アオの国から~徒然日記~

TRPG&ゲーム感想・日々の感想・映画&アニメ&漫画感想・歴史(主に長宗我部関係)等、私的趣味の気の向くままに。

兄弟話④と言いつつ、むしろ香宗我部親泰。

2010-07-31 23:42:46 | 戦国
 香宗我部って、普通にPCで打ち込んで変換したら、『香曽我部』と出るんですよね…。元をたどると”宗我部郷”という地名からですから、『長宗我部』と同じ字が良いと私は思っています。でも、PCは変換してくれない…なので、いつも”長宗我部”と打ち込んでから、”長”を”香”に変えています(笑)。


 いきなり名指しで親泰を指名(笑)。吉良親貞についての記事も実は書いてあるんですが、色々あって先に親泰。親泰も好きなんですよ?吉良親貞と同じように元親を助けて支えた縁の下の力持ち。そして、性格も一番バランスが取れているような気がします。幼い頃から期待されない長兄と、期待されまくりの次兄を間近で見て育ったから、自分のあるべき立場とか早い内から理解できていそうで(笑)。


 その親泰についてですが、彼は親貞と同様に元親の片腕となり、高知県東部の支配と阿波方面の軍司令官として転戦、同時に織田信長や徳川家康、本多忠勝と言った名将達と交渉し、軍事面外交面で元親を支えます。
 しかし、秀吉の四国征伐後、彼の名が挙がるとすれば安芸城の城主としてその地方で施政を行い元親を支えたこと、元親が秀吉の命によって他国へ出兵する時にその留守居役として代役を務めたこと、元親の名代として親泰の嫡男・親氏が文禄の役に向かったが、その戦いの中病没し、親泰が変わりに朝鮮へ向かう途上、長門で病没したこと。
 
 …戸次川の戦いで信親が討ち死にし、その後元親は人が変わったと言われる。継嗣決定の評議の場において四男の千熊丸(盛親)を「信親の娘と娶せる事で継嗣とする」と宣言し、「長幼の序列を無視すれば和が乱れる」「叔父姪の婚儀はいかがなものか」と道理を持ってそれを諭した吉良親実と比江山親興を叛意ありと自刃に追い込み、その一族郎党、果ては友人達にまで血の粛清を行った元親。
 その粛清を一門衆の実力者として黙って看過していたのか、と言う疑問が沸いて出てきて止まりません。親実は兄・親貞の嫡男であり親泰の甥、親興は従弟にあたります。今まで見た資料の中では、継嗣問題の評議の場や粛清に対しての親泰の行動はありません。それは一門衆の最高実力者(1588年時点では血の近さと年齢からみて恐らく間違いないかと)として当主の暴走を止めようとはしなかったと同じ事を意味します。

 元親の判断を「良し」とし、それ故に何も行動をしなかった……。でも、本当にそうなのか?という思いは拭えません。

 少なくとも、物事の本質と、水物で流れていく情勢を多少のブレはあっても的確に判断する能力がなければ、外交・交渉面で上手く渡り歩く事はできません。また、親泰も心穏やかな人物との評価はあります。多くの者に頼られ、慕われたとも言われます。

 
 …これまた、私の妄想の域ですが…(苦笑)。

 継嗣問題における元親の判断の正しい面、正しくない面というのを親泰は理解できていたのではないかと。
 正しい面と言うのは私の想像でしかないけれど、秀吉の長宗我部家に対する干渉を避けるために、秀吉との何らかの接点を持つ親和と親忠を避けたような気がします。自らの跡継ぎは自らが育てる、と言った意思表明ではなかったかと。
 そう考えれば一見横暴な様でいて、冷静に対処している。しかし、だからこそ、親泰の目には幼い頃から見てきた兄が明らかに変わったと写ったのではないでしょうか。以前の…土佐統一戦や四国平定に向かう兄は家臣と領民の幸福の為と言い、家臣と領民の意見を良く聞き入れていたのではないかと。もちろん、最終的には元親が判断しますが、独断では決してなかったのではないか。
 けれど、四国平定と天下の夢は秀吉の前に破れ、失われた多くの家臣・領民の命に報いることもできず、戦いの途上で父と弟二人を失った。それでも、まだ信親と言う希望と、それまでに共に戦った福留隼人や本山将監も周囲に残り支えてきた。しかし、それも戸次川で失った。
 夢と希望を失った元親は、冷静に状況を見ながらもどこかが歪み壊れていたと思います。冷静であればあるほど、その壊れと歪みは大きくなる。それまでも怒りに囚われた元親が残虐になる事は親泰は理解できていた(佐喜浜攻略と海部城攻め)。けれど、正論と道理を説く相手にまでその残酷な仕打ちをした事は人心との乖離を起こす。

 親泰は兄の仕打ちを見て、長宗我部家の将来を悟ったのではないかと思います。思ったのなら、兄の為、これからの長宗我部家の為、意見するのが本当でしょう。けれど、それをしなかった。今の兄に意見したところで待っているのは吉良家と同じ結末だとも悟ったんではないでしょうか。そして、親泰は香宗我部家を潰す事は良しとしなかった。
 親泰が香宗我部家に養子に来たことで、一人の人間が死んでいます。それまで当主だった香宗我部秀通。戦国の世に一人の人間の命なんで軽いものです。でも、十代前半の初陣もまだの親泰にとって、それは背負う初めての命ではなかったかと思います。家名を背負うのは現在とは違うとても大きな事だといいます。戦国の習いとはいえ、無理やり奪った家名を無謀な事で潰してはならない、という思いが働いたのではないのでしょうか。まして、秀通の遺児三人の内、息子二人は姓を変え、家老として自分を恨む事無くずっと良く支えてくれていました。そして娘は自分の正室でもある。
 それでも…元親がどこか壊れてしまったとはいえ、生きている内はただ一人残った弟として支えていこうとしたのではないのかな、とも思う。香宗我部家を潰す事無く、兄を支えていく生き方は、周囲に保身と映ったとも思えるし、平坦なものではなかったと思います。
 
 …そう思いながらも、親泰は元親が死んだ後は香宗我部家は長宗我部家に殉じるような生き方は説いてなかったような気もします。もし、元親が親泰より先に死んでいたなら、親泰は後継者問題で久武親直と真っ向からぶつかった様な気がする…。
 武将としての軍事的な才覚は盛親にあったかもしれないが、天下の趨勢が決まってきた段階で大事なのは軍才ではなく、内政面。情勢を読み解き、外交交渉の術を持たねばならない。同時に領民にも家臣にも信を得る心根を持つ。そうなると、盛親は本人の所為で無いとはいえ、親実と親興、その近しい者たちの多くの命が失われ、背後に奸臣・親直が控える。きつい言い方だが、負の側面が強い盛親には長宗我部家中すべての者に対しての求心力はない。
 一方、津野親忠は自らが治める領民には信頼を得ており、藤堂高虎を介して中央にパイプを持つ。領民の為に上方の経済学を学び、それを領地経営に反映させ地域経済の安定を図って実績もあげている。それに継嗣問題で同情も家中にはある。
 長宗我部家の元外交官として、親忠と盛親を比べた時、親泰はもしかしたら元親の死後、久武と対決し長宗我部家の後継者を津野親忠としたかったのかもしれない…。だからこそ、久武は関ヶ原敗戦後、香宗我部家が親忠を擁立するのを恐れて盛親を焚きつけて、親忠を殺したかもしれない…とか考えたりもします。
 元親より親泰が長生きしていたら…というのはもちろん、IF話であり、妄想といえば妄想ですがね(苦笑)。

 ただ調べた資料からするに、香宗我部家の筆頭家老・中山田泰吉は関ヶ原開戦前に徳川家康に対し、「香宗我部家は長宗我部家と関係なし」と書状を送り、盛親関ヶ原出陣に際しても参戦していません。その約定を守った事で感謝の手紙も徳川方からもらっています。そして、長宗我部家改易後、香宗我部家当主であった当時9歳の貞親(親泰次男)は長宗我部の血を引いていることから土佐追放を命じられますが、その守役として泰吉の甥が付き添い、香宗我部姓を名乗る事を許されないまま関西方面で35年もの間流浪します。その間、大阪の陣もありましたが、やはり土佐に残っていた香宗我部家の旧臣達は動きませんでした。
 そのためか、長い流浪生活が終わり、仕官した大名の元で貞親は香宗我部姓を名乗る事を許され、家名は復活しました。
 …ただ、貞親は生活が安定するまで妻を持たず、子供も女子しか生まれなかった。そして貞親の孫の代では養子を入れて家名を存続させたものの、親泰の血統はここで絶えます(涙)。
 

 色々語りましたが、やはり、長宗我部元親とその兄弟達には惹かれるものがありますね…。

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