前々から、書いていましたが、去年の2月にちらっとみた「木の元の祠に津野親忠の位牌がある」という一文より、探し続けたその場所。ようやく見つけることができました!!でも、そこで判明したのが、かなり私の中で記憶がごちゃ混ぜになっていたという事実(爆)
と、言うわけで何とか探し出しましたよ~茶己さん!!
この日は休みで朝早くから、すでに檮原町へと出発。途中でモーニングしながらもなんとか9時半には檮原到着。まずは前回、カメラを忘れていて取れなかった三嶋神社のハリモミ…通称:朝鮮松を撮りに三嶋神社に向かう。まだこの時点では快晴で、空の青と松の緑が良く映えましたvもちろん、神社にお参りしてから写真を撮ったのですが…手を洗う事を忘れていました…。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/e2/9dbd67d50f7376ce826ab2daa5ec6693.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/37/e8b83e6847f244b262f1d684282bb1e7.jpg)
鳥居のすぐ後ろにある、大きな木がハリモミです。写真ではわかりにくいのですが、境内にある他の木とは明らかに違います。親忠が朝鮮から帰ってきたのは慶長の役の最終和議がなってからの帰国とありますから、親忠が持ち帰って約424年になります…。その間、ずっとこの地であった事を観てきたのでしょうね…。親忠がこの地に植樹したのはまだ苗木だったのかしら…とふと思ったり。
あと、この三嶋神社自体も由来が古いんですよね~。高知は実は意外と三嶋神社や熊野神社からの勧進が多いのです。特に檮原は三嶋神社系が多いのです、はい。ちなみに…神馬さまはちょっと怖かったです(悪い意味ではなく、デザイン的な意味で・苦笑)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/39/f47ca5fd599dc6ea77b612f55925a336.jpg)
その次は津野家の菩提寺ともいえる吉祥寺へ。ここは知らなかったのですが、書き込みしてくださる茶己さんの一文で菩提寺と知り、また地図を見ると三嶋神社とさほど離れていなかったので、訪れてみました…ら、法要が営まれていましたので、境内には入らず、門外から手を合わせて、写真を撮らせていただきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/a0/190f270a953b9b46ac40ef2d11c6a256.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/26/7cedd60abdc063fef7daf25ae3c9360d.jpg)
親忠の命日には”孝山祭”として、毎年津野家代々の慰霊も行っているのですね…。山内家も入っているのはびっくりしました(笑)。山内家に厳しい取り立て受けたのもこの檮原なんですけどもね…。勤王党の那須信吾も檮原の庄屋だったし。
さて、一通り廻ると、次はいよいよ檮原町役場へ!!まずは地域産業課に殴り込みをかける!!…ら、やはり木の根元にに親忠の位牌を治めたという祠は聞いたことが無いと言われました…つか、そもそも町職員自体が
「孝山公…?え、津野親忠って誰ですか?」
町内に13カ所残っている(最盛期は290カ所近くあった)『茶堂』に弘法大師様と山神様と一緒に祭られている”孝山公”の事ですヨ!!だからわざわざ孝山公と最初に言ったのに~~~!!そして、なぜか町職員に津野家の話や長宗我部家の話をし、悲運の最期を遂げた元領主の話を延々とする…。が、やはりその手の話は知らないと言いながらも、調べて下さる。そのうち、檮原町立歴史民俗資料館に連絡も取り、さらに高齢者運動会のリハーサルに来ていた土佐史談会の御爺様にも声を掛けられて相当な人員を巻き込んでの調査となりました。図書館に移動し、郷土史関係の本を全部出してくださる。
個人的趣味で調べているという私に嫌な顔一つされず、さらに教育委員会まで巻き込んだところで、私自身がある事に気づく。記憶が曖昧だったため、はっきりして居なかった部分がだんだん鮮明になってきました…。
そう、あの時、私は親忠に関する資料を読みふけっていました。だから、一つの情報に対して、尾ひれ葉ひれが付いて来ていたのでは?という疑念が生まれてきました。と、言うのはまず、『茶堂』に祭られていた三霊神(弘法大師・親忠・山神)の一文、親忠は領民の多くが慕っており、位牌をわざわざ『茶堂』に置き、茶堂以外にも神社や寺に置いた事。津野山神楽と言う県の無形文化財に指定されている神楽に親忠の霊を慰めるために造られた舞がある事。それらの記事が頭の中でごちゃごちゃになり、結果…
「…檮原の領民が親忠が自害した岩村寺から位牌と取り寄せ、木の元に祠を創ってそこに位牌を祭った」
という文章が発生したのではないかと。実際、檮原町史で親忠を調べると、位牌の事は色々書かれてあります。そして…木の元という一文はどこから出てきたのか!!と目を皿にしていると、町職員の方が出してくれた「檮原町の文化財」という本を手にすると、何かデジャブを感じる!!本の裏には地図が載っている!!だんだん、この本だったような気がしてきた!!実はこの本、カウンターの箱の中に「持ち出し禁止」として置かれてあり、他の本が上に乗っていて、パッと見ただけではある事に気づかない位置にあったのですよ!!真面目に郷土資料コーナーしか見ていなかった私には完全なる盲点!!
読み進めるうちに、とうとう「木の元」に関する一文を発見!!それは『夫婦椋』という二対の椋が生えている所があり、その下には元々お寺があったのだが、今はそのお寺はなく庵寺のみ、そしてその中に親忠の位牌が安置されていると…
ついに判明しました!!多くの町職員を巻き込み、さらに運動会のリハーサルに来ていた史談会の方も巻き込み発見しました。本には住所が載ってあり、その住所は最初の地域振興課で聞いてくださいと言われ、再び地域振興課へ…と、カウンター越しの職員机で応対してくれた職員2~3人ほどが檮原町史を読み込んでいるのを見る(笑)。津野親忠に関して調べていたようです。
とにかく、判明したことを告げ、住所がわかったから教えて下さいと話し、住所を伝えると…町史を読んでいた若い男性職員の祖父の家の真上だと判明(驚)!!確かに、何かお堂があったが、由来は知らないと話され、今度行った時に祖父に聞いてみると言われていました…。ともかく、詳しい道のりと道の状態を教えて下さり、車を置く場所も教えてくれたので、逆に絶対っっ!普通なら不安に苛まされて、引き返してもおかしくないような場所でしたが、無事に辿りつけましたvv
場所は初瀬地区初瀬本村にあり、国道197号線を県道に入り、川井地区を通り過ぎてまっすぐ道なりに初瀬・四万十町方面に向かいます。そのうち大きな工場が見えてきますが、それを通り過ぎて右側に「はつせ橋」という橋が見えてきます。橋のたもとには「初瀬神社」があります。このはつせ橋を渡り、道なりに進むと土砂置場が左手に見えてきます。もう、この辺りから舗装道路ではなく、未舗装の道になります。土砂置場を過ぎるとそのまま山へ入っていく真っ直ぐな道と、左側に降りていく道が見えます。車を止めるには一旦左へ降りる道を通り過ぎてから止めた方がベスト。この辺りから、木の間に立つ庵が見えます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/44/99eebd9501704b447915f61fce607b22.jpg)
とても、静かな場所でした…。近づくと縁の下から鳩が二羽、飛び出してびっくりはしましたが(笑)。周りは山と川、近くに採石場の石置き場があって忙しなくショベルカーが動いていましたが、それも気にならないほど、静かな場所。目の前には田んぼと畑、民家は一軒だけ(職員さんの祖父宅)。緑の匂いの濃い、良い場所でしたvv
庵の中までははっきり確認できませんでしたが、静かに手を合わせてきました。また、誰かが清掃をしているのか、周りの草は綺麗に刈り取られ、落ち葉も綺麗に掃き掃除されていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/7d/aff4ee3ea72fab493718096ae3ad66ab.jpg)
これがその夫婦椋。檮原の文化財と言う割には説明看板もなく、ひっそりとここに息づいていました。看板など不要、ただ、自然にあるがままに…。
周囲を散策して、帰途に着く。と、ここで引き返すのも楽しくないと、通った事のない国道439号線を通って四万十町へと出てみようと思い立つ。はつせ橋を渡り、県道を南へと向かっていると…対岸の庵と夫婦椋をみて、一枚納めさせていただく。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/6c/45b1fc738978671ae0c9c55baf866881.jpg)
秋には赤や黄色に彩られるのだろうか…。
さて、ここまでは順調だった道のり!!何の問題もなく、国道に入る!!…が…やはり四国の400番台の国道は酷道です…。
いっておきますが、下記の写真は国道です!!国道439号線です!!町道でも村道でもないですよ!!?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/38/80941dcc5b47dcd48556b8efd91b4bf0.jpg)
国道なのに車一台分の車幅しかなく、白線すらない(笑)。もう、こんな高知が大好きですvvv
この後、高知市まで引き返し、県立図書館に行って「土佐史談会誌173号」を熟読しました。この回号は津野氏の特集で、親忠について詳しく記されているのですvv中平氏との関係や、藤堂高虎との関係までありましたねvつか、藤堂さん、宇和島に居たってことは…なんか檮原に来てそう…実質的に距離も100キロ離れていないし、当時としても3~4日あったら行き来できる距離だしね…。
と、言うわけで何とか探し出しましたよ~茶己さん!!
この日は休みで朝早くから、すでに檮原町へと出発。途中でモーニングしながらもなんとか9時半には檮原到着。まずは前回、カメラを忘れていて取れなかった三嶋神社のハリモミ…通称:朝鮮松を撮りに三嶋神社に向かう。まだこの時点では快晴で、空の青と松の緑が良く映えましたvもちろん、神社にお参りしてから写真を撮ったのですが…手を洗う事を忘れていました…。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/e2/9dbd67d50f7376ce826ab2daa5ec6693.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/37/e8b83e6847f244b262f1d684282bb1e7.jpg)
鳥居のすぐ後ろにある、大きな木がハリモミです。写真ではわかりにくいのですが、境内にある他の木とは明らかに違います。親忠が朝鮮から帰ってきたのは慶長の役の最終和議がなってからの帰国とありますから、親忠が持ち帰って約424年になります…。その間、ずっとこの地であった事を観てきたのでしょうね…。親忠がこの地に植樹したのはまだ苗木だったのかしら…とふと思ったり。
あと、この三嶋神社自体も由来が古いんですよね~。高知は実は意外と三嶋神社や熊野神社からの勧進が多いのです。特に檮原は三嶋神社系が多いのです、はい。ちなみに…神馬さまはちょっと怖かったです(悪い意味ではなく、デザイン的な意味で・苦笑)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/39/f47ca5fd599dc6ea77b612f55925a336.jpg)
その次は津野家の菩提寺ともいえる吉祥寺へ。ここは知らなかったのですが、書き込みしてくださる茶己さんの一文で菩提寺と知り、また地図を見ると三嶋神社とさほど離れていなかったので、訪れてみました…ら、法要が営まれていましたので、境内には入らず、門外から手を合わせて、写真を撮らせていただきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/a0/190f270a953b9b46ac40ef2d11c6a256.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/26/7cedd60abdc063fef7daf25ae3c9360d.jpg)
親忠の命日には”孝山祭”として、毎年津野家代々の慰霊も行っているのですね…。山内家も入っているのはびっくりしました(笑)。山内家に厳しい取り立て受けたのもこの檮原なんですけどもね…。勤王党の那須信吾も檮原の庄屋だったし。
さて、一通り廻ると、次はいよいよ檮原町役場へ!!まずは地域産業課に殴り込みをかける!!…ら、やはり木の根元にに親忠の位牌を治めたという祠は聞いたことが無いと言われました…つか、そもそも町職員自体が
「孝山公…?え、津野親忠って誰ですか?」
町内に13カ所残っている(最盛期は290カ所近くあった)『茶堂』に弘法大師様と山神様と一緒に祭られている”孝山公”の事ですヨ!!だからわざわざ孝山公と最初に言ったのに~~~!!そして、なぜか町職員に津野家の話や長宗我部家の話をし、悲運の最期を遂げた元領主の話を延々とする…。が、やはりその手の話は知らないと言いながらも、調べて下さる。そのうち、檮原町立歴史民俗資料館に連絡も取り、さらに高齢者運動会のリハーサルに来ていた土佐史談会の御爺様にも声を掛けられて相当な人員を巻き込んでの調査となりました。図書館に移動し、郷土史関係の本を全部出してくださる。
個人的趣味で調べているという私に嫌な顔一つされず、さらに教育委員会まで巻き込んだところで、私自身がある事に気づく。記憶が曖昧だったため、はっきりして居なかった部分がだんだん鮮明になってきました…。
そう、あの時、私は親忠に関する資料を読みふけっていました。だから、一つの情報に対して、尾ひれ葉ひれが付いて来ていたのでは?という疑念が生まれてきました。と、言うのはまず、『茶堂』に祭られていた三霊神(弘法大師・親忠・山神)の一文、親忠は領民の多くが慕っており、位牌をわざわざ『茶堂』に置き、茶堂以外にも神社や寺に置いた事。津野山神楽と言う県の無形文化財に指定されている神楽に親忠の霊を慰めるために造られた舞がある事。それらの記事が頭の中でごちゃごちゃになり、結果…
「…檮原の領民が親忠が自害した岩村寺から位牌と取り寄せ、木の元に祠を創ってそこに位牌を祭った」
という文章が発生したのではないかと。実際、檮原町史で親忠を調べると、位牌の事は色々書かれてあります。そして…木の元という一文はどこから出てきたのか!!と目を皿にしていると、町職員の方が出してくれた「檮原町の文化財」という本を手にすると、何かデジャブを感じる!!本の裏には地図が載っている!!だんだん、この本だったような気がしてきた!!実はこの本、カウンターの箱の中に「持ち出し禁止」として置かれてあり、他の本が上に乗っていて、パッと見ただけではある事に気づかない位置にあったのですよ!!真面目に郷土資料コーナーしか見ていなかった私には完全なる盲点!!
読み進めるうちに、とうとう「木の元」に関する一文を発見!!それは『夫婦椋』という二対の椋が生えている所があり、その下には元々お寺があったのだが、今はそのお寺はなく庵寺のみ、そしてその中に親忠の位牌が安置されていると…
ついに判明しました!!多くの町職員を巻き込み、さらに運動会のリハーサルに来ていた史談会の方も巻き込み発見しました。本には住所が載ってあり、その住所は最初の地域振興課で聞いてくださいと言われ、再び地域振興課へ…と、カウンター越しの職員机で応対してくれた職員2~3人ほどが檮原町史を読み込んでいるのを見る(笑)。津野親忠に関して調べていたようです。
とにかく、判明したことを告げ、住所がわかったから教えて下さいと話し、住所を伝えると…町史を読んでいた若い男性職員の祖父の家の真上だと判明(驚)!!確かに、何かお堂があったが、由来は知らないと話され、今度行った時に祖父に聞いてみると言われていました…。ともかく、詳しい道のりと道の状態を教えて下さり、車を置く場所も教えてくれたので、逆に絶対っっ!普通なら不安に苛まされて、引き返してもおかしくないような場所でしたが、無事に辿りつけましたvv
場所は初瀬地区初瀬本村にあり、国道197号線を県道に入り、川井地区を通り過ぎてまっすぐ道なりに初瀬・四万十町方面に向かいます。そのうち大きな工場が見えてきますが、それを通り過ぎて右側に「はつせ橋」という橋が見えてきます。橋のたもとには「初瀬神社」があります。このはつせ橋を渡り、道なりに進むと土砂置場が左手に見えてきます。もう、この辺りから舗装道路ではなく、未舗装の道になります。土砂置場を過ぎるとそのまま山へ入っていく真っ直ぐな道と、左側に降りていく道が見えます。車を止めるには一旦左へ降りる道を通り過ぎてから止めた方がベスト。この辺りから、木の間に立つ庵が見えます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/44/99eebd9501704b447915f61fce607b22.jpg)
とても、静かな場所でした…。近づくと縁の下から鳩が二羽、飛び出してびっくりはしましたが(笑)。周りは山と川、近くに採石場の石置き場があって忙しなくショベルカーが動いていましたが、それも気にならないほど、静かな場所。目の前には田んぼと畑、民家は一軒だけ(職員さんの祖父宅)。緑の匂いの濃い、良い場所でしたvv
庵の中までははっきり確認できませんでしたが、静かに手を合わせてきました。また、誰かが清掃をしているのか、周りの草は綺麗に刈り取られ、落ち葉も綺麗に掃き掃除されていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/7d/aff4ee3ea72fab493718096ae3ad66ab.jpg)
これがその夫婦椋。檮原の文化財と言う割には説明看板もなく、ひっそりとここに息づいていました。看板など不要、ただ、自然にあるがままに…。
周囲を散策して、帰途に着く。と、ここで引き返すのも楽しくないと、通った事のない国道439号線を通って四万十町へと出てみようと思い立つ。はつせ橋を渡り、県道を南へと向かっていると…対岸の庵と夫婦椋をみて、一枚納めさせていただく。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/6c/45b1fc738978671ae0c9c55baf866881.jpg)
秋には赤や黄色に彩られるのだろうか…。
さて、ここまでは順調だった道のり!!何の問題もなく、国道に入る!!…が…やはり四国の400番台の国道は酷道です…。
いっておきますが、下記の写真は国道です!!国道439号線です!!町道でも村道でもないですよ!!?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/38/80941dcc5b47dcd48556b8efd91b4bf0.jpg)
国道なのに車一台分の車幅しかなく、白線すらない(笑)。もう、こんな高知が大好きですvvv
この後、高知市まで引き返し、県立図書館に行って「土佐史談会誌173号」を熟読しました。この回号は津野氏の特集で、親忠について詳しく記されているのですvv中平氏との関係や、藤堂高虎との関係までありましたねvつか、藤堂さん、宇和島に居たってことは…なんか檮原に来てそう…実質的に距離も100キロ離れていないし、当時としても3~4日あったら行き来できる距離だしね…。
何回も何回も読んだのに…(T_T)
盲点でした……。
30日に姫野々城跡行って、梼高の文化祭行ってから、私も行ってみます!
でもまさか、梼原の方も知らなかったとは…
せめて津野親忠の名前だけでもしっちょいて欲しかったです(^_^;)
かくゆう私も興味がなかったので知りませんでしたが(苦笑)
坂崎さんに会えて良かったです(^^)
ありがとうございます!
これからもよろしくお願いしますm(_ _)m
遅くなりましたが、ありがとうございます!何とか自分の中の記憶違いも整理できて、無事に見つけることができましたvもし機会があれば行ってみてください。とはいえ、庵寺の中は暗いので、はっきりと位牌らしきものは見えませんでしたが(泣)。でもでも、とっても空気の美味しい綺麗な場所でしたvv
それと、吉祥寺の事も教えて下さり、ありがとうございます!これは私も知らなかったので、ありがたかったですv
こちらこそ、これからもよろしくお願いしますvv
あ…30日の報告も楽しみにしています♪
意外と、高知の人は長宗我部家に付いて知らない人が多いんですよね~。特に元親については「他の三県に攻め入った残虐な侵略者」としか認識していない高知県人もいますし(苦笑)。広い視野で観たら、時代こそ違えど、元親と龍馬は良く似ているんですがね(汗)。
でも、津野親忠の事を知ってくれる方が増えるのは嬉しいですねvいわゆる悲劇のプリンス☆という方ですからね~。
どうしても元親の子というと、『信親』と『盛親』が先に来てその二人だけが語られますが、その陰に隠れて実は非凡な人だった…と思われます(史料が少ないから、断定は・笑)