったので、この機会に行けとばかりに行って来ました!!

 お目当ては以前にも少しブログに書きましたが、島親房の御子孫の方が大切に保管してきた資料を山内家資料館に寄贈し、その寄贈資料をこの展示会で幾つか公開されると広告にありましたので、まさにそれ!でした。
 もう、家系図の前で目を皿にし(笑)、何度も確認しながら、幼名や字名がちゃんと書かれてある、元親の子供達で母親が誰なのかちゃんと書いてある~とひとしきり堪能。長宗我部地検帳(重要文化財)も生で見れて良かったですよ!!
 そして、やはり時代というか、年齢の齟齬があるな、と思いました。御子孫の方、長宗我部友親さんが執筆された『長宗我部』にもあったのですが、親房が死んだ年齢と、大阪の陣以降、山内家に身上書を出し、入牢後山内家に使えた島五郎右衛門の年齢が妙に一致しないのです(爆)。現代まで続いてきた血統を否定するわけではありませんが、親房と身上書を出した五郎右衛門の間にもう一代あったのではないのかな…と素人なりに推測してみたり…。
 どの本で読んだかは忘れましたが、吉良親貞には何人か息子がいて、内二人はここでもつい最近話題に出した、吉良左京進親実&吉良播磨守親正の兄弟。あと、もう一人吉良親英という息子がいたらしいです。これは地検帳に吉良五郎or島五郎という記述があり、島五郎右衛門と同一人物ではないかと書かれていたのを読んだことがあります。

 と、いうわけで実父・親房の死後、伯父・親貞の養子に入り養育され吉良家の下で元服した。しかし、その後義兄・親実の時に吉良家は元親の命により断絶、もしかしたら親英も咎を受け切腹or蟄居を命じられたかもしれない。しかし、元親にとって可愛がっていた末弟の血脈、吉良家の養子だからと罪に問うたが、親房の血統である赤子にまで罪を問う事を元親は行わず、島家に戻して家名を継がせた。親英は吉良家の関係者であったため、親房の死亡年齢と齟齬が生じるが、親英の存在は闇に臥され、その息子である五郎右衛門は親房の孫としてではなく、息子として家系図に残された…。


 などと激しく妄想してみました(爆)。

 
 研究者でないから、かなり無責任な妄想並べてすみません…。が、アマチュアとはいえ、創作好きの性質が騒いでなりませぬ。歴史の真実は大切ですが、その時代に生きておらず、その人物でもないから、全ての真実を知るということは不可能ですが、真実と妄想のそのあたりのバランスが難しいですね……。




 歴史の真実と言えば、今回も面白い本を見つけました。これは郷土資料コーナーにある各市町村の郷土史、その郷土史からの派生した本でした。
 それは元親の妹婿であった、波川玄蕃頭蘇我清宗についての本でした。

 一般に元親関連の資料本から見るに、この波川清宗は妹婿でありながら、伊予の長宗我部方の武将・大野氏の救援を元親命じられて千二百人の軍勢を率いて大野氏の下に駆けつけたが、清宗は元親の指示を得ずに勝手に寄せ手の小早川軍と和睦を結び、清宗が軍を引き上げると大野氏は一気に攻められ、無念の内に討ち死にした…とあります。
 この失態に元親は大いに怒り、それまで与えていた幡多郡四万十川中流域の領地と城を取り上げ、本領である波川葛木城(現いの町波川に城跡あり)に蟄居させた。
 清宗はそれまでも元親の妹婿である事に驕り高ぶり生活も贅を尽くしていた。その生活が蟄居でなくなると、恨みを持ち酒色に溺れ領民を苦しめた。そして事もあろうに元親への謀反を起こそうとした。しかし、これは長宗我部家中では誰も賛同せず、賛同者は一条内政と清宗の娘婿である伊予の紀親安のみだった…。清宗は露見した時、親泰を頼り阿波海部城まで走り、高野山に入り僧になる事で許しを求めたが、元親は許さず、その場で切腹を命じた。清宗の兄弟子息は元親に許すと言われたものの、家名の為と城に立てこもり悉く討ち死にをした…とあります。

 が、今日見つけた本は、この清宗の謀反に関しては、元親の謀略以外の何者でもない、というものでした。自らの第一次四国平定戦の失敗を認めることなく、その苛立ちと家中の不協和音のの矛先を波川清宗に向けた、という論調。とはいえ、最後の方は守護大名がいなくなり、戦が続く群雄割拠する時代の被害者は庶民であって、元親が統一戦を行った事により、四国で戦は無くなり庶民は安堵を得た事を考えるに、やはり一角の人物ではあった、と評されていましたが…。
 少しずれましたが、再び波川清宗に戻って…今残っている資料(土佐物語等)から見るに、波川清宗が長宗我部方についたのは、親貞が高岡軍に侵攻してからのもの、一条氏や本山氏の勢力が削がれてからというものですが、清宗の嫡男が死んだ年齢は天正八年(1580年)で18歳。
 と言う事から逆算すると1560年初頭には波川清宗と元親の妹は婚姻関係にあり、さらに朝倉城にいる本山氏の背後をつく形で長宗我部氏と波川清宗が婚姻関係を結ぶのは、抗争状態に陥った後では不可能。(波川氏の本領・いの町波川は朝倉城から西側、仁淀川が波川を隔てているとはいえ、距離的には岡豊城よりずっと近く、戦争状態に陥った時には真っ先に叩かれるのは必定)。なので、国親在命時に婚姻を結び、長宗我部家の準一門衆になったと書かれていました。
 確かに、いの町在住の高齢者から、いの町中心部付近にあった音竹城は長宗我部軍に攻められ陥落し、城の下を流れていた川の淵に多くの者が身を投げて死んだと聞きました。この音竹城は朝倉城からの峰続きの山の頂上にありました。それを考えると、朝倉城の背後を守る城であり、攻めてきた長宗我部軍は波川清宗率いる軍であることは間違いないと思います。地元の話も含めて、資料よりもこちらが本筋ではないかと思ったりしますね…。
 元親近辺の資料ではどうしようもない人物として波川清宗は書かれてありますが、波川氏最期の抵抗では家臣や領民が死ぬ事を承知で長宗我部軍三千に対して二百五十六人で抵抗し、みな討ち死にしたと記録が町史に残っていますし、もし、記述通りのどうしようもない人物なら、謀反人の不名誉、誰も味方はなく、ただ死ぬだけの戦いにこれだけの人数での抵抗はなかったと思います。
 正直、この波川清宗については私も勉強不足でしたわ…(泣)。どうしようもない人物を元親が家中に引き入れるわけは無いと薄々は思っていましたけどね…。

 しかし、こういうのを読んでいくと、色々想像が生まれ、パズルが埋まっていく感じがします。元親は土佐を統一しましたが、その過程でどういう動きをしたのか。元親近辺の親族や家臣は資料が表にも出やすいので、出版物でも確かめられますが、その隙間にある小さな村やその領主達がどういった過程で土佐統一戦に動き、目に見えにくい小さな隙間を埋めていったのか……。多くの人命が失われた事実もありますが、生まれた場所の歴史を埋めていく確認作業のようで…ワクワク?といった感じでしょうか。

 また、元親という人を良い面でも悪い面でも目を逸らすことなくちゃんと見て、評価する事が出来るのは後世に生まれた人間の特権だと思います、はい(笑)。


 ちなみに、この波川清宗とその妻・養甫尼についてはプロ小説作家・山本一力さんが書かれているそうです。まだ連載途中らしいので、本になるのはいつかわかりませんが、出版されるなら読みたいですねv伝え聞いたところではなんでも、元親、悪役っぷり発揮だそうです(笑)。

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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ありがとうございます (長宗我部友親)
2012-12-10 22:44:58
お読みになっていただきありがとうございます。ご指摘どうりです。五郎左衛門とは誰なのか。長宗我部元親の一族であることはその息子の重親が明記しているので、そうだと思います。島の籍に入ったことも。しかし、五郎左衛門本人の残したものはまったく見つかりません。推測するに、それは幕府に知られると困るし、山内、幕府とも知っても本当のことは知らせたくなかったのでしょう。親房と五郎左衛門の間には「秘密」があるのは事実です。ずっと、頭に隅に残っていることです。あまりかってな推測は避けましたが、何かわかりましたら、お知らせいただけるとありがたいです。興味深く読ませていただきました。
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再びですみません (長宗我部友親)
2012-12-10 23:56:42
参考に、山本一力さんの小説「銀子三枚」を読んでみてください。なかなかよく出来ていて文芸家協会からも推薦されたものです。五郎左衛門の謎が深まります。お書きになっている説の方が現実的ですかね。ほかにも説はあるのですが、定まるような書付は出てきていません。與助(先に重親と書いたのは私の勘違いで、すみません)の差出もすごく慎重に書かれていますしね。このあたりはもっと、探ってみます。
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こ、このような所にお越しいただき、ありがとうございます。 (坂崎)
2012-12-12 00:48:48
 こちらの方では初めてになるかと思います。先日の長宗我部慰霊祭で、隣に座り津野親忠について話していたのが私です。
 親房と五郎左衛門の間の一代、私としても非常に気になるところではあるのですが、研究者ではありませんし、血縁でもありませんので(当たり前・汗)、友親さんがお書きになっている『長宗我部』や土佐史談会の冊子を読み、自分なりに解釈→想像や妄想、と言った次第です…。もし、何かわかりましたら、図々しいとは思いますが、よろしければ教えてくださいませ。

 山本一力さんの小説は知りませんでした。また探して読んでみますね。

 
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