アオの国から~徒然日記~

TRPG&ゲーム感想・日々の感想・映画&アニメ&漫画感想・歴史(主に長宗我部関係)等、私的趣味の気の向くままに。

うむむむぅ…現在、小説停滞中…(汗)

2011-12-08 02:20:09 | 創作戦国(長宗我部家中心)
 待っている方がいるかどうか全くわかりませんが、信親と親正の小説、ちょっと詰まっています(汗)。書きたい事は決まっているのですが、それをどう表現しよう等々、頭を悩ませています。…まあ…結局、仲が良い従兄弟同士な話なのですがね(爆)。
 と、言うわけで。この記事のひとつ前のブログ記事で背中を押していただけましたので、今回は親正の事もあり、吉良親貞周りの設定を出してみようかと思ったりしたわけです、はい。


 坂崎の長宗我部氏創作小説における周囲の設定について

 吉良親貞編~!!  ( )内は史実確認が取れていないので、創作名前になります。【 】内は史実には登場せず、推測によるオリジナル創作人物です。
 
 吉良親貞   童名:(松王丸)  通称:(弥五郎)  官職名:左京進・播磨守〈両方ともに自称〉
 [父:長宗我部国親 母:【吉良氏系の娘/お瓔の方】]
 [正室:吉良宣直娘・(綾)]
 [(綾)所生/長男:新十郎親実  次男:(弥五郎)親正  長女:永吉飛騨守室/(波留)  次女:大黒親周室/(結有)]
 [養子:真西堂如渕《父:本山氏 母:(綾)》 五郎左衛門親英《父:島弥九郎親房 【母:(初)】》  本山采女《兄・親茂死亡後、本山家に復帰》]

 
 吉良家に関しては、親貞の長男・新十郎親実が元親の命で切腹させられてから、お家断絶となり詳しい事は実はわかりません。親貞も元親の土佐統一に大きな功績があったものの、その菩提寺やお墓はどこにあるかすら不明です(涙)。土佐市・蓮池城下の東側にお寺があったので、そこが吉良家の菩提寺だったという説はありますが(現在は民家が建っている)、山内家が入ってきてからそのお寺は今の高知市蓮池町に移ったとされ、その後廃寺となっているので、そこで足取りが消えています…(号泣)
 親貞の子供達に関しては、正室である吉良宣直の娘がすべて生んでいるという記述はないので、もしかしたら側室生まれもいるかもしれないです。でも、側室がいたという史実もないのですよね~。親貞真面目そうだから、正室オンリーでも良いような気がするので、皆正室生まれにしました(笑)。子供達の数は土佐史談会会誌や長宗我部氏を研究しているサイト様等々から設定させてもらっています。とはいえ、長女に関しては、親実切腹に連座させられた形となり殺された土佐神社の神職・永吉飛騨守の妻が親実の妹だった、という記述が土佐物語にあるだけで、史談会やサイト様の家系図には書かれていないので、実在したかどうかは不明です。

 そして、親貞は養子が多い(笑)。
 一人目:真西堂如渕
 彼も親実に連座させられて御坊様なのに切腹しました(ただ、足摺に逃れたとする説もあります)。色々な本や資料で「親実の異母兄弟」「親貞が吉良家を継ぐ前に出来た子」と言うものが多いのですが、長宗我部家を記した土佐物語に「親実の種違いの兄」とはっきり記述されている事と、生まれが1561年でありこの頃はまだ吉良家は本山家の支配下でしたから、母親は吉良宣直の娘で、父親は本山氏とみるのが正しいかと…つまり、親実・親正兄弟の異父兄になります。でも兄弟仲は良くて、如渕さんはお坊さんの修業から帰ってきてからも親実の屋敷にしょっちゅう出入りしていたらしいです。そして、朱子学にも造詣が深く、親実と共に岡豊で家臣や領民に儒教の講義を開いていたそうです。
 …あと…これは全くの推測ですが、父親は本山茂辰のような気がします。実際、吉良氏の本拠地であった吉良城に入って吉良姓を名乗っていたのは茂辰。他にも本山一門の中で吉良姓を名乗っていた方もいますが、本城に入ると言う事は…という気がするのですよ、はい。

 二人目:吉良親英
 讃岐の金毘羅さんの棟札に、親実の名前と共に記述があるらしいです。土佐史談会会誌によると吉良親貞には親実と播磨守の他に息子がもう一人いたと書かれていましたが、吉良物語を見るには親実と親正(播磨守)の二人だけ。ただ長宗我部地検帳に親英という名前があるらしいです。この方も推測になりますが、おそらく養子で本来の父親は島弥九郎親房、つまり親貞の甥にあたる人物ではなかろうかと。実は、現在長宗我部姓を名乗っている長宗我部友親さん(『長宗我部』という本の著者です)は島親房系長宗我部氏なのです。この方の御先祖は大坂の陣に参戦、何とか土佐に帰って来たものの、家の存続を図る為、正直に山内家に自分は長宗我部家の血統である事を話し届出します。結果、60年近く牢獄生活を送る羽目になります。しかし、大坂の陣に参戦する前に息子がいて、血統は絶える事はなかったのです。牢獄生活の後に信任を得て、島家は郷士として現在に至るまで家を続けることができています。その投獄された島五郎左衛門、山内家に届出した時は26歳…。島弥九郎は1571年死亡…。五郎左衛門は1590年生…。明らかに一代、間の人がいます。その間の人がこの吉良親英ではなかろうかと私は推測。親房死亡後、その遺児を誰が引き取るかと考えた時、確かに一番合理的で問題ないのが、親貞なんですよね~。元親は本家であるので、引き取りたくても引き取れなかっただろうし、親泰は嫡男がまだ生まれていない時期。養子とはいえ、男子がいると後々問題が出てくる可能性が…と、なるとすでに男子が二人いて、引き取りやすい親貞が迎えたと考えてもいいかなと。……この辺りの創作話の構想も実はあるのですよ…ふふふふ…。

 三人目:本山采女
 本山将監親茂の長弟。親貞の甥にあたる。まあ、この方は割愛(爆)。


 なんか、長宗我部家の人々は家族関係を考えるだけでお腹いっぱいになりますvv色々あったでしょうが、基本的に長宗我部家周囲は仲が良さげです。…親貞は元親に色々含むところもあるので、嫌ってそうですが、それもツンデレ領域の気がしてならない…(苦笑)。

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